長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(1)

これは僕が脳出血で倒れる前に、講談社の部長のМさんが、なんとか瀬戸内さんには命を繫いで、書き継いでほしい、とにかく素晴らしいのよ、と言っていたものだ。
 
九十五歳だから当然、最後の長編小説になる(なるんだろうねえ、たぶん)。
 
そういうわけで、瀬戸内寂聴の本を、初めて読んだ。
 
最初に断っておくと、これは長編小説ではなくて、長編エッセイである。だから帯の「大病を乗り越え、命の火を燃やして書き上げた/95歳、最後の長小説。」は、ちょっと嘘である。

話の大きな筋は、河野多惠子や、大場みな子との、長年にわたる付き合いである。これが結構、スキャンダルであるらしい。
 
河野多惠子のセックスが、かなり歪んだものであったり、大場みな子が、夫がいるにもかかわらず、夫公認で男とセックスをしたりするというのが、あけすけに書かれているのが、大きな話題を呼んだらしい。

あるいはそのために、「長編小説」と謳ったのかも知れない。

瀬戸内寂聴と、河野多惠子・大場みな子との距離は、たとえばこういうものである。

「ある時、講談社へ用があって出かけた時、何階かの廊下に返本の大場みな子全集が山と積まれているのを目撃した。新潮社の編集者の話では河野多惠子の全集もその例に漏れないと言うことだった。」
 
二人との、こういう距離の取り方が、いかにも信頼できる、という感をもたらすのだろう。しかもこれは、二人が生きていれば、無理なのである。
 
一方、瀬戸内寂聴の事情は、切羽詰まったものだ。

「一番情けないのは、腰が弱りきり、物に腰かける姿勢が、五分と保てないことだった。横たわって本を読むことはできるが、ベッドから起きあがって、机に向かうなど、全く不可能であった。」
 
一時はこういうところに追いこまれてしまうが、そこからかろうじて文章を書くまでに復活する。
 
そういうわけだから、内輪の女流の話も、有り難がって聞くべし、ということになる。

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