1980年にランダムハウスは、S・I・ニューハウスと彼のメディア・コングロマリットに買収された。そこでの大きな利潤を期待されたのだ。
「ニューハウスの基本計画の一環として、バーンスタインは首になり、代わってアルベルト・ヴィターレという無能な元銀行家が、その位置に就いた。(中略)ヴィターレはニューハウスに、本を読むような煩わしいことはいっさいしないけれども、自分の経営術で新しく大儲けしてみせようと約束したのだった。」
結果は無残だった。
「ヴィターレも首になったとき、ランダムハウスの儲けは、彼が約束した百分の一――ヴィターレがニューハウスに、自分がやればどんなに少なくともこれだけは儲けてみせると約束した10パーセントではなく、0・1パーセント――になっていた。」
なぜこういうことになるのか。
「マッカーシーの時代は終わったはずなのに、利潤の最大化という新しいイデオロギーに対する闘い、どんな本もすぐに利益を出さなければならないとする主張との闘い」が、幕を切っていたのだ。
編集者の給与は、作った本と、短期間に密接に連動するようになった。
「それは逆に言えば、作った本がどれだけ儲かっているかを示す損益計算書が、編集者ごとに作成されるようになったということだ。」
もちろん編集者が、こんなことをされて喜ぶわけがない。というか、これはたんに編集者に起こったことではない。出版界全体を見れば、「歴史上はじめて、思想がその重要性ではなく、潜在的収益性によって審判されることとなった。」
日本では1990年の半ばぐらいから、この見方は顕著になる。
もちろん日本とアメリカは違う。日本語と英語では、市場の広さが極端に違う。だからメディア・コングロマリットが出版界に襲いかかってくることは、これまでにはなかった。これからも日本の場合は、まあないだろう。
しかし出版社の経営者がボンクラという点では、日本も同じことだ。アメリカほど悪辣な奴でなくても、ピン惚けである限りは、経営者としては失格だ。
こういうことを最初に大っぴらに言い出したのは、たぶん安原顕あたりだろう。最晩年は村上春樹の書名原稿を、古本屋に流したりしたので評判は悪かったが、日本の出版社は上へ行くほどバカばっかりだ、というのを正面切って言ったのは、安原顕が最初じゃないかと思う。
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