内側から見れば――『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』(3)

しかし結局は、血筋なのだろう。長澤さんの祖父も、新しいものに関心が強かったという。
 
父は、旧制浦和中学の十代半ばのころ、謄写版刷りの同人誌を出したりしていた。それらはやがて、「体系もヒエラルキーもない雑多な体験や知識、位相やジャンルの異なるさまざまな人々やことがらが共存」したまま、それが形を変え、歌になっていったのだ。
 
しかし加藤克巳の歌が、一瞬変わったときがある。それは妻を見送った、長澤さんからすれば、母を看取ったときだ。

「難解な歌人」とは裏腹に、このときは、直接的でナマな歌に溢れている。これはどういうことなのか。

「おそらくなるべく具体的に、なるべく直截にいわばベタな表現で歌にすることは、新たに独り者としての生活を立ち上げ、整えるために、父が自ら考えたグリーフケアの処方箋であったのではないだろうか。」
 
この時期の歌を、ぜひ読みたい。長澤さんは、「この一時期の歌が良い歌かどうかは私にはまったくわからない。何しろあまり読んでいないのだから」といわれるけれど、ここは是非とも数首、挙げてほしかったと思う。肉親であることを超えて、加藤克巳の心理の底に、肉薄してほしかったと思う。

いや、大層にいう必要はない。数首挙げておけば、あとは読者が判断するだろう。
 
終わり近く、加藤克巳が亡くなる前の病室で、長澤さんは、俳句雑誌を見ていて、山口誓子の句を、声に出して読んだ。

「蛍獲て少年の指みどりなり」
 
すると、それまでまどろんでいた父が、やにわに反応した。それは「獲て」ではなくて、「飛び」のほうがいいという。つまり、山口誓子を添削したのだ。

「蛍飛び少年の指みどりなり」
 
この違いが、分かるだろうか。微細な差だが、決定的に違う。
 
誓子の句では、少年の手の中のホタルが、指を透かして「みどり」に輝いている。
それに対し、加藤克巳の句では、少年は蛍を獲ったわけではない。少年の指が、なぜ「みどり」なのかは、直接的にはわからない。

「ただ、水辺で輝く蛍を追っている少年の白くて薄い指が、光を映してかみどり色に輝いているように見える、と突き放している。」
 
素直に意味が通るのであれば、それは父の歌ではないと、長澤さんは言う。

「発想は必ず、意味や脈絡を『飛び』こえ、遊んでいるのが私にとっての父なのだった。」
 
この病室の一場面だけでも、この回想には、はかり知れない価値がある。

(『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』
 長澤洋子、短歌研究社、2018年1月8日初刷)

この記事へのコメント