いちびりの本――『京都ぎらい』

これは「いちびり」の本である。関西ではそう言うけれど、関東ではどう言ったらいいのか。

「ひとことで言えば、洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか。」
しかしだからと言って、著者は悲憤慷慨してはいても、百パーセント怒っているわけではない。つまり「いちびり本」である。

「私は彼らから田舎者よばわりをされ、さげすまれてきた嵯峨の子にほかならない」とあっても、読者は「田舎者」である著者に身を寄せて、一緒に怒ってはいけない。

だいたい宇治がどうの、嵯峨がどうのといわれても、狭い京都の中がどうなっているのかまでは、一般の読者には分からない。

「『洛中生息』・・・・・・。ずいぶん、いやみったらしい標題である。洛外生息者の私は、この四文字を見るだけで、ひがみっぽくなってしまう。」
杉本秀太郎先生の名著をなんということか、と片頬で怒って、もう片頬で笑っていればよろしい。だいたい『洛中生息』を見た瞬間、「ボクは『洛外生息』やけどね」と僻む人は珍しい。もっとも杉本秀太郎先生の『洛中生息』は、しんねりしててあまり好きではないが。

「私は心にちかっている。金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい。嵯峨そだちで宇治在住、洛外の民として自分の生涯はおえよう、と。」
どうぞどうぞ、そうしてくんなはれ、という以外にない、片頬で笑って。
 
しかし、考えこませる話もある。
「洛外がこういった言葉をひきうける前の時代に、賤民蔑視のほどはいかばかりであったか。京都はやはりこわい、そしていやな街だったんだろうなと、考えこまされる。」
そこから本格的に、差別の歴史に話が進むのか、とおもえばさにあらず。肩透かしを食わせて、ふたたびなんでもない話に戻る。
 
江戸では芸者だが、上方では芸子と呼ぶとか、坊主めくりは明治時代に始まったとか、寺院に肖像権はないから出版社は三万円払っちゃだめとか、・・・・・・本当にどうでもいい話ばかり。
 
いくらなんでも、これでは本としてまとまりがつかない。そう考えたのかどうなのか、末尾に南朝と北朝の話がでてくるが、これは取ってつけた話で、かえって「京都ぎらい」の焦点がぼやけた。
 
そう書くと、ぼろくそに言ってるようだけど、でもこの本、そんなに嫌いじゃないです。なにせ、「いちびり本」だから。

(『京都ぎらい』井上章一、朝日新書、2015年9月30日初刷)

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