末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(2)

全体は序章+五部+終章に分けられ、序章の「伝統と近代」で、問題を大づかみにする。

仏教における「近代」とは、簡単に言えば、階層よりも平等を重んじ、地域性よりも普遍性を強調し、教団よりも個人を高く評価しようとするものだ。そしてこれは、進化の過程に到達したものではなく、むしろ、ブッダそれ自身の仏教への回帰だ。

五つの部は、以下のとおり。

「Ⅰ 浄土思想の近代」は清沢満之、曽我量深の「日蓮論」、親鸞と倉田百三が並ぶ。「Ⅱ 日蓮思想の展開」は田中智学と国体論、日蓮と「凡夫本仏論」が並び、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」は、大拙の「日本的霊性」と中国禅思想の理解をめぐって、批判を加える。

ここでは、曽我量深の「日蓮論」をめぐって、「宗派の壁はこえられるか」というのが、非常に面白い。

「混迷する今日の日本で、仏教がその本来の役割を取り戻し、社会に道標を示すことができるためには、宗派の壁を取り払い、仏教界全体として、もう一度その本来のあるべき姿を探求しなければならないのではないか。」
 
これはさらっと書いてあるが、ほとんど革命であろう。そんなことが、本当にできるのか。

「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」では、「大拙批判再考」の中に、非常に大事な一節がある。佐々木閑氏による、大拙批判を引いているところである。

「佐々木は、大拙が『正しい大乗仏教の概念の提示には失敗している』として、『正しい大乗仏教』があるという前提に立っているが、はたして『正しい大乗仏教』などというものがあるのであろうか。」
 
ここは、大拙の批判そのものはおくとして、仏教を論じる場合に、二つの立場が想定されている。
末木先生の立場は、佐々木閑氏とは、相容れない。

「仏教は地域によってさまざまな展開を示すのであり、仏教はその多様性において理解されなければならない。それ故、インドの仏教を『本来』とか『正しい』というのがはたして適切かどうか、疑問である。」
 
これがやがて、「Ⅴ 大乗という問題圏」につながっていく。
 
それにしても、「仏教はその多様性において理解されなければならない」というのは、キリスト教やイスラム教に比べても、かなり難しい問題である。いや、キリスト教やイスラム教の場合も、同じことなのだろうか。

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