半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(4)

第3章は「ビッグバン宇宙 Ⅰ――宇宙開闢約0.1秒後『以前』」。この「約0.1秒」が比喩なのか、正確なものなのか、僕には分からない。
 
ともかく宇宙の年齢が、1マイクロ秒(10-4〔乗〕)以前には、温度が約1兆度以上あった。

そう言われてもなあ。1兆度と言われても、ただ熱い、すごく熱い、としか言いようがない。それとも僕自身が、見ただけで、溶けてしまうだろうか。これもたぶん、方程式を解くことで、得られた結果に違いない。
 
1兆度以上の温度では、陽子や中性子などは存在しない。後に陽子や中性子を塊として構成するクォークや、電子、光子が、この段階では素粒子として、自在に飛び交っていたのだ。
 
はじめは、クォークとレプトンの質量はゼロであった。これもきっと、当該の方程式を解くことで得られたのだろう。
 
それが、宇宙が膨張して冷える過程で、電子を含む素粒子は、初めて質量をもったのだ。
 
この驚くべき構造の変化は、宇宙空間にヒッグズ粒子が敷き詰められていて、初めて可能になった。ヒッグズ粒子が敷き詰められていれば、その間を通る素粒子は減速する。この減速する分が、素粒子の質量になる。
 
なるほど、質量ってそういうものなのか。
 
しかし著者は、ときどき読者が戸惑うようなことを言う。

「よく比喩的に『初期の宇宙は非常に小さかったので、素粒子物理学で調べることができる』と言われることがありますが、これは正確ではありません。〔中略〕宇宙の『大きさ』は初めから無限であり得ます。『初期の宇宙は非常に高エネルギー密度の状態にあったので、素粒子物理学の知識を用いないと調べることができない』がより正しいステートメントです。」

「宇宙神話」の叙述の仕方で、きっと様々な流派があるのだろう。
 
第3章以降、つまりビッグバン以前が、確実だと言えないのは、観測によるデータが得られないからである。
 
それでも大枠は分かる、と著者が言うのは、物理法則を使って、時間をさかのぼれるからである。
 
また第3章には、「反物質」の話も出てくる。
 
世の中に存在するすべての物質には、正反対の性質を持つ「反物質」が存在している。これも「場の量子論」の一般的な結論であることが、分かっているという。
 
たとえば、電荷がマイナス1の電子に対しては、プラス1の「反電子」、つまり「陽電子」が存在する。これは陽子、中性子の場合も同じことである。

「世の中に存在する(ダークマターも含む)すべての物質に、対応する反物質が存在しなければならない〔中略〕。なお、光の粒子である光子のように、電荷等の性質を持たない粒子に関しては、反粒子が元の粒子そのものである可能性があります。実際に光子の場合、反粒子は光子自身です。」
 
後半、何を言っているのかわからんぞ。要するに電荷のない場合には、粒子・反粒子といっても、区別の仕様がないのだから、意味はないということか。
 
この素粒子と反素粒子、物質と反物質は、宇宙で出会えば、「対消滅〔ついしょうめつ〕」という現象を起こして、大量のエネルギーに変換され、必ず消滅する。
 
つまりこの宇宙では、物質と反物質は必ずペアで生み出され(これを「対生成」という)、それが出会うと「対消滅」を起こす。
 
よって宇宙には何も存在しない、太陽や地球も、私やあなたも存在しない、となると困るので、物質と反物質の対称形はわずかに壊れており、物質が反物質よりもわずかに多くなっている。そういうふうに、「物理学神話」では設定してある。
 
僕は妄想を抱く。もしこれが逆で、反物質が物質よりも、わずかに多い場合には、どういう宇宙になっていたのか。その場合も、世の中は同じように生まれていたのだろうか。日本の場合は、世間に対して反世間か。
 
そして生命は、生まれていたのだろうか。
 
それとも、もっと魔的なもの、反生命と呼ぶしかないようなものが、生まれていたのだろうか。とはいっても、反生命が何を指すかは、皆目わからないのだが。

半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(3)

そしてダークマター以外にも、新たな謎がある。
 
1998年(わずか30年足らず前)に、観測結果として、宇宙の膨張スピードは加速している、という発表があった。
 
これは衝撃的だった。
 
宇宙に異なる物質があれば、この間には必ず引力が働く。それは2つの物質が離れていくのを遅くする。

「つまり、宇宙膨張は重力の効果で遅くなっていくと考えられるのです。」
 
ところが現実には、宇宙は加速膨張をしている。
 
これは宇宙には、物質以外の何かがあることを意味する。重力よりも大きな、なんだか分からないエネルギー源、つまり「ダークエネルギー」である。といっても何も言ったことにならないのだが。

