潮流は変わるか――『死にゆく人のかたわらで―ガンの夫を家で看取った二年二カ月―』(3)

著者が「様態急変」という言葉で、すぐに頭に浮かんでくるのは、やはり突然倒れるのと、大便が合わさっている状況だ。このへんは、家で看取るということの、最も厳しい局面だが、著者はそこを正直に書く。

「わたしが脱衣場にいるとき、湯船に入った本人が、ずいぶんふらつく、と言う。トイレに行きたいと言って、湯船から立上がると、ああ、ダメだ、と言って風呂場に便失禁する。本人は風呂場の隣にあるトイレに行こうとして脱衣場で便をもらしながら歩き、トイレの前の廊下で倒れた。わたしがそばにいたので、なんとか頭から倒れることはさけられたが、相手は七〇キロ、こちらは五〇キロ程度なので支えられない。そのままトイレの前で真っ青になり、便失禁は続いた。」
 
家で看取るというのは、こういうことだ。そして著者の場合には、これ以上「怖い」体験はなかったという。一方でこれを体験する代わりに、もう一方で、愛する伴侶が、自分の腕の中で死んでゆくのを、看取ることができるというわけだ。
 
もう一つ、自宅で死にたいが、その場合に「いくらかかるか」という、金銭的な問題もある。これはたぶん、状況により千差万別だろう。これも著者の場合には、ということで、正確に出している。

「医療保険と介護保険には自己負担限度額があるから、両方フルに使って、いちばんたくさんお金を払った月でも、我が家ではあわせて八万円くらいだったと思う。」
 
このへんは、代替療法や食事療法の拒否とあわせて読むと面白い。進行しているガンだと、藁をも摑みたくなって、いろんなことをやりたくなるものだが、著者の夫は徹底していて、治療は保険の範囲に押さえている。このへんは著者の言うように、怪しい治療は断固拒否するという、団塊の世代の面目躍如たるものかもしれない。
 
第6話として「痛み」が、独立して取り上げられている。ここは、著者の慧眼が光るところだ。ふつう「痛み」は、ガン治療の中心的テーマとして取り上げられ、そしてそれは、おおむね制圧していると捉えられている。
 
しかし、そうではないものもある。
「夜中に何度も起き上がって、じっとしていられないこともあった。頭が痛い、服を脱ぎたい、気分が悪い、眠れない、じっとしていられない。こういう苦しみは、自宅にいたので、なんとも言えないままに、表現されていた。そして、それらの身の置き所のなさは、多くの場合、『痛い』という言葉に収斂されていったように思う。そうすると、なにか飲む薬があり、介護するわたしも提供する薬がある。『痛み』は、彼の総合的な苦しみの表現方法だったのではないか。」
 
ガンの痛みとは、まったく違うものだけど、僕の右半身は、つま先から肩まで、ときによって猛烈な不快感が襲ってくる。そしてそれは、とりあえず「痛み」としてしか、表現できないものなのだ。

「わたしは間違っているかもしれない。でも、こういう身の置き所のなさは、たとえば、病院や施設にいたら、いったいどう対応されるのだろう。『ガンの痛み』、とは、言われているよりも奥の深い表現なのではないか、まわりはそれをどう受け止められるのか。むずかしいことだ、と思うのである。」
 
これは、病院や施設では無理なことだ。かりに、事細かに患者に聞いてみても、おそらくどうにもならないことだ。でもそこを、分かってくれる人が、いるのといないのとでは、患者の気持ちはまったく違う。

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック