高橋順子と車谷長吉――『夫・車谷長吉』ほか(3)

松下昌弘さん推奨の『贋世捨人』は、大学を出た後、広告会社に入り、そこを辞めて、右翼がやっている左翼の雑誌、『現代の目』に入り、そこも辞めて、料理場の下働きとして関西の板場を渡り歩く。

そしてもう一度、文学の志を立て、「弟にもらった萬年筆一本と、粟田口近江守忠綱の匕首(どす)をふところに服(の)んで。いよいよとなったら、匕首で首の頸動脈を切って、自決する覚悟」で、上京するところまでを扱う。
 
いいところはいろいろあるが、たとえば左翼雑誌『現代の目』の編集部がある現代評論社を、次のように言うところ。

「何かいびつに『空気の死んだ会社』だった。」
うーん、これはうまい。
 
あるいはまた、こういうところも。
「現代評論社が借りているのは、その大きな倉庫の片隅であって、そこにもう何年も前の『現代の目』や、売れる見込みもない単行本が散乱していた。右翼の武器と左翼の言葉が一つの建物の中に同居しているのである。」
 
車谷が友人と、文学について話をするところも読ませる。小説中では車谷は、「生島」という名前で登場する。

友人が勤務する精神医学研究所の中を歩いていると、患者が釣糸を垂らして、風呂桶の中を一心に見つめている。そこで患者に、何か釣れたのか、と声をかける。すると患者は「馬鹿ッ、風呂桶で魚が釣れると思っているのかッ」と、血走った凄まじい目で怒鳴る。

それを見た友人が、「生島」にこう語る。
「小説を書くというのは、この男のように狂気でするのではなく、正気で風呂桶の中の魚を釣ろうとすることではないか。それを一生続けるのは辛いことだろうけれど、僕はきみにそれをやって欲しいんだ。きみなら出来る。正気で、一生風呂桶の上に釣竿を差し続けて欲しいんだ。魚なんか、一匹も連れなくったっていいじゃないか。それが、小説を書くということじゃないか。」
 
小説を書くということは、必ずしもこういうことではない、と思う。しかし、こういうことであってもいい、とも思う。ただ文学をこういうふうに捉えると、ゆく道は限りなく隘路になって、窮屈でたまらなくなる、とは思う。
 
終わり近くに、車谷の「櫻子の孤独」が、芥川賞候補作に選ばれるところがある。
「お袋にその事実を告げると、目の色を変えた。
『あんた、うちが田んぼ売って、これから二千萬円の金を作る。あんたその金を持って、東京へ行きな。ほいで、銓衡委員の先生方に二百萬円ずつ配って歩きな。ほら違うで、どなな偉い人かて銭もうたら。あんたが行かへんのやったら、うちが行く。』
『阿呆言えッ。』」
 
笑ってしまう。ちなみに、このときは票が過半数に達せず、落選している。

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