この著者にしては信じられない――『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』(3)

ここは、分かれ道である。

「二〇一六年七月、相模原で起きた元介護職員による十九名の重症障害者の殺人事件は、世間に戦慄を与えました。真心をもって真摯に介護を続けていけば、いつかはこのケアする喜びに気がつくはずです。
 しかしそこには、共感とネガティブ・ケイパビリティが要請されます。介護をしても無駄ではないかという速断は、その双方が欠けるとき、恐ろしくも成立してしまうのです。」(「第六章 希望する脳と伝統治療師」)
 
これは、今からちょうど一年前、元介護職員が夜間、介護施設に忍び込み、19名の障害者を殺害し、ほかにも多数の重傷者を出した事件である。この事件は、逮捕された後も、犯人が自分の正当性を主張したとして、特異なものであった。

こういう犯罪事件に対抗するためには、文字通り、粘り強いネガティブ・ケイパビリティの力が必要になる。
 
それはそうだけれど、とはいっても、その中身が、外側から否定形で語られるばかりでは、どうしようもない。
 
それはあとも、同じことだ。「第七章 創造行為とネガティブ・ケイパビリティ」は、たとえば作家は、文字通りネガティブ・ケイパビリティを、駆使しているという。

「作家は、日々この宙ぶらりんの状態に耐えながら、わずかな懐中電灯の光を頼りにして、歩き続けなければなりません。」
 
これは言わずもがな、作家が予定通り、すいすい書けるのであれば、編集者はいらない。と言うか、いまさらこんなことを、書く必要があるんだろうか。

「第八章 シェイクスピアと紫式部」は、どちらもネガティブ・ケイパビリティを、発揮していたという話。これは、極端なことを言えば、どうとでも、取ってつけられる話である。ここでは、『源氏物語』の講釈がかったるくて、辟易する。

「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」は、もう読む前から、何となく見当がつく。現代の教育は、ポジティブ・ケイパビリティのみであり、ひたすら知識の詰め込みと、それを試験のときに、迅速に吐き出す方法のみが、問題になる。これではいけない、学習速度に個人差があるのは、自然なことではないか。
 
こういうお題目は、散々聞かされた。学校という場で、それではどうすれば、よいのか。鳥山敏子さんのような教育者は、めったに現われないのだ。

「第十章 寛容とネガティブ・ケイパビリティ」は、フランスのユマニスムにおける、ネガティブ・ケイパビリティの重要さについて。
 
エラスムスの『愚神礼賛』や、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』を題材に、寛容を支えているのは、ネガティブ・ケイパビリティだ、ということを説く。

「どうにも解決できない問題を、宙ぶらりんのまま、何とか耐え続けていく力が、寛容の火を絶やさずに守っているのです。」
 
これもまったくその通り。この最終章まで来て、ネガティブ・ケイパビリティについては、初めから終わりまで、まったく深化も変化もしていないのが、お分かりだろう。
 
突飛な例だが、私は、漱石の『吾輩は猫である』に出てくる、「大和魂の話」を思い出してしまった。みんなが持っている大和魂、しかしそれを見たものはない。軍隊の大将から政治家まで、果てはスリや盗人も持っている、と漱石は揶揄する。

ネガティブ・ケイパビリティを、大和魂なんかと一緒にできるか、という人もあるだろう。果たして、そういえるか。

(『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力―』
 帚木蓬生、朝日新聞出版、2017年4月25日初刷、6月30日第三刷)

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