お腹の中から言葉が出る――『夜中にジャムを煮る』(2)

この本の中にたくさん出てくる韓国料理、その奥義は指を使うことである。
「にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染みこむことを了解したうえで指を使うのである。」
 
その韓国は全羅南道(チョルラナムド)には、有名な「珍食奇食」が二つある。

ひとつは生き蛸の踊り食い。
「恐れていたモノが、ついに目前に。生き蛸の踊り食い、木浦名物の奇食である。口に入るや、蛸は残るチカラを振り絞り、頬に、喉に、歯茎に吸盤が全力でキューッと吸いつく。」
これは本文ではなく、写真のネームだが、こういうところにも神経が行き届いてるというよりは、溢れ出る才能がネームにも迸っている、と言った方がいい。

もうひとつはエイである。
「経験したことのない初めてのナニカ。それはみるみる口腔をもわーっと満たし、さらに鼻腔に向けて直撃を喰らわせ、一気に何千本の鋭い針となって脳天をきーんと突き刺した。
 涙がせり上がっていた。発酵したアンモニアの刺激が電流となってびりびり走り抜け、からだが火照る。顔をまっ赤に上気させて涙を垂らしているわたしを、みな呆けたようにぽかーんと眺めている。箸を握りしめて固まったまま、うしろに倒れてしまいそうだった。」

じつは僕も、蛸の踊り食いは韓国に行ったとき食べた。でもそれだけだった。珍しいものをたらふく食って、あー食った食ったと呆ける人間と、そのとき身体が共鳴機となって言葉が出てくる人、ごくまれにそういう人がいるのだ。
 
日本のカレーについても、インドやタイのものと比較して、こんなことを言う。
「カレールーでつくるニッポンのカレー、それは、本家のアジアも経由先のヨーロッパもとろりとおおらかに吸収合併してひとつに束ねた眩惑の味がするのだろうか。」
 
最後に、今日はもう本当に何も食べたくないという日。
「ほんのひと手間だが、そのひと手間がいやなのだ。さりとて冷えきったポテトサラダが喉を通るのも、想像しただけで背筋が寒い。結局、つくり置きの牛肉のしぐれ煮を指でつまんで二度口に放りこみ、冷蔵庫に戻す。ふがっ、ぱたっ。空気を押し出す音を合図に冷蔵庫は押し黙り、ただの四角い箱になる。」
 
ここまで、平松洋子の言葉の出具合い、その腹の中から出る具合を見ていただこうと思ったが、なかなか難しい。言葉の断片ですむなら、虚空にあるものを上手に捉えて、鮮やかに見せればいいわけだ。そうではないとすると、あとはもう全文を読むしかなくなる。
 
そういえば大見出しの四つの言葉も、それだけ取り上げればどうということはない。
「台所でかんがえる」「鍋のなかをのぞく」「わたしの季節の味」「いっしょでも、ひとりでも」
むしろ見出しとしては、ピシッと決まっておらず、溶けて流れてしまいそうだ。しかしこれが、全体の中では生きるのだ。
 
自覚的な評論の文章などでは、言葉をくっきりと際立たせるために、接続詞を切り詰める。とくに改行冒頭の接続詞は、逆接を除けば、まず省略される。
 
平松洋子のそれもまた、改行の冒頭には、ほとんど接続詞が来ていない。逆接はまだしも、順接となると本当に少ない。でもそれは、言葉の姿かたちを際立たせるためではない。そうではなくて、言葉が体の中から出てくるため、順接の接続詞はいらないのだ。この呼吸、わかりますか。

(『夜中にジャムを煮る』平松洋子、新潮文庫、平成23年12月1日初刷)

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