文体だけではしょうがない――『銀河鉄道の父』

これは、僕にはつまらない小説だった。宮沢賢治の父親の立場から、一家の消長を描いているのだが、これがなんとも物足りない。
 
賢治の内面まで抉って書いてあって、そこに父の立場から、深いところまで絡んでゆくことを期待するも、大いなる空振りである。
 
べつにこれなら、宮沢賢治でなくてもかまわない。しかし早逝した賢治だと、あらかじめ知っている者が多い。あるいは賢治というだけで、ある読者数が見込める。その数を当て込んだだけとも言える。
 
ただ、文体だけはいい。そして、ほとんどそれだけの勝負になる。

「この生き馬の目をぬく世の中にあって商家がつぶれず生きのこるには、家族みんなが意識たかく、いわば人工的な日々をすごさなければならぬ。家そのものを組織としなければならぬ。生活というのは、するものではない。
 ――つくるものだ。
 というのが政次郎の信条だった。封建思想ではなく合理的結論。」
 
これが、父・政次郎の考えだったのだが、冒頭近くでこんな叙述を読めば、いやが上にも期待は高まる。ついつい前のめりになって読み進めたが、これがどうも、スカを喰らった。
 
宮沢賢治が赤痢で入院し、それを政次郎が、何日も夜通し看病し、治してやる。そのようすを、政次郎の父の喜助が、こういうふうに言う。

「『お前は、父でありすぎる』
 それが赤痢よりも遥かに深刻な病であるかのような、憂いにみちた口調だった。」
 
うまい。それでついつい調子に乗って読み進む。
 
また政次郎が、子供のことで、夜更けて内省する場面がある。
「子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る。そんなことを思ったりした。」

「心の燃料」という言い回しが、心憎いばかりにうまい。それでまた続けて読んでしまう。
 
こういう場面もある。
「ひょっとしたら質屋などという商売よりもはるかに業ふかい、利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった。」

「利己的でしかも利他的な仕事、それが父親」なんて、言われてみればその通りだと思うけど、でもなかなか言えないセリフだ。
 
ただこれは、宮沢賢治の父親である必要は、全くない。
 
まだまだ文章で光るところは、いくらでもあるのだが、賢治や、その妹・トシが描けていないために、一族の絡み、父と子の葛藤という、一番のダイナミックな点に至っていない。
 
門井慶喜は、何よりも文章が大事で、文章をいじっていれば、それで満足しているのだろう。

(『銀河鉄道の父』門井慶喜、
 講談社、2017年9月12日初刷、2018年1月9日第二刷)

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