1987年、安部公房は聖路加病院に、検査入院する。前立腺癌の四期だった。
睾丸摘出手術を受けるように言われ、そのことについて、二人で率直に話し合った。
「初めて安部公房の口から別れたほうが良いかもしれないという言葉も出た。『宦官』について、ふたりで調べたのもこのころだった。関係を続けることでお互い納得しあった。」
ここはさらっと書いてあるけれど、女と男の関係を、ぎりぎりまで煮詰めて、別れないとなったもので、その言葉の奥は深い。
女優と作家の関係から、男と女の関係になり、そして離れることのできない、人間と人間の関係になったのだ。
そのことを、如実に示す逸話がある。
「紫綬褒章の打診が箱根にあった時、私は『ノーベル賞以外は、安部公房に似合わない』と強く主張した。安部公房は年金が付くものなら貰いたいような雰囲気だったが、たぶんこの褒章に年金は付かないはずだ。」
安部公房と山口果林ではなくて、一人の人間が自問自答しているようだ。そして結論は、うまく収まるところへ収まる。
安部公房が68歳で逝ったとき、山口果林は四十代半ば、それから立ち直るまで、十年以上かかっている。
「安倍公房が亡くなって以来、遺族から一切、連絡は入らなかった。蚊帳の外に置かれ、まるで私が存在していなかったかのような世間の空気だった。この間、安部公房の人生から消された『山口果林』は、ひとり生き続けた。」
そうしてついに、山口果林はこの本を書いたのだ。
(『安部公房とわたし』山口果林、講談社、2013年8月1日初刷、8月16日第2刷)
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