本と読書を題材に――『過去をもつ人』(2)

次に高見順を論じた「源泉のことば」。

昔、寺田博という有名な編集者がいて、ときどき酒場で呑んだ。そのとき、高見順というのはニセモノだというのを聞いて以来、その作家を敬して遠ざけてきた。寺田さんとは、合うところと、合わないところがあったけど、彼に言われたから、高見順を読まないというのは、考えてみれば良くないことだ。そこに、荒川洋治が追い打ちを懸ける。

「高見順の文章は、簡明だ。ことばを飾らない。だいじなところでは、数少ないことばだけをつかう。それらを向きあわせたり回転させたりして進む。文の節理が、とてもきれいだ。」
これだけでもう、どれか一編、読んでみたくなる。でも、それだけじゃあない。

「通常の作家が文章なら、高見順は文法で表現する。文法を支点にして、世界を切り拓く人なのだと思う。文章は特殊な能力を必要とするけれど、文法は誰もがつかえるし、さわることができるので、庶民的なものだ。すこやかなものである。高見順のことばは、この先の文学にとっても大切なものだと思う。」
 
さわることができて、すこやかなもの、それが文法(!)。これは言ってみれば、一編の詩だ。
そういえば吉行淳之介にも、高見順の方に身を寄せた人物評があったと思う。やっぱり『わが胸の底のここには』と『いやな感じ』は読んでおかねば。

「素顔」と題する、アメリカの女流作家のことを書いたものは、冒頭の一文で一気に持っていかれる。
「アメリカの女性作家フラナリー・オコナ―(1925―1964)は、読む人の心が壊れるような強烈な作品を書いて三十九歳で亡くなった。」
読む人の心が壊れるって、どんなだろう。これは読むしかなくなる。

そうかと思えば、日中事変の初期に、1時間半にわたる軍縮演説をやった斎藤隆夫の自叙伝の話が出てくる(『回顧七十年』新版)。
「政治家として『した』こと、『見た』ことが中心。他には熱意がない。ほんとうの自伝とは、このように簡素なものなのだ。世の自伝とは別もの。目の覚める思いがする。」
自伝が、本当にこのように簡素なものがどうかは別にして、たしかに目の覚める思いがする。

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