全体を朗読してみると、僕はこの本を少し誤解していた。大塚さんが、「私ははじめ、アンチ岩波だった」とおっしゃるので、てっきりそのつもりでいたが、よく読んでみると、そうではない。
例えば哲学で言えば、正統な哲学者を押さえた上に、梅原猛、上山春平といった人たちがいる。結局、大塚さんは伝統の中に小さく収まることをせず、伝統を生きたものとして、より革新的に広げていったから、その仕事に命が通ったのだ。
「出版の営為とは、優れた人間の知識と知恵の創出に加担し、併せてそれらを保持し次の世代に継承していくことにある」、こういうことを上滑りでなく、身に着いたこととして口にできる経営者は、今はもういないのではないだろうか。
いくつもある大塚本のうち、これはもう誰にも真似のできない企画として、一つ挙げておく。「講座・転換期における人間」(全10巻・別巻1)である。編集委員は宇沢弘文(経済学)、河合隼雄(心理学)、藤沢令夫(哲学)、渡辺慧(物理学)。
経済学、心理学、哲学、物理学の著者を集めて、それを編集委員にして講座を作る。これがそもそも、あっと驚くことだ。しかも講座の題名が、「転換期における人間」。これは「心理学」や「社会学」の講座とは違って、大塚さんがいなければ、絶対にできなかった企画だ。岩波ならではの、しかし従来の岩波を超えた企画だ。
最後にもう一つ、エピソードを挙げておく。大塚さんは30歳を越えたころ、木田元さんに新書で『現象学』を書いてほしい、という依頼をした。
木田さんは、その『現象学』が大詰めに差しかかったとき、折悪しく学生を山荘に連れていき、5日間ほど夏季セミナーをやることになっていた。
「出発の前夜徹夜して、終章を除く最後の原稿を書きあげ、八時半ごろの汽車に乗る前に、上野駅のホームで大塚さんに渡すことになっていた。発車ギリギリの時間に乗車ホームにいくと、もう発車のベルが鳴っている。大塚さんの姿が向こうに見えるが、渡している暇がない。大塚さんが気づいたのを見て、原稿の入った袋を地べたに置き、手近かのデッキに跳びのった。ドアがしまり動き出した汽車のなかから、大塚さんが走ってきて袋を拾いあげるのを見とどけた上で、自分の席をさがし、座るやいなや眠ってしまった。」
編集者は、もっぱら頭脳労働者と見られているが、こんな離れ業も、ときに見せることがある。そして、若いときにこういうことを経験していない編集者は、結局は伸びない。
(『理想の出版を求めて―一編集者の回想 1963‐2003―』
大塚信一、トランスビュー、2006年11月5日初刷)
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