最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(2)

だからたとえば、「石川達三の『生きている兵隊』」事件などは、河野さんにとって戦前のことと忘れるわけにはいかない。

「私自身はこの事件から六十年以上も後に『中央公論』の編集長職に就きました。そして何度か必要があって、当時の関係者の証言、回想録のほとんどすべてに目を通しました。」(「言論統制の時代」)
 
該当箇所の切り抜かれた「中央公論」は、かくして再び出て行くのだが、そこに至るまでの、河野さんの筆さばきは見事だ。

「当時の『中央公論』の発行部数が約七万三〇〇〇部。全冊が回収されたわけではないにせよ(約一万八〇〇〇部が差し押さえを逃れ、それが海外で翻訳されるなど後々問題をこじらせます)、尋常の数ではありません。
 三月号は全体で約六〇〇ページ。そこから一〇六ページ分を切り取ります。・・・・・・それにしても当時八〇名足らずの社員で、押収された約五万五〇〇〇部を処理するとなれば、単純計算でも一人あたり七〇〇冊近くから切り取らなくてはなりません。たいへんな肉体労働です。その間じゅう、胸にどういう思いが去来していたか、想像するだけで暗澹たる気分におそわれます。」(同)
 
そんなふうに、「暗澹たる気分」をどこまでリアルに想像できるかどうか、編集長の資質は、そこに掛かっているといえる。
 
この本は、37本のコラムからなっている。だから、付け合わせの妙も堪能できる(これは河野さんではなくて、この本を編集した担当者の功績か)。
 
たとえば「『再版』の効用」の章。
河野さんは、雑誌連載で水上勉さんと北陸を旅したとき、真宗の僧侶・暁烏敏(あけがらすはや)のゆかりの地を旅した。水上さんの書く記事とは別に、3ページのカラーグラビアが組まれていたのだが、事件はそのカラーページで起きた。「暁烏敏」が、すべて「焼鳥敏」になっていたのだ。

河野さんは生きた心地がしなかったろうが、しかし周りにしてみたら、おかしいことこの上ない。そして若いうちのこういうことが、編集者の血や肉になるのである、たぶん。
 
ほかにも例として、いくつか挙げられている。
「➀かつて岩波書店の奥付で、発行人を『岩波雑二郎』にした(正しくは雄二郎)、②同じく岩波書店で、ギリシャ悲劇の『アンティゴネー』を『アンコティゴネー』にした、③筑摩書房では、カバー背の社名が『筑房摩書』になっていた、④きわめつけは『汝、姦淫するなかれ』を『汝、姦淫せよ』とした聖書、などでした。」
当事者でなければ、笑って済ませても、聖書以外は罪は軽い、たぶん。
 
河野さんは、装幀も、極めつけを出してくる。
「司修という名前をはっきり脳裏に刻んだのは、古井由吉さんの『杳子・妻隠』(河出書房新社、一九七一年)の装幀家としてでした。表紙に描かれた「一本の木」の姿をした痩身の女性像が忘れられません。」(「装幀の奥義」)
 
僕は、河野さんと同じ年齢だ。だから「一本の木」の姿をした女性像、といっただけで、もうだめだ。それがありありと、浮かんで来る。

その古井さんの芥川賞受賞記念の席で、司修さんは、武田泰淳の代表作『富士』の装丁を依頼される。この『富士』の、鳩が羽を広げた装幀こそは、最も美しい、最も力強い、この世に並ぶ物のない装幀なのだ。

河野さんは入社まもないときに、その司修の挿絵で、あの野坂昭如の雑誌連載の担当をする。このお二人を、一本の作品で同時に担当するということは、ちょっとでもその世界を知るものには、恐ろしくて身がすくむ。

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