面白い、でもときどき退屈、だが・・・――『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』(3)

同じように、雨田具彦の絵もまた、洋画から日本画へと、劇的に展開、変容した。洋画の時代には、雨田具彦は、高い評価は受けていたにせよ、「しかしそこには何かが欠けていた。」

つまり「私」とおなじく、強く心を揺さぶるものがなかったのだ。しかし、ドイツに留学して帰ってくると、作風は驚くべきことに、一変していた。洋画から、日本画に変わっていたのだ。

「そこには洋画時代の『何かが欠けている』という印象はもう見受けられなかった。彼は『転向』したというよりは、むしろ『昇華』したのだ。」
 
そのドイツ留学こそは、戦時中のことであり、そして政府高官の暗殺未遂に関わる、もっとも大きな謎だったのだ。
 
この作品の中にはまた、「私」の絵を自己批評すると見せて、じつはこの作品の批評と見紛うような文言が、散りばめられている。

「しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。電話のベルが鳴るのを辛抱強く待つように。そして辛抱強く待つためには、私は時間というものを信用しなくてはならない。時間が私の側についていてくれることを信じなくてはならない。」
 
だから僕も、ひたすらこの本を読んで、なんとか村上春樹と同じ時間感覚を、身につけようとするのだが、これが難しい。

たとえば、「私」と「免色」は、車の話をする。それも高級車について、延々と言葉をやり取りする。こういうのは面白いんだろうか。

あるいは、「私」が「免色」の家に招待され、酒や食べ物について、またひとしきりウンチクめいた話がある。こういうのは、村上春樹の文章だから、我慢して読みもするけれど、でもたいがいにしてほしい。
 
だいたい、この「免色」との話が、あまり面白くない。「免色」と話している「私」は、三十半ばとは思えないくらい、老成している。というか、五十半ばの「免色」が、どんな話をしても、「私」はとまどったり、びびったりしない。これ、おかしいでしょう。
 
それに舞台も、おおむね山の中の屋敷で、いつもの、快調に舞台が変わっていく感じがない。そういえば、今回は「僕」ではなくて、「私」という、いってみれば、ちょっと落ち着いた、見ようによっては、ちょっと気取りのある一人称だし。
 
そこで、いささかげんなりしながら、上巻を読み終えて、下巻に入ったのだが、下巻に入ってしばらくして、僕は、大げさに言えば、雷に打たれたように、覚醒した。そうか、村上春樹は、こういう流れをもくろんでいたのか。

(『騎士団長殺し――第1部 顕れるイデア編』
 村上春樹、新潮社、2017年2月25日初刷)

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