続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(5)

この本には、ほかにもユニークな箇所が、わんさとある。

「タイトルを十回とった、勝ち星が千を超えたといっても、その人の将棋がずっと残るかどうかは、また別の話である。信仰の力で、私が指した一手一手には、祈りが込められている。だから何年たっても色あせないのだ。」
 
そうか、加藤の手には、他の棋士にはない、祈りが込められていたのだ。
 
だからその将棋は、「モーツァルトやベートーベンの名曲と同じように、五十年、百年たっても命を保ち続けるという自負がある。」
 
ここまでくれば、ただもう、ははっ、といって頭を垂れるしかない。
 
結局、いい将棋を指すには、コンディションを整える以外にない、という結論になる。

「絶好調の状態を保つために、神様に祈りを捧げ、将棋の研究をして、しっかり食べて、音楽を聴いて、ベストコンディションで対局に臨めば、だいたい名局を指すことができる。」
 
いくつか条件に入っている中で、「しっかり食べて」というのが、あるのがおかしい。
 
また、近年問題になっている、将棋ソフトについては、じつにユニークな意見を述べる。

「将棋ソフトはもちろんレベルが高いが、私は負けるような気がしない。持ち時間が一、二時間では少しせわしないが、それより長い持ち時間があれば必ず勝つ。」
 
AI対棋士は、昨年、佐藤天彦名人が二連敗して、一応決着がついた、と思うが、加藤は、そんなことにはお構いなしで、勝負の哲学を、独自に語る。

「私の見方では多分、将棋ソフトがこれ以上強くなるのは、なかなか大変だと思う。
 ところが、我々人間には、素晴らしい天来の妙手がひらめいて勝つことがある。天来の妙手は人間にはあって、将棋ソフトにはない、私は今でも心の底からそう思っている。
 ソフトはただひたすら読む。計算だけの世界だ。天来の妙手が指せるわけがない。」
 
たぶんソフトと、棋士が対戦すれば、もう百発百中に近くソフトが勝つであろう。しかし、加藤の言っている「天来の名手」は、たしかに人間にしか、指せないものなのだ。人間の指した手で、人が感動するということは、どういうことか。このあたりは、もっと突き詰めて、考えるべきところではないか。
 
そして最後に、藤井聡太の話がくる。「……私は彼の将棋を全部研究して、彼が秀才型の天才であることを悟った。」
 
うーん、これは何を言っているのか。天才にも、いろいろな型があるということか。

「藤井四段も私と同じように、考えれば最善の一手が見つかるという考えの持ち主だ。」
 
これは「絶対」を目指す、加藤と藤井に共通する、ある資質だといえよう。
 
そして最後に加藤は、こういうのだ。

「あの少年が、引退する私に『寂しい』という言葉を送ってくれたことを知り、私は『素晴らしい後継者を得た』と感動した。」
 
やっぱり天才は、天才しか認めないんだねえ。谷川や羽生をすっとばして、藤井四段、いや、今は六段か、この人だけだ。
 
でもやっぱり、謎はそのまま残る。加藤や羽生は、同じ天才ではあっても、対局が終わった後に、「自分はまだまだ足りない」とは言わなかった。これは、どういうことだろう。
 
藤井聡太は、何か絶対の基準があって、自分には足りないところがある、と言っているように聞こえる。それが何か、謎はそのまま残る。

(『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』
 加藤一二三、中央公論新社、2018年2月25日初刷)

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