いないけれど、いる――『この世の道づれ』(高橋順子)(2)

車谷長吉は10年以上、強迫神経症に苦しめられた。
 
そのころ、夫婦2人で駄木〔だぼく〕句会をやり、詠んだ句である。

「日に夜に薬呑むうち夏来たる   車谷長吉

 薬ひとつ減りたるうれし桐の花  高橋順子」

席題の1つが「薬」であった。かなり切実な句である。

「不安や緊張を和らげる薬二錠、気分を明るくする薬二錠、意欲低下を改善する薬三錠、副作用を抑えるための胃腸薬二種類各二錠、同じく副作用の便秘に用いる緩下剤二錠、これが一日分のくすりである。」(「枯れ色の風景」)
 
順子は毎日、これだけの薬を整えた。一緒に闘病している気持ちを込めて。
 
高橋順子はもう何も望まない。何事につけ張り合いとか欲望というものに、とらわれることがなくなった。ただ長吉のことを思うばかりだ。

「車谷はいないけれど、いる、と思って日々を過ごしています。いまは二階の書斎で勉強している、と思っています。朝の散歩のとき、根津神社の銀杏の木を仰ぐと、晴れた日には彼の顔が大きく空に浮かびます。」(「いないけど、いる人」)
 
住むところを、世間から、高橋順子の心の中に変えてから、長吉はゆったりと落ち着いたようだ。この度の教訓としては、夫は必ず妻より先に死ぬこと、ここに尽きている。

「漱石の硯」は捻りがあって、他のエッセイとは違っている。
 
高橋順子の叔母は、大正15年に生まれ、女学校を卒業し、数年たって夏目漱石の長男・純一宅に、家政婦として移り住み、50年以上を過ごした。
 
それを多として、あるとき純一氏が、漱石愛用の硯を渡したのである。50年以上も住み込みで暮らしていれば、家族同然で、何かしてあげたいというのは、自然の成り行きだ。
 
高橋順子は、「叔母に漱石の硯をいただいてどんな気持ちがしたかとたずねたことがある。『重苦しい気持ちだった。持っていろと言われたから、ずっと持っていた』と答えた。」

叔母は、純一氏とその妻を看取って、78歳で夏目家を出た。

その後、姪の高橋順子が用意した、小さなマンションに移った。
 
漱石の硯は、引っ越しの荷物とは別に、高橋順子が鞄に入れて、電車で叔母のマンションに運んだ。

「連れ合いは硯のことは知っていて、私が狙っていると思い込んでいた。私は彼に気づかれないように洋服ダンスの中に隠した。狙っているのは車谷だったからである。『漱石は天才だ!』と感嘆していた男に見つかって、奪い合いになったら、硯の運命はどうなるか。」
 
面白いですなあ。
 
ちなみに『癲狂院日乗』を読むと、漱石の硯は、夫婦で奪い合うことはなく、叔母の死後、漱石ゆかりの施設に寄贈されている。
 
叔母は2022年、95歳で永眠した。この叔母の死と、『癲狂院日乗』の刊行は、密接なつながりがあるが、それは次にこの本のことを書く際に。
 
漱石と言えば、長吉は「漱石山房」にならって、自分の住まいを「蟲息〔ちゅうそく〕山房」と称した。

「『虫の息で暮らしている』という意味の他に、その頃、葛の葉の裏についていたホソハリカメムシをとても可愛がりまして、蟲の字の一番上にいるのがそのホソハリカメムシや、小説『武蔵丸』になったカブトムシで、その下の虫二匹が僕たちだと、言っていたことがありました。」(「〈講演〉車谷長吉という人」)
 
おどけているようだが、人間も虫も変わらない、という低いところから発する、長吉の視線は強烈だった。

(『この世の道づれ』高橋順子、新書館、2024年8月1日初刷)