「ダークマターとダークエネルギーは、その名称が少し似ているにもかかわらず全く別のものです。ダークマターは、標準模型に含まれる粒子ではないものの、物質であることには変わりありません。一方で、ダークエネルギーは物質ですらないのです。」
 
ちなみに「宇宙のエネルギー密度の組成」は、普通の物質などが5%、ダークマターが26%、そしてダークエネルギーが69%である。つまりダークと付く物質とエネルギーで、なんと95パーセントを占めている。ここに来て、宇宙はほとんど謎だ。
 
しかし、と著者は高らかに言う。

「私たちが宇宙と言ったときに真っ先に思い浮かべる星や銀河は、宇宙にとってはある意味『不純物』のようなものにすきません。とはいえ、この不純物が私たちを育んだのです。そして、その不純物のおまけでもあるような私たちが宇宙全体の組成を明らかにしたことは、科学の力を物語るものです。」
 
著者には悪いけれど、これは言いすぎだと思う。科学者が集まって明らかにしたのは、ほんのわずか、地球の周りと、宇宙における物質が5%だけである。
 
それ以外は「ダーク」な「物質」と「エネルギー」、つまり謎であり、分からないのである。
 
でも考えてみれば、人類がこういう考察をしてから、1万年もたっていない。
 
話は思いきり違うが、たとえば将棋。これを極めるのに何年、何百年、何千年かかるか。藤井聡太は毎回、初手は決まっている。初手お茶は別にして、取りあえずは「2六歩」(後手の場合は「8四歩」)である。
 
これは初手「2六歩」を、まずは極めようということだと思う。
 
本当は初手は、どんな指し方でもいいはずだ。そしてそれを、全部の指し手について極めるためには、藤井竜王・名人クラスの人間が何人いて、何年かかることか。
 
将棋でさえそうなのだから、それを思えば、科学の謎を解くのに、あと十万年かかろうが、百万年かかろうが、そのくらいは見ておいた方がよい。もちろんこれは最速で考えているので、途中、戦争をしたりするようでは、ゴールは遠くおぼつかない。
 
第2章は「ビッグバン宇宙 Ⅰ――宇宙開闢約0.1秒後『以降』」で、これは現在の物理学で、ほぼ解明ができている、と著者は言う。誕生した後、約0.1秒後の宇宙が、高温の「火の玉」であったことは間違いない、と。
 
以下、一般相対性理論などの方程式を解くことで、だいたいのことは分かる、と著者は言う。
 
その結果は実に面白いが、僕にとっては、これもまた「神話」というしかない。そういう「神話」の物語の一節を、書きとどめておく。

「私たちの太陽は、これら第一世代の恒星がその寿命を爆発により終えた後、そこから吹き飛ばされたガスを基に今から50億年ほど前に誕生した第二世代、もしくは第三世代の星です。そのため、地球を含む太陽系の惑星にはこれらの重い元素が十分に含まれます。そして、これらの元素は地球やそこに生きる生命の体を構成しています。つまり、私たちの体は大昔の星の残骸でできているのです。」
 
著者が自信満々に語る「宇宙0.1秒後からの歴史」に、僕は強烈に惹きつけられつつも、ここに完全に取り込まれてはいけない、と思っている。

半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(2)

第1章は「現在の宇宙」について。ここでは20世紀初めの、「宇宙は膨張している」という大発見がある。
 
これは、望遠鏡で宇宙を見て観察した結果、分かったことではない。アインシュタインが一般相対性理論を完成させ、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかである、という結論を得たのだ。どうしてこういう結論になったのか。その証明は、ブルーバックスの読者、つまり僕程度では難しい。
 
そのすぐ後、アメリカの天文学者が観測により、宇宙は膨張していることを確かめたのだ。
 
というと素人の僕は、そういうものかと納得するのだが、しかし考えてみれば、おかしなところはいろいろある。
 
たとえば、「宇宙の膨張」とは「宇宙全体のサイズが大きくなること」とは限らない、と著者は言う。

「宇宙の膨張とは、銀河間の距離といった、宇宙の異なる点の間の距離が一様に大きくなっていくことであって、これは必ずしも宇宙全体が有限であって、そのサイズが時間とともに大きくなっていくということを意味するわけではないのです。」
 
その結果、とんでもないことを言う。

「宇宙全体のサイズが、最初から無限だという可能性もあるのです。」
 
これはおかしい、と僕は思う。だってビッグバンが起こる前の、インフレーションが起こる前の宇宙は、限りなく小さな点だったのではないか。だいたい最初から「無限」では、宇宙の「誕生」に意味がないではないか。
 
