ノーベル賞化学者の戯曲――『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』(1)

ノーベル賞化学者、ロアルド・ホフマンの『これはあなたのもの――1943‐ウクライナ』については、その前に、訳者の川島慶子さんとの間に、長いやり取りがある。
 
川島慶子先生は、18世紀フランスの科学史の専門家で、『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ――18世紀フランスのジェンダーと科学』(2005年)は、一躍その名を高からしめたものだ。もってまわったところのない、きりりとした、骨格のはっきりした文章で、18世紀のジェンダーと科学が、素人の私にも手に取るようにわかる。
 
夫のラヴワジエが実験するのを、妻のマリーが手助けするという、実験における主従の関係の図が、明快な文章と相俟って、読者にぐいぐい迫ってくる。東大出版会から出ている本にしては、じつに歯切れがいい(このころは、東大出版会の人を一人も知らず、出ている本に対しては偏見があった)。
 
すぐに、著者に手紙を書いた。どんな内容かは忘れてしまったが、たぶん、先生の文章は素晴らしい、骨格がはっきりしていて、これは未来に残すに足る本になる、とまあそんなことを書いたに違いない。そして、トランスビューでも書き下ろしをお願いしたいと締め括った。
 
それから5年後の、2010年に『マリー・キュリーの挑戦――科学・ジェンダー・戦争』が出た。というと、けっこう年月はかかっているのだが、そのわりには、著者と艱難辛苦をともにした、という感じはあんまりしない。
 
ひょっとすると、著者の川島さんは、「冗談じゃないわよ、人の苦労も知らないで」と思っておられるかもしれない。でも、とにかく、ゲラのやり取りも含めて、先生との仕事は面白かった。
 
できた本は、非常に評判がよかった。科学史の村上陽一郎氏、作家の最相葉月さん、朝日新聞・論説委員の辻篤子さん、物理学者の米沢富美子さんが、さっそく書評をしてくださった。どれもとにかく絶賛の嵐、というのは言いすぎとしても、みな手放しでほめている。もちろん、すぐに何度も重版した。
 
私は、脳出血後のリハビリで、『マリー・キュリーの挑戦』を二度、朗読したが、とにかく文章の歯切れがいい。

同時に、あらためて思ったのは、いろんなものが詰め込まれていて、200ページちょっとの本なのに、ものすごいヴォリュームがあるということだ。7年前に、自分で刊行した本を、いまごろ何を言ってるんだ、と言われるんだろうけど、でもしょうがない。
 
本ができた直後は、著者と一緒になって喜ぶのに忙しくて、また書評用の本を手配するなど忙しくて、その本を、適度な距離を置いて、正確に評価するなんて、私にはとても無理だった。
 
いま、その目次を挙げておく。慧眼な読者なら、うーむと唸ると思う。

1 少女の怒り、2 三つの恋の物語、3 ノーベル賞を有名にしたもの、4 墓はなぜ移されたか、5 誤解された夫婦の役割、6 二つの祖国のために、7 ピエール・キュリーの「個性」、8 科学アカデミーに拒まれた母と娘、9 変貌する聖女、10 マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情、11 放射能への歪んだ愛、12 アインシュタインの妻、13 リーゼ・マイトナーの奪われた栄光、14 放射線研究に斃れた日本人留学生、15 「偉大な母」の娘たち、16 キュリー帝国の美貌のプリンス、17 湯浅年子の不屈の生涯、18 キュリー夫人とモードの歴史、19 「完璧な妻、母、科学者」という罠

「キュリー夫人とモードの歴史」などは、宝塚ファンの川島慶子先生の、面目躍如たるものがある。もちろん、キュリー夫人の不倫恋愛を扱った、「マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情」や、女であるがゆえにノーベル賞を逃した〝原爆の母〟、「リーゼ・マイトナーの奪われた栄光」にみる、不屈のフェミニストたる点は、言うまでもない。

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