書かれてあることの、その先を――『飼う人』(5)

四作目は、一作目の出て行く女に対して、それを男から見たとき。ここでは女と男は、徹底的にコミュニケーションの手段がない。
 
いちおう男は、ツマグロヒョウモンの幼虫を取ってきて、飼っている。ツマグロヒョウモンは、タテハチョウ科のチョウである(でもそれがどうした、とついつい言いたくなる)。
 
男は女に対して、結婚生活の当初から、微かな緊張を感じていた。

「そう、多少は緊張した。何をするかわからない女だと思うと、入浴中や就寝中でも完全に安心することはできなかった。体のどこかにシコリのように緊張とか警戒みたいなものが残っていた気がする。
 でも、緊張は、結婚当初から薄氷のように張っていた。」
 
それがつまり、女の孤独であり、心底の疲れであり、想像をたくましくして言うならば、女の哀しみである。
 
男は、そういう女の内面に、踏み込むことができない。

「彼女はきれい好きで家事全般を完璧にこなした。
 朝晩の飯は文句なくうまかった。
 うまいけれど、気楽に食べることはできなかった。」
 
男は、細部はぎくしゃくしているが、それも含めて、女との生活を受け入れている。

「二人の失望が、二人の間に流れ込んで、その空間をコンクリートのように固めていった。
 でも、おれは、日々の生活を、感情が抜け落ちた拘束感と共に受け容れてはいた。」
 
相変わらず文章はうまい。しかし「感情が抜け落ちた拘束感」を、そのままに受け容れるというのは、書くに値しないことだ。
 
第一作目で、現代の女の孤独と疲労を、鮮やかに、本当に鮮やかに切り取った柳美里は、しかしどこへも進まず、そこで立ち止まってしまう。

今の文学が、総じてつまらないのは、結局この地点から、どこへも行かないからだ。仮にその孤独と疲れを、どこまでも突き詰めてみせるにせよ、あるいは女の、社会との関わりを作るにせよ、このところから一歩でも二歩でも、先へ動かさなければ、どうしようもないではないか。そういうふうには思わないだろうか。

オビの文句にいわく、「いまの現実を本気で描いた純文学作品」。たしかに「いまの現実」はよく書けているが、ただそれだけのこと。オビの文句を書いた編集者も、そうとしか書きようがなかったはずだ。

(『飼う人』柳美里、文藝春秋、2017年12月10日初刷)

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