そのあとの『ハムレット』も、『小公女』も、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』も、寺山修司の『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』も、『葉隠』も『武士道』も、『赤頭巾ちゃん気をつけて』も『なんとなく、クリスタル』も、『君たちはどう生きるか』も『資本論』も、『されど われらが日々――』も『優しいサヨクのための嬉遊曲』も、全部すっ飛ばして、小林秀雄『モオツァルト・無常という事』を取り上げよう。
ちなみに斎藤美奈子は、新潮社の主宰する「小林秀雄賞」の、栄えある第一回受賞者である。その辺が、小林秀雄を読むとき、微妙に影響するのかしないのか。
「それじゃあ、いっちょ試験問題を解いてみっか!」というわけで、2013年1月のセンター試験に出た、小林秀雄の『鐔(つば)』と題された問題を解いてみるが、その結果については、とくに説明はない。たぶん簡単だったのだろう。
しかしそもそも小林秀雄は難しい。ということで、久しぶりに国語の教科書に載っていた『無常ということ』を読んでみるのだが、これが難しい。
「一行目で早くもつまずいた。意味が全然わからん!」
そこで、まず頭にある「一言芳談抄」を、「ブルースだなあ(とかいうと、あまたの反論が返ってくることは百も承知)」、とかいいながら訳してみる。
小林秀雄の頭の中では、「一言芳談抄」の文章は、次のような経緯をたどる。
「〈読んだ時、いい文書だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた〉」
僕はこれを、とてもいい文章だと思った。そしてそれとは別に、「坂本で蕎麦を喰っている間も、」というのが、とてもリアルだなあと思った。
しかし斎藤美奈子は、それとは別の感想を持つ。
「そうだった、思い出したよ。コバヒデの脳内では、よく何かが『突然、降りてくる』のである。」
そうして、降りてくると言えば、極め付けがありますね。そう、あれです!
「〈僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォオニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである〉
出ました、突然、降りてくるモーツアルト。〈僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。百貨店に駈け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還って来なかった〉というあたりの展開も『無常という事』とおなじ。」
僕は、しかしここでは、「大阪の道頓堀をうろついていた時、」というところに感心した。「坂本で蕎麦を」というのと同じだ。いや、それよりも、もっとリアルだ。うろつくんなら、新宿でも銀座でもいい。いや思い切って、軽井沢、追分のあたりでどうか。それが道頓堀とは、いや参りやした。でも、そういうことは、誰も言わない。
それからもうひとつ、「コバヒデの脳内では、」というところの「コバヒデ」。これはもう受験生の間では、「コバヒデ」と略すのは常識なのかね。僕は中学・高校を関西で過ごしたので、関西方面では小林秀雄は、「ヒデボン(=秀ぼん)」と略してた。それはたとえば、僕なんかが、「ヒデボン、言うてること、ぜんぜんわからへんなあ」という具合に使っていた(もっとも、他の人が使うのは、見たことはない)。
ええっと、それでなんだっけ。ああ、文庫解説ですね。小林秀雄の文庫解説は、すべて江藤淳の専売特許になっている。これは、「もうお手上げ。わけがわからん。初読の読者にはなおさらだろう」ということで、斎藤美奈子はこのあとも、ごちゃごちゃ書いているけど、全部オミット。
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント