最後の雑誌編集者――『言葉はこうして生き残った』(1)

本を題材に、類いまれな傑作が生まれた。著者の河野通和氏は、季刊雑誌『考える人』(新潮社)の編集長。この本は、彼が7年にわたって毎週発行している、都合300本余のメールマガジンから、37本を選んだもの。

でも、メルマガから選んだものというには、あまりに面白すぎるし、また考えさせられもする。時に対象と深く切り結び、時におおらかに、笑いをもって本に接し、その行くところ、出版社の歴史を紐解き、出版人・著者たちの過去から現在に及び、果ては古本、映画など、至らざるはない。
 
さっそく読んでゆこう。
まずは滝田樗陰である。大正元年に31歳で『中央公論』の編集長になると、執筆者たちは、樗陰の人力車が家の前で止まり、原稿を依頼されることを願ったと言う。
 
河野さんもまた、何代めか後の『中央公論』編集長である。後輩は、先輩をどう見ていたか。
「それにしても樗陰という男はとてつもないスケールの人間だったようです。・・・・・・ともかく情熱家、活動家、努力家、並はずれた読書家にして健啖家であり、エネルギーの量がとてつもない人物であったことは誰しも認めるところです。・・・・・・
 さらに人に飲み食いさせることが大好きという性格の持ち主で、それがしばしば強引過ぎたため、『食らい殺されはしないかと、不安を感じた』人も少なくなかったようです。」(「燕楽軒の常客」)
 
ふつうは歴史上の、はるかかなたの人物だが、それにしては、ほかのところを読んでも、彼我の距離がどうも小さい。どうやら河野さんは、この怪物編集長に個人的な親しみを感じているらしい。
 
そういう例は、洋の東西を問わない。編集者、とくに大編集者が急場に陥っていたりすると、河野さんの筆は迫真の力を見せ、対象に乗り移る。

ウィリアム・ショーンは、『ニューヨーカー』の名物編集長だった。ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」、トルーマン・カポーティの「冷血」、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、ショーンが編集長をしているときに、『ニューヨーカー』に掲載された。

ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」もまた、ここに載った(「ハンナ・アーレント」その1・その2)。これは掲載されるや、アウシュビッツのありふれた悪、つまり「悪の陳腐さ」でひときわ有名になるが、一方、ユダヤ人指導者たちが、ガス室送りに手を貸したことを明るみに出したために、アーレントと『ニューヨーカー』は轟々たる非難を浴びた。

ショーンの苦境は、アーレントがヨーロツパからの亡命者であり、英語が達者ではなかったことで、倍加する。アーレントは、原稿の表現を問題にする彼に食ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。それでも彼は粘り抜く。その胸の内を、河野さんは的確に言い当てる。

「『編集者の自由』という先述の言葉に、おそらく尽きるのだろうと思います。書き手たちが『可能なかぎり自分自身でありうるようにしむける義務がある』というひと言です。そこで自らを抑制し、踏みとどまることが、身についた職業倫理――『編集者の自由』だと考えたのでしょう。」
 
ここまできて読者は、いよいよ河野さんは、大文字で書かれる大編集者の一人であることを、思い知るのである。

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