最晩年は人それぞれ――『死を迎える心構え』(3)

最晩年に必ず話題になる自殺について。
これはもう自殺などというのは、元気なときの強がりで、実際にそうなれば、ただただ生きていく以外の選択はできないだろうから、そうなれば、ただ生きていくという覚悟を決めなくてはいけない。実際、自力で排泄できない人が、梁にロープをかけるのは無理である。

うーん、覚悟を決めるか。でもそこまで行ったら、覚悟も何もなく、ただだらだらと生きてるだけのような気もする。

そこから派生する問題として、身内の自殺についてだが、これはちょっとユニークだ。
「もしも、私の息子が自殺したら私は以前の私ではなくなってしまう。息子には自殺する権利がない。父の同一性に傷をつける権利がないからである。『他人の死=自分の死』というのは、論理的には矛盾を含んでいるように見えるが、暗黙の内に私たちは『他人の死=自分の死』という関係のなかにいる。」
 
これは面白い見方だ。父(または母)がこう言いたくなるのは当たり前だが、でもこれはちょっと無理だろう。そもそも自殺する人は、追い詰められていて、そこまで論理的に考えることはできない。それに「他人の死=自分の死」とはいうものの、この「他人の死」は、いわゆる「第二人称の死」であることにも、注意した方がいい。
 
もちろん加藤先生が、自分の息子にそう言いたくなる気持ちは、僕も子供の親として非常によくわかるが。しかしそう言うわけで、「一般に法律では『他者=自己』という関係を認めていない。」これは当たり前のことである。
 
加藤先生は、死を迎えるにあたって、古今東西すべての知見を書き残したいと考えた。その出来については、それぞれが読んで納得すればいいことだが、ここには一つ抜けていることがある。それは、ひょっとすると「書くもの」のすべてでは、具体的なことは、どうにも分からないんじゃないか、ということだ。
 
これは養老孟司先生が出された例だが、臨死体験はいわば夢から覚めて、それを追体験して書く。この場合、夢から覚めているので、整合性の取れた論述になっている。しかし本当にそうかと問われたら、じつは怪しい。
 
また、肉体の外と内が分断されて、内外が隔絶した例がある。これは誰あろう、自分の場合だ。一昨年の暮れに、脳出血になって手術を受けだが、右半身に麻痺が残った。だから右脚と右手は、神経がないかのように、ぶらんとしたままだ。
 
ところが右脚の場合には、非常にはっきりとした「運動」の後が、頭に残る。例えばベッドに寝て、脚を交互に動かせば、実に鮮やかに足に疲れが残る。でも左脚は左右に動かしてはいても、右脚はまったく動いていない。外からはピクリとも動かないのであり、内側で何が起こっているかは、まったく分からないのだ。
 
こんな例は特殊なのだが、何が言いたいかといえば、いまわの際にすべてが書き残せるものだろうか。もっといえば、書き残すことのできたその向こう側に、真相が現れては来ないだろうか、ということである。
 
加藤先生のように、死をめぐるすべてのことを、古今東西にわたって書きとめることは、もちろん大事だ。しかしその裏に、ひょっとすると広大な未知の分野が広がっていることも、忘れないほうがいいと思う。

(『死を迎える心構え』加藤尚武、PHP研究所、2016年5月6日初刷)

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