この本はノルウェー語から英語に訳されたものを、村上春樹が重訳で日本語に訳したもの。
『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』には、こんなふうに紹介されている。
「ソールスターという作家の面白さは、スタイルが古いとか新しいとか、前衛か後衛か、そういう価値基準を超えて(というかそんなものをあっさり取っ払って)作品が成立しているところだと思う。とても痛快で、そしてとてもミステリアスだ。こんな小説を書ける人は世界中探しても、あまりいない。」
いったいどういう内容だろう。激しく好奇心を刺激される。そして最後はこういうふうに結んである。
「こういう作品にめぐり合うと、生きていてよかったとまでは言わないにしても、本当にうれしくなってしまう。」
こんなことを書かれて、それでもスルーするなら、もう本を読むのは止めなさい。
村上さんは、ノルウェー語はできない。しかし自分が重訳でも訳さなければ、誰もやらないだろう、というわけだ。
このタイトルの意味は、11冊目の小説で、18冊目の著書。なんか人を馬鹿にしてて面白い。
それで読んでみたのだが、全体の感想を言えば、この小説は案に相違してつまらない。
エピソードは次から次へと、切れ目なく出てくる。主人公の男が、中央官僚の道を捨て、妻と子どもを捨てて、女と地方の都市で暮らすが、やがてその女とも別れて、1人になる。
そこまでが、一見リアリズムで書かれているが、その方向性が微妙にリアルではない。村上春樹が言うように、全体がちょっと歪んでいる。
最後に主人公は、脚が使えなくなる身障者のふりをして、手厚い福祉の介護を受け、車椅子で生活することになる。
このエピソードが唐突に出てくるから、仰天することになる。
大事なことはこの小説家が、最初から終わりまで、主人公の内面を、一貫したものとして描いていないことだ。
だからエピソードは、脈絡なくいくらでも出てくる。確かに「これは何だ」となる。でも、飽きるし、面白くない。だって必然性がないから。
作中、主人公はアマチュアの市民劇団に入り、イプセンの『野鴨』をやることになる。
僕は『野鴨』を読んでいないのだが、村上春樹は「『野鴨』を久しぶりに読み返してみて、両者のあいだにずいぶん通底した雰囲気があることを発見して、驚いてしまった。〔中略〕『野鴨』に登場する人物たちはそれぞれの背景を抱え、それぞれの意図を持って生きているが、現代の僕らの目から見ると(おそらくは当時の人々の目から見ても、と僕は想像するのだが)、みんないささか奇妙な人々である。その心理や意図はいちおう説明されているし、理解もできるのだが、彼らに感情移入をすることはほとんど不可能だ。」
『野鴨』と、ソールスターのこの小説は、驚くほどよく似ている、と村上春樹は言う。
そしてこの小説の核心に触れる。
「そこにある風土の厳しさ、人の心が置かれたある種の窮屈さ、しかしそれでもなお(というか、なればこそというか)追求されなくてはならないモラル、そういうものが、読者の肌身にひしひしと迫ってくることになる。」
僕にはそれが分からない。小説の、どこのどの部分を指して言っているのだ。
「そして独特の巧まざるユーモアの感覚(それは細部にほんの僅かずつ浸みだしている)と、抑制されたしかし巧妙なストーリー・テリングが、そこにある痛切さをとてもうまく和らげている。そのかねあいが実に素晴らしいと僕は感心してしまう。」
ここはわずかに分かる気がする。
そしてそれは、村上春樹を読み解くカギにも、なっているのではないかと思う。
(『Novel 11,Book 18(ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン)』
ダーグ・ソールスター、村上春樹・訳、中央公論新社、2015年4月10日初刷)