でもまあいい。物理学的「神話」においては、とにかくしばらくは、お説ごもっともで行くほかはない。
 
つぎに天体を構成する、基本粒子の話が出てくる。これは原子よりもずっと小さなものだ。その素粒子は今のところ、17個が発見されている。

最後まで問題になったヒッグズ粒子も、その中の1つである。 

それぞれの粒子の詳しい性質が述べられているが、そこは省略する。
 
その最後に、「素粒子の標準模型の数式」というのが載っているが、そこも省略したい。数式というだけあって、本当に数式そのものなのだが、等式の右辺と左辺が何をあらわしているか、見当もつかない。
 
著者によれば、次のようなことらしい。

「この素粒子の標準模型は、主に1950年代から1970年代にかけて多くの物理学者の手によって完成したもので、ゲージ原理という極めて美しい数学的構造に基づいて作られています。〔中略〕このたった数行の式が、私たちが直接(重力以外の力を通して)観測できる現象の全てを極めて正確に記述するのです。」
 
ここでは「重力以外の……」というところが気にかかる。
 
著者はさらに言う。

「〔17個の〕粒子とその振る舞いを説明するこの数行の式が、素粒子物理から原子核の物理、物性の物理、原子・分子等の化学、生命等に至るまでの全ての起源なのです。」
 
ひとつの等式が、そんなことを表わしているのか。
 
そこでこの等式を、ここに書き残しておきたいのだが、僕のキーボードを操る技量では、文字分数や指数、シグマが入った等式は手に余る。
 
さて問題は、星とその周辺の星間ガスを合わせても、重力から推定される質量に、はるかに及ばないということ。
 
こうして謎の質量、ダークマター(暗黒物質)が現われてくる。
 
現在では、宇宙に存在する全物質の質量の、約6分の5がダークマターである。
 
著者は驚きをもっていう。

「現在ではダークマターが標準模型の粒子である可能性は、様々な考察から否定されています。すなわち、宇宙を占める物質の大部分は私たちの知らない粒子なのです!」
 
未発見の素粒子は、まだいくらでもあるということか。それともそれは、素粒子ではないのか。
 
それにしても、宇宙の全質量の約6分の5が未知のものであるとは、考えられないことではないか。

半分、神の領域か――『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論―』(野村泰紀)(1)

村山斉の『宇宙になぜ我々が存在するのか―最新素粒子論入門―』を読んだので、今度は宇宙全体を射程に入れたい。とまあ、本を読む前はいつも稀有壮大、意気軒高なのだ。

もちろん、僕のおおもとの疑問は、もとをたどれば素粒子である私たちが、なぜ素粒子そのものを考察できるのか、というところにある。
 
それにしてもこの本、2022年4月に初版が出て、2024年6月には第17刷が出ている。ほぼ2カ月に一度の割合で重版している。すごいね、これは期待が持てますぜ。
 
初めに「まえがき」があって、これがなんというか、圧巻である。

「現代の宇宙論は私たちの宇宙が誕生してから約10-30〔乗〕秒後といった宇宙の『超初期』を科学的に調べることができるレベルにあります。」
 
10-30〔乗〕秒後だって、人間の言葉では、瞬間という以外に言いようがない。

「また、恒星や銀河、銀河団といった現在私たちが見ることのできる構造の起源が、このような宇宙の超初期にどのようにして作られたのか、というような根源的な問いに関しても、理論的にかなりの確信をもって答えることができ、またそれを確認するための観測も行われています。」

ということは、村山斉『宇宙になぜ我々が存在するのか』を、より具体的に説明したものなのだ。

「さらに理論物理学の最前線では、私たちの宇宙を越えた、その外側や生まれる以前などについても議論できるようになってきているのです。」
 
宇宙の外側、宇宙が生まれる以前、そういうことを議論しようではないか、と言っている。著者は正気だから、これはちょっと寒気がするというか、武者震いするというか。
 
本全体は、6章立てになっている。
 
第1章は「現在の宇宙」ということで、宇宙の物質を構成する17の素粒子や、ダークマター(暗黒物質)、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)を解説している。
 
第2章と第3章は、ビッグバン宇宙を扱っている。第2章が「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」であり、第3章は「宇宙開闢約0.1秒後『以前』」である。

