続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(2)

加藤が大山に、親しみを感じていたように、大山もまた加藤に、気安さを感じていたようだ。
 
あるとき、秒読みに追われる加藤の前で、大山が、「ラジオ体操いち、にっ、さん」とささやき始めたのだ。「いち、にっ、さん」というのは、もちろん加藤の名前を指している。よほどの気安さがなければ、こんな冗談は言えない。

こういうことは、そばにいる人が、ぜひ書き留めておいて下さい。とはいっても、プロしかいなくて、真剣勝負をしているときには、人の冗談を受けている暇はないか。

加藤の升田・大山論は、このあと、最大の山場を迎える。

升田九段は、将棋は突き詰めれば、答えが出ると思っていた。それに対し大山は、将棋に答えはないと思っていた。

大山が恐ろしいのは、ここから先で、「大山名人は結論が出なくても、勝つのは何だかんだといっても自分だと信じていた。」

このへんが、同じ天才でも、よくわからないところだ。

またもう一つ、加藤には、次のように分かりにくいところもある。

「(両巨匠に)何度も完敗するうちに、私もはたと気づいた。
 ……大山名人、升田九段の両巨匠は、形勢がかすかにでも指しやすくなれば、最後までそれを維持し続けて勝っている。つまり将棋にはその局面、曲面で一番いい手があるのだということに思い至った。」
 
いまごろ、そんなことに思い至るなよ、と言いたい。だってそうでしょう。一局の将棋が終われば、感想戦で、こっちの方がよかった、いや、こっちの方が、と侃々諤々やっているではないか。あれは、いったい何なのだ。

しかもこれに続けて、加藤の驚くべき告白がある。

「もし将棋に確かな手、一番いい手があるなら、人生にもきっとあるはずだ。
 ……私はちょっと行き詰っている。このまま行っても先は見えているなと感じていた。
 行き詰っているものは突破できるはずだ。それには方法があるだろうと思った。
 そう思ってカトリック教会の門をたたいた。」
 
どこをどうすれば、将棋の指し手から、カトリック教会の門が出てくるのか。天才の発想は、思いもよらない。

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