あのころ、アンナ・カリーナが――『ゴダール/映画誌』(山田宏一)(1)

山田宏一の『友よ映画よ〈わがヌーヴェル・ヴァーグ誌〉』は、大学生のころ読んで感動した記憶がある。何に感動したのかは、すっかり忘れてしまったが、でも深いところに届く、非常にいい文章だった。

『定本 たかが映画じゃないか』では、和田誠と対談している、その仕方が気持ちのよいものだった。
 
今度は『ゴダール/映画誌』である。どういう本がというと、

「1960年代のジャン=リュック・ゴダール監督の映画――ポーリン・ケイル女史がいみじくも名づけた『豊饒なる六〇年代ゴダール』――について、私にとってのゴダールのすべてと言っていい『勝手にしやがれ』(1959)から『ウイークエンド』(1967)までの十五作品に焦点を絞って、機会があるごとに、試行錯誤をくりかえし、改稿を重ねながらも、あちこちに書き綴ってきた拙文の私なりの集大成です。」
 
そこに2022年の、ゴダールの自死に際しての追悼文を収める。
 
そしてもう一つ、付録として「ゴダールvsトリュフォー喧嘩状」を収める。
 
1970年代の初めに大学生になった僕にとって、ゴダールは頭の隅にある名前だった。友達の下宿で、また飲み屋で議論するとき、しょっちゅう出てくる名前だった。
 
しかし正直なことを言うと、僕はゴダールの映画はそれほどは見ていない。『勝手にしやがれ』『女は女である』『女と男のいる舗道』『軽蔑』『気狂いピエロ』『中国女』、これで全部だ。
 
でも20歳前後の学生にとっては、そこにゴダールの込めた思想は分からなくとも、興奮し面白かった。
 
フランス文学科へ進んだから、背伸びする気持ちも大いにあったろう。
 
ただ、金がなかった。父親に対して、できる限り内面の関わりを避ける気持ちがあり、だから仕送りも最小限だった。
 
今ならもちろん、そんなことはせず、自分がどこに向いているかどうか、分からないのだから、そういう親子のことはいったん棚に上げて、スネを齧っているところだ。

それができなかったのは、そういうことも含めて、自分の人間の小ささを感じさせる。
 
とにかくそれで、東京で上映されるゴダールの映画を、全部見ることはできなかった。
 
見た映画の中では、『勝手にしやがれ』が断然面白かった。

「パリのシャンゼリゼ大通りの歩道で、ショートカットのアメリカ娘ジーン・セバーグがアメリカの新聞『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』を売っているところへジャン=ポール・ベルモンドがやってきて、二人でゆっくり歩きながら会話をする長いワンシーン=ワンカットも、当時、郵便物の運搬や配達に使われていた手押しの三輪車があって、車輪もタイヤで滑りがよく振動も少なく、キャメラマンのラウル・クタールがそのなかに入って隠し撮りをした」。
 
この辺は印象的なシーンだ。何ということはないシーンなのだが、『勝手にしやがれ』を思い出すと、真っ先にこの場面が浮かんでくる。
 
ゴダールの演出は、次のようなものだった。

「ゴダールがキャメラのフレームに(視野)に入らないすれすれのところで俳優たちに口伝てでせりふを教える、俳優たちはそのせりふを聴き取って自分の言葉でくりかえして演じるという方式で、すべてが現場で直接的に――即興的に――おこなわれる」。
 
この方法は「よきにつけあしきにつけ」、ゴダールの定番になる。

「やらせのドキュメンタリーのようだが、撮り直しのきかない危険な同時録音撮影なのである。原則としてすべてぶっつけ本番、NGなしの撮影だ。」
 
こういうのは、若手の監督なんかで時々ある。台本なしは、北野武もやっている。芝居では、つかこうへいが口建てでやっていた。
 
よほどの天才じゃなければ、たちまち行き詰まる。ゴダールは、60年代末までの10年間は保ったのだから、たいしたものである。
 
でもこの方式は、僕には飽きる。何というか、タメや深みが総じてないのだ。