第2章「宇宙開闢約0.1秒後『以降』」の事柄は、だいたい分かっている、と著者は自信をもって語るが、ほんとかね。
 
続けて第4章は、「インフレーション理論」である。
 
ここまではよくある話だ。というと分かった気になっているようだが、何度も話で聞いたことがあるだけで、何をどう考えたらそうなるのかは、全く意味不明だ。
 
さらにここから先、仰天するようなことが書いてある。
 
第5章「私たちの住むこの宇宙が、よくできすぎているのはなぜか」は、かなり哲学的な内容が入ってくる、と僕は思う。

しかしもちろん著者は、哲学的なところへは入らず、物理学の論理一辺倒で押しまくる。
 
第6章「無数の異なる宇宙たち――『マルチバース』」になると、その論理がとんでもないところに届いてしまう。

第6章で生成される宇宙は、それこそ永久に、無数にある。僕らの宇宙は、いわばその「泡宇宙」の1つにすぎないのだ。

だから僕らの宇宙が、4次元であるのに対し、別の「泡宇宙」では、10次元の世界が展開され、そこでは物理学の法則も、素粒子の種類と数も、まったく違うのだ。
 
いいでしょう、いいでしょう、物理学の論理は、物理学者に言わせれば、唯一絶対の法則だから、それは言ってみれば、神をも凌ぐ。
 
もちろん著者の野村泰紀先生は、そんなことは仰っていない。しかし宇宙の果てに、それを包み込む宇宙が現われる、などと聞けば、それはもう半分、神の領域ではないか。

私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(3)

私はそういうことはなかったが、多くの高次脳機能障害者には、次のような厄介な問題がついて回る。

「債務履行のような重要課題ですら、むしろ重要課題だからこそ自身の中に把握し続けることができない。『症状』が、またもや不自由な脳の当事者に共通の症状としてあるのだ。
 そしてこれもまた、僕自身の苦しめられている症状でもある。」
 
これは私の場合、妻が全部を仕切っていたおかげで、苦になるということがなかったのかもしれない。
 
次は私も、著者ほどではないが、苦しめられた症状である。

「嫌なあいつの顔が脳裏の『そこにある』と気づいた瞬間、僕の脳内のすべての注意や思考は、その人物との不愉快なエピソードの記憶に全集中し、ガッチリとロックしたように『そのこと以外を一切考えられなくなる』のだ。」
 
本当にある角度から以外に、その事柄や人物について、考えられなくなってしまう。

私はそんなとき、思考がその方向に行かないよう、自分の内面全体に、強制的にシャッターを降ろした。それはもう、シャッター音が聞こえるくらい、キッパリとしたものだった。
 
鈴木大介の場合は、私よりもずっと深刻である。

「その時には、その人物に不愉快な対応を受けた瞬間の苛立ちや怒りの感情が、『体験当時のサイズ』のまま、リアルにフレッシュに蘇ってきてしまう。〔中略〕『そうなってしまう自分』を自分自身で一切コントロールできない、やめられない、止まらない。」
 
これはもう地獄だろうな。そしてこの状態には先がある。

「僕の脳は、それこそ発作的な脳性疲労と同様に頭に濃霧が降りてきたように重怠くなり、思考がまとまらなくなり、人の言葉や文章の理解まで困難になる。車の前に子どもが飛び出してきた直後のような緊張感がずっと続き、胸も喉も詰まり、〔中略〕呼吸そのものが難しくなってしまう。」
 
こういうことは、体験した者でないとわからない。私自身、高次脳機能障害であるにもかかわらず、著者の気持ちは想像するけれども、そこに届いていかない。

「立ち向かうための行動を起こさなければならないのに、逆に全く動けなくなるなんて、想像したこともない不自由だった。だいたい不安になると文字が読めなくなるとか、人の話が聞き取れなくなるとか、全く意味不明だ。」
 
本人が意味不明だと言っているのだから、周りの人が全く無理解だとしても、しょうがない。これは絶望的だ。
 
そうして落ち行く先は、「自分を殺したい・消したい」となる。
 
私は妻の支えがあって、そこに落ちることはなかったが、そのどん底に達した人は、かなり深刻であり危険だ。
 
鈴木大介はそういう人たちに対して、こんな言葉をかけている。

「『こうありたい。他者から信用・信頼される人間でありたい』と願ってしまい、努力してもそのようにできない自分を責めてしまう生真面目で責任感の強いあなたこそが、あなた自身なのであって、それができないあなたや、自身でも許しがたいほどにだらしなく必要な行動が取れないあなたが、あなた自身の本態ではない。」
 
著者も言うように、これでは禅問答のようで、伝わる自信もないが、少なくともこんなふうに声をかけられた方は、生きていく最後の気力を、奮い立たせるのではないか。そういうふうに信じたい。
 
この本全体を覆う、出口のない苦しい叙述の中で、意外にも「第八章 唯一前進している生活保護界隈」だけは、希望が持てる。

「〔メディアが〕生活保護を取り巻く環境が変化しつつある中で旧態依然の事案ばかりを強調してきたことで、徐々に社会のイメージと実態とが乖離してきてしまったというのが、このギャップの正体なのではないかと思う。」
 
