書かれてあることの、その先を――『飼う人』(1)

柳美里は、『命』『生』『魂』『声』の四部作を読んで、それでもう十分だという気がしていた。生まれてくる自分の子と、癌で死んでいく自分の男、その中で身悶えする我が身の、圧倒的なドラマ。私小説は、それでもう十分、という気がしていた。

『飼う人』は、「大波小波」に紹介が出ていたのと、田中晶子が『文學界』でちらりと見て、面白かったと言っていたので、買う気になった。
 
四つの作品からなり、いずれも主人公が何かを飼っている。それはイボタガやウーパールーパー、イエアメガエルやツマグロヒョウモンである。
 
最初は、子どものいない夫婦の話。夫は市役所に勤め、妻は一人称で出来事を記していく専業主婦だ。
 
この女性は、市役所でアルバイトをしていたが、結婚し、「すぐに子どもができると思い込んでいたから、仕事を辞めた。子どもが居ない人生なんて想像したこともなかった。」
 
でも、子どもはできない。そういう夫婦の倦怠感が描かれるが、これが仕事の描写と相まって、気だるい情緒を出色の筆でよく表している。表面はなんということのない、しかし心底疲れた倦怠感を描いて、どきどきするほど文体に張りがある。こういうのは珍しい。
 
いまそういう例を、二、三、挙げてみる。

「・・・・・・『今夜、何がいい?』とわたしは訊ねた。
『え?』夫は訊き返した。
 夫に言葉を訊き返されると、最初のうちは大きな声でゆっくり言い直していたのだが、そうすると、会話をしようという自分の気持ちが急速に萎えるので、何年か前から訊き返されたら黙ることにしている。」
 
これはまあ、巧みだけれど、どうってことはない、とも言える。
つぎは、駅前のスーパーに自転車で買い物に行くとき。

「背後のどこかから舞い降りてきたアオスジアゲハが右腕に止まって、くすぐるように羽ばたいて二の腕まで上がり、視界の後ろへ吹き飛んでいった。
 また夏か・・・・・・
 そう、わたしは、また夏か・・・・・・としか思えない。夏だ、とか、夏が来た、とか新鮮な気持ちは微塵もない。風景から感情が失せてしまったのは、いつからなんだろう。」
 
もちろん子どもを諦めたときから、「わたし」の風景は、感情が失せてしまったのだ。

だから夫との性行為を、具体的に思い描いただけで、とたんに嫌悪感をもよおす。
「何かあったわけではない。何もない日々を重ねたことで全く別のものに変質してしまったのだ。」
 
そんな日々を送る「わたし」が、ある日、オリーブの枝に付いている、派手な毛虫を発見する。

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