問題の書、または胃痛・嘔吐・下痢・便秘――『癲狂院日乗』(車谷長吉)(1)

平成10年(1998年)4月14日から11年4月13日までの、車谷長吉の日記である。これはおよそ25年間、活字にすることができなかった。それほど問題が多かったのである。

この年、長吉は『赤目四十八瀧心中未遂』で、直木賞を受賞している。

「癲狂院〔てんきょういん〕」とは精神病院、「日乗〔にちじょう〕」とは日記のこと。僕は、癲狂院すなわち精神病院とは、この世の中全体の比喩と思っていたが、そうではなく、車谷が強迫神経症の治療のために通っている、北浦和のクリニックのことだった。
 
1日目から、「精神を病んでいるのだ。精神病は死だ。生ける死人だ」と身も蓋もないことが書かれているが、2日目の冒頭には、「今朝、目が醒めた時、ふとんの中で嫁はんと接吻した」と、微笑ましいことが書いてある。

長吉と高橋順子が結婚するのは、1993年。子供はいない。結婚して6年目なら、寝床の接吻もあるような気がする。
 
ただしこの日記は、前半と後半で調子が変わる。後半では、そういう「楽しいこと」は出てこない。
 
まず長吉の病について。

「駅の構内を歩いている時、道を歩いている時、誰かが前を歩いて行く。それが私には不吉なことなのだ。その男、または女が歩いて行く後ろには毒素が撒き散らかされ、それを私は全身に浴びるのだ。前へ行く男、または女の歩調と私の歩調が合ってしまうと、たまらなく息苦しい。〔中略〕どうしても避けられない他人。不安だ。これも私の病いだ。このおびえ。」(4月17日)
 
だから外へ出れば、必然的に気が狂いそうになる。毒素が撒き散らかされるのだから、家に帰っても、いつまでも手を洗い、部屋や廊下の隅々までを、拭き清めなくてはならない。これは苦しい。
 
しかし前年の秋に、「文学界」の『赤目四十八瀧心中未遂』の連載が終わってからは、急に原稿の注文が来るようになった。それはもう滝のごとくである。

「次ぎ次ぎに押し寄せて来るので、無能の私としては応じ切れない。」(4月19日)

「新潮」(「私の好きな歌」)、「新刊ニュース」、「俳句朝日」、「波」(書評)、「群像」、「新潮」(書評)、新潮文庫(解説)、「波」(連載)、「文藝」、角川書店、「ユリイカ」、小学館(文庫書き下ろし)、「三田文学」、「文學界」(長篇小説)、ざっとこんなもの。およそ半年間とはいえ、凄まじい量である。

「私としては精一杯引き受けて来た積もりだが、併〔しか〕しそれは恰〔あたか〕も背中に重き荷を負うてその日その日を生きているが如くに感じられる。〔中略〕
 午後、『ユリイカ』(青土社)の原稿書く。太宰治『晩年』について。暗闇に頭を突っ込んでいるような時間だった。」(同日)
 
何とも言えない。
 
そのところどころに、心臓に差し込みがきたり、夜中に胃痛で明け方まで苦しみ、その結果、午前中、頭が痛くて疼く、とある。
 
外へ出れば、他人が怖いだけではない。

「道端に犬の糞がある。電信柱に犬の小便が引っ掛けられている。そういう前を通り掛かると、毒気で辺りの空気が汚染されているように感じられ、私は全身に汚れをあびる。どうやって身を浄めればいいのか、分からない。これが私の病いだ。
 午後、青土社へ。〔中略〕駿河台下の路上で立小便。私も犬だ。」(4月21日)
 
他人だけではなく、動物も穢れを持っている。そしてそれは、私も同じことだ。

この日も夜は胃痛。そして勤め先のセゾングループは、すでに待ったなしの「清算」状況だ。それは長吉のクビを意味する(まだ直木賞は獲っていない)。
 
押し寄せてくる精神的・物質的困難を考えれば、車谷長吉が自殺しなかったのは、ほとんど奇跡である(親族が五人、自殺したのに)。高橋順子の存在のみが、長吉をこの世に留めていたのだ。