即効性のある現実的な方法は、まずここを始めとするしかないのだ。

(『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』
 鈴木大介、幻冬社新書、2024年11月25日初刷)

私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(2)

高次脳機能障害の鈴木大介は、自分の苦手なことを数えてみる。

「僕にとって最も脳を疲労させるタスクには、自身が苦手意識を感じる相手に対して言葉を選んでメールの文面を考える作業や、3人以上が参加する会議、過去に作ったいくつかの原稿や企画案などを比較検討しつつ、良いとこ取りで一本の新規資料・企画にまとめる作業などがある。」
 
これは私も同じだ。苦手な人としゃべるときには、直接であれ、電話であれ、血圧が上がり、うまくしゃべれず、ひどい時には何を言っているのか、自分でも音は出ているが、言葉になっていないことがある。
 
私はもう、人と定期的に会うような仕事はしていない。だから3人以上と会議をすることはない。しかし人と話しているとき、別の人が割り込んでくると、言葉を続けることが、まったくできなくなる。
 
今は原稿料の支払いが生じているのは、『日本古書通信』のエッセイだけである。それはメールで要件は済んでいるので、編集長のTさんは、私の高次脳機能障害に気づくことは、ほとんどないはずである。
 
私も普段は忘れているが、しかし相変わらず障害はある。
 
何よりも脳以外の、右半身麻痺の後遺症が残っている。今は杖を突いて歩くことのできる距離が、200メートルほど。半身不随なので、電車やバスに乗ることはできない。まあしかし、こんなことを喋っていてもしょうがない。
 
著者はこの本で、以下のことを目標としている。
 
1つは、事情があって働けなくなった者に、自己責任論を押し付けるのはやめてほしいということ。そして、「身近に働くことに困難を抱える当事者のいる家族や友人や知人が叱責や失望ではなくその困難を理解すること、そして状況からの脱却を共に考えること」。
 
この3つのうち2つは、ほとんど無理な目標だろう。

仕事でミスを重ねる人がいれば、事情はどうあれ、その担当を外さざるを得ないし、そのとき自己責任を問うか、事情はよくわかるけども辞めてくれと言うかは、大した違いではないような気がする。
 
それとも、そういうふうに考える私は、まちがっているだろうか。
 
また脳性疲労の状況から脱却することを、目標とすることは、新書一冊の内容には、荷が重すぎる。
 
しかし家族や友人に、𠮟責や失望ではなく、こちらの脳の状況を理解してもらうのは、この本をよく読み、考えれば可能だろう。
 
近しい人には、是非とも分かってほしい。そしてそのくらいが、自分の内側しか理解できない人間には、限界ではないかと思う。たった1人の人でも、理解者がいれば、生きていくことは可能なのである。

私がリハビリ病院にいるとき、壊れた私を理解している妻を、唯一の命綱にして、この世界にとどまっていたようなものだ。
 
次は鈴木大介に固有の症状。この辺は、私にはなかった。

「視界にたくさんの物があると、物と物が輪郭を失って溶け合ったように見え、その中から特定の物だけを探すのが異様に難しい。おかげでたくさんの商品が並ぶ百円ショップや、色とりどりの背表紙から目的の本を探す古本屋などからは、めっきり足が遠のいた。実は発症8年後でも、『コンビニで5分10分探して牛乳が見つけられない』なんてことがあった。」
 
こういうのは分からない。同じ高次脳機能障害の私が、具体的に理解できないのだ。
 
しかし不自由な脳には、大きく分けると、3つの共通点が挙げられるようだ。

「臨機応変・咄嗟の対応力の喪失」

「現況の把握力、判断力、自己決定力の喪失」

「論理的コミュニケーション力の喪失」

この中では私は、3番目の「喪失」がいちばん応えた。私は発症から約半年間、ほとんど口がきけなかったのである。

私もまた高次脳機能障害――『貧困と脳―「働かない」のではなく「働けない」―』(鈴木大介)(1)

鈴木大介は『最貧困女子』がベストセラーになり、広く知られるようになった。

そしてすぐに脳梗塞になり、後遺症として高次脳機能障害になった。
 
このときのことを書いた『脳が壊れた』と『脳は回復する―高次脳機能障害からの脱出―』(いずれも新潮新書)は、いろいろと考えさせるところがあった。何よりもその体で、2冊の本を書いたところがすごい。
 
