文体に冴えはあるか――『ヒキコモリ漂流記』(2)

山田は結局、芸人の養成所もやめることになる。

「人間、ずっと落下していると、はたして自分が本当に落ちているのかさえ分からなくなってくる。もう何もない。ここでも人生の落下を食い止められなかった。また『社会』に入って行けなかった。」
 
社会に入って行くことができないのが、引きこもりの、直接の動機である。でもそれが、なぜ自分に起こるのかは、当事者たる自分には、よくわからない。
 
これは本全体を読めば、父親との関係に、躓きがあったことは確かだ。でもそういう方向へは、話は進んでいかない。
 
途中、今どきの若者の考察があるが、これが面白い。

「よく、『社会の歯車になんかなりたくない』とバカな若者が言ったり、歌ったりするが、歯車になるのも難しいのである。……
 歯車万歳だ。歯車になって親の敷いたレールを走りたいもんだ。」
 
これはもちろん、弱音の極限を吐いたために、矛盾をきたしたもので、親の敷いたレールは金輪際いやだから、こうなっているのだ。
 
でも山田は、暗黙の内に親の敷いた道を、自分が自主的に選んだと思っているのだ。確かに一見すると、自分で敷いた道のようだが、でもそれは、あらかじめ父親が敷いた道なのだ。
 
もちろん父親も、そんなことは一切ない、子どもに過剰な期待はしていない、と言うであろう。でもそれは違う。目端の利く子どもは、親の期待を先回りして、実現しようとするものだ。
 
山田は、そんな父親に、直接歯向かっていくことはしない。実際その衝突は、不毛だと思う。テレビの家庭劇などでは、親子の派手な喧嘩が、山場としてこしらえられているが、現実には、ただただ不毛なだけだ。
 
けれども、子どもの方は、親に関して決着をつけないといけない。というか、親との距離を取らないといけない。そうでないと、子どもはいつまでも、独立した「生活」というものができない。

「まとめると、毎月、最低、五万円~八万円もあれば、僕はとりあえず生活できたのである。食べたいものも食べず、電車にも乗らず、風呂にも入らず、服も買わず、ただ暮らす。はたして、それを『生活』と呼べるのかはわからないが。」
 
山田ルイ53世が、ここまで生き延びたのは、奇跡としか言いようがない。

(『ヒキコモリ漂流記』山田ルイ53世、マガジンハウス、2015年8月31日初刷)

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