通読小説ではあるが――『罪の声』(1)

この小説は、女友だちが、くそみそに貶した本だ。「グリコ・森永事件」を下敷きにしながら、その中心にある、犯人側の子どもの声の、真相には迫っているけれど、深層にはぜんぜん迫っていない、というのが、その評だった。
 
たしかに三十年経ったとき、関係者全員が、もう時効だからといって、真相をペラペラしゃべるのは、どう考えてもご都合主義の極みである。これでは、テレビでよくある二時間もののサスペンスと、大した違いはない。
 
また文章も、ところどころ綻びている。
「青年と握手して別れた阿久津は、清々しい気持ちでよく晴れた街を歩いた。若い人と話して元気がもらえるようになったのはいつごろからだろうと、年寄りじみたことを考える自分がおかしかった。」

「元気がもらえる」は、もっとも唾棄すべき〈おもらいことば〉である。なぜ「元気づけられる」と書けないか。というよりも、これは編集者または校正者が、注意すべきことだ。四六判・四〇〇ページを超える力作なのだから、編集者もそれなりにリキを入れないと。

全体の構成は、「グリコ・森永事件」を下敷きに、犯人グループが仲間割れし、また身代金をせしめると見せて、じつは株価を操作して、一獲千金を狙うことが目的だった、というふうになっている。この骨格は、関係者がみんな、真相をよくしゃべることを除けば、なかなかよくできている、と僕は思う。

しかし、この作者の優れた点は、じつはそういう本筋とは違うところにある。そしてそのことを、作者はどうも、自分では気づいていないのではないか。

例えば、犯人側の主役である「俊也」が、「河村」という、昔かかわりのあったスーツ職人と会うところ。
「俊也」も、それなりに修業を積んだ、スーツ職人なのである。

「河村はスーツが入ったカバーを持ち上げたので、俊也は立ち上がってそれを受け取った。
『男ぶりが上がる、ええスーツや。これやったら、どこに出しても恥ずかしない』
『ほんまですか!』
 俊也は嬉しさのあまり、大きな声を出してしまった。
『洋服に関しては噓つかれへんからな。俊也さん、もうあなたの時代やから、筋が通ってると思ったら貫き通しなはれ』
 心のこもった言葉に、俊也は目頭が熱くなった。店を今の形にしたことに後悔はなかったが、この三年間、ずっと河村の影に怯えていた。
 これでやっと本当のスタートが切れる。胸の支えがおりて、スーッと体が楽になった。」
 
どうです、巧いもんでしょう。大阪の商いを、老舗を舞台に、新旧激突させて描けば、コクのある読み物になるんじゃないか。

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