私もまた脳出血で、かろうじて一命を取りとめ、そのあと高次脳機能障害になった。地下鉄の国会議事堂前で、仕事の帰りだった。突然、仕事のキャリアがすべて断たれた。10年前のことだ。
 
鈴木大介は「まえがき――最貧困女子から10年」で、次のように書く。

「日本に飢えるようなことはない、すべての子どもが学校に通えるような日本に子どもの貧困など存在しないと吐き捨てる為政者もいた。だが、2024年。もはやこの国が格差社会であることも、事実貧困者が存在することも、誰も疑わない。」
 
著者は、その根底に多くの場合、壊れた脳、働けない脳が、あるのではないかと言う。
 
著者は脳梗塞になる前、いろんな人を取材したが、その過程で敢えて書かなかったことがある。それは次のようなことだ。

「なぜ彼らは、こんなにもだらしないのか。/なぜ、何度も何度も約束の時間を破って遅刻を重ねるのか?/なぜ即座に動かなければ一層状況が悪くなるのが目に見えてわかっている場面で、他人事のようにぼんやりした顔をし、自ら動こうとしないのか?/なぜ熱もないのに寝たまま行政や銀行の窓口稼働時間を逃し、支払いや申請が間に合わずに泣きついてくるのか?/なぜ督促と書かれた封筒を開けもせず、ポストの中に溜めるのか?/なぜ手を差し伸べる支援者に限って激しく嚙みつき、せっかくの縁をぶち壊しにするのか?」
 
こういうことは、あえて書かなかった。これをそのまま書けば、それはお前が悪いという、自己責任論の出番となるからだ。
 
だから著者は『最貧困女子』では、3つの障害として、「精神障害・発達障害・知的障害」を挙げた。
 
事実、売春で自活する少女たちには、発達障害や知的障害のあるものが多く、売春を主な生計として子育てをするシングルマザー、21名のほぼ全員が、精神科に通院中か通院歴があった。
 
著者はそれをこう考えた。

「『なぜ』をたびたび感じながらも、それが貧困者の実像であり、それが精神を病んだり障害特性がある者の実情なのだと解釈し、彼らに対する自己責任論の燃料になりそうなリアルは徹底して解像度を落として描写し続けた。
 そのことをいまは、後悔している。」
 
なぜか。それは著者自身が、同じ状況に陥ってしまったからだ。

「彼らに対して感じ続けてきた、なぜ『やろうとしないのか』、なぜそんなにも『やる気がないのか』、なぜそんなにも『ちゃんとしていないのか』等々が、『必死に頑張ってもできないこと』『やる気があってもできないこと』だったと、我が身をもって理解した。」
 
私は10年前、半年間の入院生活を終え、病院を退院した頃を思い出す。
 
あの頃、さまざまな手続きがあった。障害者年金、介護保険による保障、それ以外の個人に関わる保険等々。
 
妻が差し出す書類の、自筆署名以外は、全部妻が書き込んだ。私は何も覚えていない。
 
そして実は、今に至るも、いわゆる手続き書類は、すべて妻の指図に従って書く。私は一応、これは何の書類だと聞くが、それが目の前から消えれば、きれいさっぱり記憶にない。あるいは記憶していても、おぼろげであり、それが何の書類か正確には分からない。
 
これがつまり、私の場合の高次脳機能障害だ。

〔追記)
このブログを読んだ妻から、訂正が入った。
「障害者年金、介護保険による保障、」は間違い、または不正確。正しくは「障害年金、介護保険の手続き、」となる。ことほどさように、身の回りの手続きに関しては、私はずっと曖昧である。

読み方はそれぞれ――『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹・訳)(3)

ところが『グレート・ギャツビー』の翻訳は、とうてい一筋縄ではいかない。

「空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない。」
 
ここでは村上春樹は、実に率直に語っている。そういう言い方はしていないが、これまでの翻訳は全部だめだと言っている。

「開き直るわけではないが、僕の翻訳だってかなり不完全な代物である。というか、そうしようと思えば、欠点はいくらでも探し出せると思う。僕は進んでそれを認める。これほど美しく英語的に完結した作品を、どうやってほかの言語に欠点もなく移し替えることができるだろう?」
 
これは謙譲に見えて、自信の表れである。現状の段階で、もうやり尽くした、という半分は自信の表れだろう。
 
ここでは僕は、村上春樹の言うように、フィッツジェラルドの翻訳は本当に難しい、という例を挙げておこうと思う。

ギャツビーの邸宅で、大規模なパーティーが開かれている、そのときのこと。

「フィンガーボウルより大ぶりなグラスで、シャンパンが振る舞われた。月は高く上がり、海峡〔サウンド〕のあちこちには銀色の三角の鱗が漂い、それらはバンジョーの音の硬く甲高い滴が芝生に降るのに合わせてちらちら揺れた。」
 
