女と男の行く先は――『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―』(2)

とは言っても、ミホが島尾を追って、加計呂麻島から鹿児島まで行くのも、大ごとだった。連絡船のない時代は、「闇船」に頼るよりほかはなかった。先に神戸に帰っていた島尾敏雄を追って、ミホが単身、加計呂麻島を出たのは、昭和20年11月下旬である。

「闇船での航海は、昼間は洋上に浮かぶ島々の陰にひそみ、夜間のみ航行するというものだった。嵐に遭ってエンジンが故障し、修理のために喜界島に避難するなど船旅は難航し、鹿児島港にたどり着いたときは十二月の下旬になっていた。」
 
こうして紆余曲折を経て、ミホは敏雄と結婚する。しかし神戸では、奄美の出身というだけで、いわれのない差別を受けたという。

「故郷を侮辱されることは、ミホにとって両親を侮辱されることでもあった。のちに『死の棘』に描かれることになるミホの狂乱は、結婚以来プライドを踏みにじられてきたことへの怒りと悲しみの噴出でもあったのである。」
 
そもそも二人は、互いにズレたところから、結婚生活をはじめている。結婚してすぐに、島尾は梅毒に感染しているので、ミホも治療を受けるようにいう。このへんから、実はもうやや狂気が入っている。新婚まもないのに、性病の治療を、夫婦二人で受けに行くカップルがどこにいるか。
 
そのうちミホは妊娠するが、敏雄は女と遊び歩き、しかも日記にそのことを、これ見よがしに書くので、だんだん体調は悪化し、このときは出産を諦めざるを得なくなる。
それでも昭和23年には伸三が生まれ、25年にはマヤが生まれた。
 
昭和27年、一家は東京に移る。そして島尾の愛人が現れ、『死の棘』の世界が始まる。

『死の棘』は、夫の日記を読んだ妻が、「発作」を起こしたところから始まる。それはミホが直接、著者の梯久美子に語ったことでもある。

「『そのとき私は、けものになりました』
 まるで歌うように島尾ミホは言った。細いがよく通る、やや甲高い声。
『ゥワァァーーッと、お腹の底からライオンのような声が出ましてね。そのまま畳にはいつくばって、よつんばいで部屋を駆け歩きました。そして、ハァーッと言って倒れたんです』」
 
しかし、このとき日記に書きこまれていた「十七文字」が、どんなものであるかは、遂に明かされることがない。また島尾の日記は、わざと目につくところに、置かれていた可能性があるという。島尾はそれまで、しばしばそういうことをしておいて、ミホの反応を見て、それを小説に書いた。
 
しかし、このときは違った。ミホは激しい発作を起こし、島尾はうろたえて、ミホの言いつけを死ぬまで守ることを誓った。
 
でも、と僕は思う。こんなことが、きつい言い方をすれば、「都合よく」起こるんだろうか。
ちなみに、このとき日記に書きこまれていた「十七文字」については、ついに分からない。また島尾の、これまでさんざんミホを苦しめてきた「女癖」の悪さも、突然跡形もなく治る。
 
ミホが、千葉県市川市の国府台病院の、精神科に入院していた昭和30年8月19日、島尾敏雄が書いた血判入りの誓約書がある。この病院には、敏雄も一緒に入院している。
「至上命令  敏雄は事の如何を問わずミホの命令に一生涯服従す」
こういうことを、どう考えればいいんだろうか。

ミホが亡くなった後、著者は遺品の中に、古い原稿用紙の束を見つける。それは島尾の原稿の書き損じだったが、ふと裏を見返すと、ミホの文字がある。

「『ミホ、僕とお前はひとつなのだ、僕が苦しむ時はお前だって苦しむのは当り前だ、「カサイゼンゾウ」だって、「カムライソタ」だって、みんな芸術のためには戦場にしたんだ。芸術をするものは安楽になんて暮せないんだ。岩の上でも、地獄の果てまでも、お前と子供は僕と一緒なんだ、芸術の女神はしっと深いからね』
 こういっていた夫の言葉をそのまゝに信じ、務めなら私はよろこんでそうしよう、それはむしろ妻の誇りとさえ思えたのです。」
 
夫の投げた直球は、妻の、あまりにも正面に、音を立ててやって来たのだ。

「実際には一年に満たない期間に起った出来事を、足かけ十七年にわたって書き続けた持続性は、島尾敏雄という作家の粘り強さとテーマに対する誠実さの証しとして好意的に評価されてきた。」
 
しかしもちろん、そういうことではない。作家が全力投球した球を、妻もまた17年にわたって打ち返し続けたのだ。
「島尾は今度こそ、なまなましい手応えのある悲劇を手に入れることができた。ミホはみずからの正気を犠牲として差し出すことで、島尾が求めた以上のものを提供したのである。」

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