村上春樹の案内により、彼が訳したレイモンド・チャンドラーのフィリッブ・マーロウもの『ロング・グッドバイ』を読む。
『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』にはこうある。
「チャンドラーの文体は僕の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるというのは、実に小説家(翻訳家)冥利に尽きるというか。あまりに楽しいので訳者あとがきを百枚も書いたら、本が分厚くなって定価が高くなると文句を言われてしまった。」
しかしその100枚の「あとがき」のおかげで、この本の読みどころがよく分かった。
レイモンド・チャンドラーは、僕が高校のとき、清水俊二の訳で『さらば愛しき女よ』と『長いお別れ』を読んだ。ひょっとすると『湖中の女』も読んだかもしれないが、憶えていない。
そして、チャンドラーは僕には合わない、その原因は、たぶん翻訳にあるのではないか、と思った。
しかし村上春樹は「訳者あとがき」で、清水俊二の訳を、「とても読みやすい優れた翻訳である」と言っている。
村上は高校生の頃から、『ロング・グッドバイ』を繰返し、原文で読んだり、清水俊二の訳で読んだりしてきた、というのである。
しかし同時に、「清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。〔中略〕清水氏がどのような理由や事情で、細かい部分をこれほど大幅に削って訳されたのか、僕にはその理由は勿論わからない。」
そこで村上さんは、訳者の都合か出版社の都合、あるいは翻訳の出た1958年は、原書が出てから4年間しか経ってなくて、チャンドラーの文章家としての価値が認められていないので、おそらくは文章が短く刈り込まれたのではないか、と推測している。
ただ村上春樹の、清水俊二訳の評価は、全く揺らいでいない。
「清水訳が『たとえ細部を端折って訳してあったとしても、そんなこととは無関係に、何の不足もなく愉しく読める、生き生きした読み物になっている』ということは、万人の認めるところだし、氏の手になる『長いお別れ』が日本のミステリの歴史に与えた影響はまことに多大なものがある。その功績はたたえられて然るべきものだし、僕としても先輩の訳業に深く、率直に敬意を表したい。」
まあ、絶賛である。僕の「清水訳とは合わない説」は、どうやらそんなことではないらしい。
実際、村上春樹の訳を通しても、僕には今一つ難しくて、話の運びがやや難解である。
僕はそのころレイモンド・チャンドラーよりも、ロス・マクドナルドに夢中だった。リュウ・アーチャーものの頂点をなす『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』以下、『動く標的』から始まって、たぶん全部読んだ。
思い返せば、親の因果が子に報い、ばかりなのだが、こういうものは、日本人なら中毒しやすい。
ロス・マクも同じ因果話を書き続けたのだから、骨身から染み出るところがあったのだろう。ついでに言えば、養老孟司先生もロス・マクドナルドが好きだ。
しかしともかく、これとレイモンド・チャンドラーは、全く違う。
極端な言い方をすれば、ロス・マクドナルドの「浪花節」に対して、チャンドラーの「文学」、それも村上春樹の言い方を借りるならば、「準古典小説」の違い、ということになる。