これは日本語では、なかなかイメージするのが難しい。
 
いそいで付け加えれば、これは訳者の揚げ足取りではない。それほどフィッツジェラルドの文章は難しいということだ。
 
最後に、僕が村上春樹と、意見が異なる点を書いておく。
 
村上春樹はこの物語を、古典としては翻訳したくなかったという。

「僕にとって『グレート・ギャツビー』は、何があろうと現代に生きている話でなくてはならないのだ。それが今回の翻訳にあたっての僕の最優先事項だった。〔中略〕ニックやギャツビーやデイジーやジョーダンやトムは、文字通り僕らの隣で生きて、同じ空気を呼吸している同時代人でなくてはならなかった。彼らは我々の肉親であり、友だちであり、知り合いであり、隣人でなくてはならなかった。」
 
それは無理というものです。
 
確かに読みやすいし、しかし隙なく、緻密で、いい意味でずっと緊張感は保たれるし、これがアメリカを代表する作品の一つである、と言えば、すぐに納得されるだろう。

でもそれは、古典という意味でだ。現代の男女は、こんな付き合い方はしないし、一人の人のために毎週、盛大なパーティーは開かない(開かないだろう、たぶん)。
 
もちろん村上春樹が、そういう見方に抗して、現代の物語として蘇らせたいのは、実によくわかる。
 
中学生の僕が、『月と六ペンス』のチャールズ・ストリックランドや、『赤と黒』のジュリアン・ソレルを、現代に呼吸する人物だと思っていたのと、同じことだ。
 
でも、これこそが古典ということで、いいではないか。
 
ただ純粋な古典として訳すと、読者との間に隙間ができてしまう。だからギャツビーもデイジーも、「僕らの隣で生きて、同じ空気を呼吸している同時代人」として訳出した。それでいいではないか。
 
男と女の付き合い方は、ほぼ1世紀前だから、読者としては戸惑うことも、あるかもしれない。そこはどうぞ、ゆっくりと文体を味わって読んでください。
 
僕ならそう書きたい。

(『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』スコット・フィッツジェラ
 ルド、村上春樹・訳、中央公論新社、2006年11月10日初刷)

読み方はそれぞれ――『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹・訳)(2)

もう一つ、村上春樹は特に触れてはいないけど、『グレート・ギャツビー』には、この当時のアメリカにおける人間の階層、階級の問題が絡んでくる。

「ギャツビーは安心感のようなものを計算ずくで彼女に与えたのだ。自分は彼女と同じ階層からやってきた人間であり、後顧の憂いなく身を任せられる相手なのだと、デイジーに思い込ませたのである。もちろん実際にはそんなことはできっこない。後ろ盾になってくれる立派な家柄など彼にはない。」
 
ギャツビーの悲劇の根本原因は、階層の違いなのである。
 
アメリカといえば人種差別、しかしこの時代には、階層性による別の差別があったのだ。
 
それを、ギャツビーやデイジーの出身地である、西部という格差が、構造的に補強している。もちろん東部の方が、階層は上である。
 
悲劇が終わった後で、ニック・キャラウェイは言う。

「結局のところ、僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと、今では考えている。トムもギャツビーもデイジーも、〔中略〕僕も、全員が西部の出身者である。たぶん我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう。」
 
ここは分かりにくい。アメリカ人でないとわかりにくいのか、あるいは1920年代のアメリカを知っていないとわかりにくいのか。
 
村上春樹が巻末に、「翻訳者として、小説家として――訳者あとがき」を書いている。そしてこれが、本文に勝るとも劣らぬくらい感動的である。

「六十歳になったら『グレート・ギャツビー』の翻訳を始めると広言してきた。そしてそう心を決め、僕自身もそういう日程に沿って、そこから逆算するような格好でいろんなものごとを進行させてきた。比喩的に述べさせていただくなら、その本をしっかり神棚に載っけて、ときどきそちらにちらちらと視線を送りつつ人生を過ごしてきたわけだ。」
 
これは大変なことだ。しかし神棚に祭ったがゆえに、村上春樹の読み方と、僕の読み方は違っている。

だがそこに行く前に、もう少し訳者の言うことを聞いてみよう。

「これまでに刊行された『グレート・ギャツビー』のいくつかの翻訳書をひととおり読んでみて思ったのは、その翻訳の質とはべつに、『これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える』ということだった。」
 
