手の内を明かせば――『みみずくは黄昏に飛びたつ』(3)

本書の第四章で、川上未映子が、「自分の死」というテーマを挙げている。それに対し、村上春樹は、死というものはただの無で、「ただの無というのも、どんなものか見たことないからね」と言い、あまり真面目に考えようとはしない。
 
しかし川上未映子は、「でも確実に死ぬ。いったい何がどうなっているんだか」と、食いさがろうとする。ここは川上の、哲学少女の片鱗が剝き出しになる。
 
それに対する村上の答えが、まことに秀逸である。
「村上 でも、実際死んでみたら、死というのは、新幹線が岐阜羽島と米原のあいだで永遠に立ち往生するようなものだった、みたいなことになったらイヤだよね。駅もないし、出られないし、復旧する見込みは永遠にないし(笑)。」
 
僕は思わず噴き出した。同じ村上春樹でも、比喩の次元が違う。底の抜け方がここだけ、とてつもなく深いというか、バカバカしいのだ。
 
川上未映子もしょうがなくて、というよりも、同じ関西人同士、思わず受け答えにはずみがつく。
「――それは最悪(笑)」
 
そういう川上を受けて、ますます乗りまくる関西人・村上春樹。彼はこう答える。
「村上 トイレは混んでるし、弁当も出てこないし、空調はきかないし、iPhoneのバッテリーは切れて、手持ちの本は全部読んじゃって、残っているのは『ひととき』だけ。考えただけでたまらないよね。」
 
それに対する相方の、川上の押さえも、冴えたものだ。
「――大丈夫、もう一冊『WEDGE』がある(笑)」
やっぱり関西弁だと、死の哲学の探究はできまいなあ。

この最終章の終わりのところで、村上春樹の「善き物語」に対する、全幅の信頼が語られる。そのとき、「邪悪な物語」の典型としては、たとえば麻原彰晃の物語があり、その中では、徹底的に囲い込み、閉鎖されたところで、多数の人が殺される。

「村上 そういう回路が閉鎖された悪意の物語ではなく、もっと広い開放的な物語を作家はつくっていかなくちゃいけない。囲い込んで何か搾り取るようなものじゃなくて、お互いを受け入れ、与え合うような状況を世界に向けて提示し、提案していかなくちゃいけない。」
 
村上が、それは神話の時代から連綿と、人々が紡いできた物語で、それは今もあるし、また有効である、と言うのに対し、川上は、あたかも一般的であるかのようにして、疑問を呈する。

「――神話や歴史の重みそれ自体が無効になっているとは思われませんか、村上さん。それらが保証する善性のようなもの、それ自体が。」
 
それに対し村上は、言下に否定する。
「村上 全然なってない。」
 
これは、物語を作る作家としては、当然のことだが、しかし実は、これをはっきり言っては、おしまいなんじゃないかと思う。常に心の中で、神話や歴史、物語の重みが、すでに無効になってるんじゃないか、という恐れを抱いていなければ、そしてそういう恐れに対し、いやそうではないんだ、という葛藤を抱えていなければ、いけないんじゃないか。それが川上未映子の、無言の問いかけではないだろうか。

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