こういう作品だったのか――『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー、村上春樹・訳)(3)

この話はフィリッブ・マーロウが、酔っ払いのテリー・レノックスと知り合うことから始まる。
 
冒頭の1行はこうだ。

「テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。駐車係の男は車を運んできたものの、テリー・レノックスの左脚が忘れ物みたいに外に垂れ下がっていたので、ドアをいつまでも押さえていなくてはならなかった。」
 
男は冒頭から散々である。はじめにこういうふうに登場した人物を、徐々に書き変えていくことは、かなり難しい。

「1」の章の最後には、こうある。

「唇を嚙みながらハンドルを握り、帰路についた。私は感情に流されることなく生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。」
 
ハードボイルドの典型である。「あっしにゃあ、関わりのないことでござんす」、と言いつつ巻き込まれていく。
 
ここが村上春樹によれば、次のようになる。

「『ロング・グッドバイ』にあって、ほかの『マーロウもの』にないもの、それはいったい何だろう? それは言うまでもなくテリー・レノックスという人物の存在である。『ロング・グッドバイ』という作品を、ほかの彼の作品群から際だたせている原因は、ひとえにこのテリー・レノックスの造形にあると言い切ってしまってもいいような気がする。この小説はフィリッブ・マーロウの物語でありながら、同時にテリー・レノックスの物語でもあるのだ。」
 
うーん、これはちょっと無理ではないかな。
 
物語全体を読み終えたとき、テリー・レノックスは、たんなる酔っ払いからだんだんに変貌しており、その意味では「テリー・レノックスの物語」と言ってもいいものだ。
 
しかしこの変貌は、かなり無理をしなければ、描写する上で苦しいものだ。
 
村上春樹はしかし、そんなことはたいして気にならない。なぜならそこを、次のようにして読むことができるからだ。

「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。そしてそのような仮説のもとに『ロング・グッドバイ』を読むようになった。」
 
ここは、「チャンドラーとフィッツジェラルド」という章なのだ。
 
だからフィッツジェラルドの登場人物と、『ロング・グッドバイ』の登場人物を当てはめていけば、そういう読み方も、できるといえばできる。
 
しかしここを、僕はそうは取らない。そうではなくて、ある長い時を経た悲恋物語の、構造がよく似ていて、村上春樹はそういう物語に心打たれるのだ、と取った方がいい。
 
ただし急いで付け加えれば、村上春樹の言う前提を、仮に取ったならば、「チャンドラーとフィッツジェラルド」の章は、これはこれで実に興味深い。
 
村上春樹の「訳者あとがき」はとんでもなく面白く、それを読んでぶつぶつ言うことは、読書の最高の楽しみである。

ということで、このまま勢いをつけて『大いなる眠り』、『さよなら、愛しい人(さらば愛しき女よ)』を読んでみよう。

(『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー、村上春樹・訳、
 ハヤカワ文庫、2010年9月15日初刷、2020年10月15日第14刷)