ここでは珍しく、村上春樹が他の訳者を、これでは満足のいく訳になってないぞ、と言っている。
 
そして言いすぎだと思ったのか、そのすぐ後に保留をさし挟む。

「もちろんこれは、僕がこの小説について抱いてきた個人的なイメージをもとにして述べているのであって、客観的な――あるいは学術的な――批判あるいは評価という風にとってもらいたくない。僕にはそんな偉そうなことを言う資格はない。」
 
ずいぶん謙虚なもの言いだが、たぶんこれまでの訳を全部読んだ結果、これではダメだと思ったのだろう。

「いずれにせよ僕はそれくらいこの『グレート・ギャツビー』という作品に夢中になってきた。そこから多くのものごとを学んだし、多くの励ましを受けてきた。〔中略〕小説家としての僕にとってのひとつの目標となり、定点となり、小説世界における座標のひとつの軸となった。」
 
この小説を、神棚に祭っていただけではない。村上春樹はここではもう、あらん限りの声で叫んでいる。

読み方はそれぞれ――『グレート・ギャツビー―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹・訳)(1)

そこで次は『グレート・ギャツビー』。これは名作、まごうかたなき名作である。
 
ただし僕は、村上春樹とは違う読み方をする。
 
そこを言う前に、村上春樹が『グレート・ギャツビー』をどう読んだかを、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』で確認しておこう。

「高校時代から何度もくりかえし読んでいた作品だから、どのように訳すかというイメージは自分の中にだいたいできていた」。
 
前にも一度書いたことがあるが、恐ろしい高校生だ。こんなことを胸に秘めている高校生がいるのだ。

「僕に必要だったのは、それを可能にする翻訳技術と英語の知識。それまでにたくさんの翻訳をやって技術と知識をそれなりに積み重ねてきて、ああ、これだったらなんとかなるかなという手応えを得た。」
 
そこで60歳になる3年ほど手前で、取りかかることにした。

「いったん取りかかってみると、フィッツジェラルドの書く精緻な文章は、本当に難物だった。文章が渦を巻くというか、あちこちでくるくると美しく複雑な図形を描き、最後に華麗な尾を引く。その尾の引き方を訳すのはすごく難しいんです。でもそのくねり感覚とリズム感覚さえいったんつかんでしまうと、コツみたいのが見えてくる。」
 
翻訳の苦労話を、作品の前に読むことは、けっしていいことではない。しかし今回は、読んでおいてよかったと思う。ゆっくり丹念に読まないと、『グレート・ギャツビー』は分かりにくいのだ。
 
僕は20歳前に読んだのだが、その内容は完全に忘れている、と前回のブログに書いた。
 
今回、村上春樹の『グレート・ギャツビー』読んで、どういう状況か思い出した。僕は第二章の末尾、ギャツビーが登場するところまでを読んで、こんなかったるい小説はだめだ、と本を閉じたのだ。
 
そのときは第二章まででやめたということも、完全に忘れていた。たしか角川文庫で、『華麗なるギャツビー』というタイトルだった。
 
話の筋は、ジェイ・ギャツビーがデイジー・ブキャナンを愛し、デイジーもそれにこたえて深く接近するが、すでにデイジーは人妻であり、夫のトム・ブキャナンによってそれは阻止される。
 
その過程で、車でトム・ブキャナンの愛人、マートルを轢き殺すという悲劇が起こり、当事者ではないギャツビーが、マートルの夫に撃たれて死ぬ。
 
それを、デイジーとトムの友人であり、ギャツビーとも親しくなったニック・キャラウェイが、話者として物語っていく。
 
この作品は1924年に発表され、舞台設定は1922年である。僕はアメリカ文学を知らないので、この時代に他にどういう作品が出ているかは知らない。しかし『グレート・ギャツビー』は、言ってみればシェイクスピアの悲劇を、この時代のアメリカに蘇らせたものであり、他に類似の作品がなければ、スコット・フィッツジェラルドだけが、文学史の中に屹立していたのだ。
 
とはいっても、よほど注意して読んでいかないと、あらゆる事柄に微妙なニュアンスがついて回り、風景は常に陰翳が差していて、アメリカ、とくに20世紀前半のアメリカを知らない者には、すべてを理解することは難しい。
 
あるいはこういうところ。

「その一ヶ月のあいだに、我々は五、六度話をしたと思うが、彼は話題というものをろくすっぽ持たず、それで僕としては正直なところがっかりしてしまった。この男は正体こそよくわからないが、何かしら重要性をもった人物に違いないという、僕の抱いた第一印象は次第に薄らぎ、今では隣地で豪勢な宴会を催すただの人でしかなくなっていた。」
 
ギャツビーにはこういう一面があった。とすれば、『グレート・ギャツビー』というタイトルも、とても額面通りには受け止められなくなってくる。