この本は、車谷長吉の『癲狂院日乗〈てんきょういんにちじょう〉』と同じ日、2024年8月1日に刊行された。これはどちらも、買わないわけにはいかない。
まず高橋順子さんの『この世の道づれ』から読んでみる。長吉がらみの、ごく短い随筆が約50本、4章に分けて収められている。
高橋順子の『夫・車谷長吉』はこの10年、何度も朗読してきた。脳出血による高度脳機能障害で、僕は自分の内面から作らなくてはいけなかった。それで同じものを朗読したのだ。
今度の本で、高橋順子は言う。
「あれから九年になろうとしている。毀誉褒貶の甚だしかった連れ合いの作家・車谷長吉が六十九歳で逝ってから。」(「あれから――あとがきに代えて」)
高橋は、車谷文学が読み継がれることを願っている。けれどもその小説で、車谷の親族にはつらい思いをさせた、そのことはよく分かっている。
「なぜそんなむごいことをしたのか、と考えれば、車谷は私たちがみな滅んだ後、自分の書いたものが残り、血のにじむような異様な緊迫感に、後世の人々はリアリティーとともに、文学を読む満足感を味わうだろうと、ひそかに期するところがあったのではないか。書いたものが残るという希望が、彼を支えていた。」(「車谷文学の行方」)
本当に、ただ一つの正当な考えだ。
また長吉は、高橋順子に散文の秘訣を教えた。
「エッセイの登場人物には実名をつかえ、と言った。たとえば『連れ合い(車谷長吉)』というふうに。そうすると、どんなにしまりのない文章でも緊張感が出てくるのだった。が、これは危険な方法だった。彼は名誉棄損で提訴されることにもなった。」(「文章指導」)
実際、『癲狂院日乗』は、どういうふうに実名問題を乗り越えたのだろうか。読むのが楽しみでもあり、怖くもある。
車谷は生粋の関西人だった。
「連れ合いは漫才師になりたかったという人だったが、漫才師になれなかったから、作家になってしまったのかもしれなかった。〔中略〕書くものは深刻な題材が多かったが、ふだんはおしゃべりで、じきに破目をはずして楽しい人になった。そんな人は関東育ちの知人の中にはいなかった。」(「関西と関東」)
僕もすぐに破目を外し、その脱線がどこまでも行く。きっと車谷も、吉本新喜劇と、黒川博行の関西弁の小説が好きだったろうな。僕は脳出血を患って以来、その脱線が思うように進まないから、人にはあまり合いたくない。
2人にとって、本当に幸福な時間もあった。
「これだけはしてはいけない、と言われた料理がある。天ぷらである。なにしろ私は上の空なので、天ぷらを揚げているときに、電話が鳴って鍋から離れ、長話の挙げ句、家を焼かれては一大事だというのである。〔中略〕生フグの冷凍フライなどを知人からいただくこともあるが、そういうときは連れ合い自らが揚げてくれる。すごく美味しい。」(「元料理人の料理」)
車谷は、本物の料理人にはならなかったがゆえに、家庭で順子さんのために料理を作ったのだ。