翻訳は難しい――『トランペット』(2)

けれども、とここから先は、僕が読んだ感想である。この小説を読むと、なんだかいかにも翻訳小説を読んでいる、という感が強い。

もちろん訳者は、ひどく苦労している。
「原文で読めば即座に笑ったり感覚的に理解したりできる掛け言葉や連想を、翻訳に反映させるのはなかなかむずかしい。」
 
その結果、個々の章で主役を務める面々、すなわち「妻のミリー、息子のコールマン、バンドのドラマー、医者や葬儀屋、役所の登録係、著名人のスキャンダルでひと儲けをたくらむジャーナリスト、昔の同級生、老いた母」等々が、どうにも落ち着きが悪くて、十全に活躍できていない。というか読んでいて、言葉はハジケてるのに、ときどきひどく退屈してしまう。
 
もちろんこれは、訳文の問題ではなく、僕のほうの問題かもしれない。

「スコットランドの言葉、変わりやすい気候や荒い波の打ちつける海岸の風景、長年グラスゴー市民に親しまれてきたデートスポット、伝統的な食べ物や駄菓子の名前など、生活の具体的な細部の描写を通じて、スコットランドという土地の空気を地元民の感覚で味わう楽しみがある。」
 
僕が「地元民の感覚」で、スコットランドをそんなふうに味わうことは無理だ。

こういうのは、難しいものだと思う。かりに僕が編集を担当して、これだけの原稿が入れば、もう本当に有頂天で、本になる直前はドキドキである。
 
でもそれは、翻訳書でそういうのを読んだことのある人たちを、相手にしているだけで、きつい言い方をするなら、広い意味での「一般読者」を、相手にしていないんだと思う。
 
でも、じゃあ、こういう本は出さなければいいのか、というと、それは全然違う。ぜんぜん違うんだけども、しかし、ではほかにどんな手を打てるかというと、ちょっと考えあぐねてしまう。

名前のある作家や脚本家に、帯を書いてもらう。PR誌があるのであれば、宝塚の明日海りおに、「男」として生きたジョスの役をやりたいと書いてもらう。あるいは書評を、小泉今日子さんにやってもらうのもいい。

でも結局は、そういうことと同時に、訳文を練り上げるよりほかにないのだろう。

じつは『トランペット』は、現役編集者のOさんが、個人的には去年のミステリーのベストワンだといって、推薦してくれたものだ。その気持ちはよく分かる。Oさんは僕を、病気したとはいえ、現役と変わらぬものと認めて、これを推薦してくれたに違いない。

でももう僕は、こういう原稿にドキドキするような臨場感は、遠いところに忘れてきてしまった。そのかわり、いっそう貪欲な読者として、新刊を含めた本に向かっていこう、とは思っているけれど。

(『トランペット』ジャッキー・ケイ、中村和恵訳、岩波書店、2016年10月28日初刷)

この記事へのコメント

  • 中村和恵

    読んでくださって、ありがとうございます。翻訳者です。
    この本、わたしは隅々まで理解できる感覚があり、ほんとうに楽しんで訳しました。「むずかしい」と書いた部分は、日本語と英語、その他なに語でもですが、言語間の懸隔はどうしてもあって、そこを翻訳者がむりやりつないで別の物語にしてはだめ、別の文化があるという謙虚さのある示し方も必要、それでもときどきは遊びで橋をかけてみよう、という思いで、原文に忠実であることを優先しつつ、工夫を入れて訳したところです。原文の文体は詩人のものなので、自由に人物に出たり入ったり、いわゆる合理的なロジックに沿わないところもある文章です。作家本人にも何度かそうしたところは確かめました。そういう文章を読みなれない人には読みづらいところもあるかな、とはおもいます。

    ただひとつ、どうかしら、とおもったことがあるので書いてみます。それは「一般読者」って誰なんだろうということです。わたしは「一般読者」って、ほんとはいないんじゃないかとおもうんです。

    中嶋さんは中嶋さんの感覚でお読みになって、あるわからなさ、をお感じになった。同じ本をわたしは授業や朗読会でいろんな背景や年齢の方と一緒に読んで、こころから動かされ、泣いたという人に何人も会い、自分の人生やご家族と重ねた方にもたくさんお目にかかりました。それはその方の経験や読んできたものが、影響しているのだとおもいます。それぞれの方々のお気持ちのすべては、わたしにはわかりません。それぞれの胸の内のことですから。一般化するのではなく、それぞれの方々のお気持ちに響くものを、もちろんときには響かないものを、書くのが文学者のする仕事だとおもいます。むしろ万人に響くはずなんて姿勢は信用できない、たくさん読んでこられた中嶋さまもそうお考えではないでしょうか。

    訳文を練り上げるしかない、というご指摘、おそらく原文にもあたってよく調べてくださったからこそのお言葉と感じられ、誠にありがたく拝読しました。わたしとしてはどこがそのようにおもわれたか、ぜひお知らせいただければありがたいなとおもいます。相当に練り上げ、校正を重ね、音読し、もうこれ以上直しては原文から離れるというところからまた引き返したりして、原文の雰囲気は充分伝わったとおもっておりますので、不足があればぜひ機会を得て直してまいります。ある別の方から、完全に誤解された批判をいただいて、これについてはじっくり反論していこうと考えておりますが、中嶋さまはどのようなところが不足と思われましたか。ぜひ参考にお聞かせください。近いうちに授業や学会などでもこの翻訳について話す機会がありますので、さまざまのご意見を詳しく検証してお話したいとおもっています。

    また宝塚等のPR方法のお考え、愉しく読ませていただきました。おそらく中嶋さまは、LGBTの物語ということでそうしたことをお考えだったのかとおもいます。でも宝塚とこの物語は違うとわたしはおもっています。LGBTは特殊な人々ではない、ということがこの小説の大前提です。そうはおもわれないという方々がいらっしゃるらしいことは、むしろ最近改めて、この物語への反応から感じております。より説明が必要な方がいらっしゃるということを、感じております。

    なのでこの話、これからより詳しく説明した座談会や、作家の随筆、PRの文章を岩波を中心にたくさん出してまいります。ぜひご覧くださいますよう、お願い申し上げます。きっとそうだったのか、とご理解いただけるはずです。改めて、読んでいただいてありがとう!
    2017年04月14日 13:08

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