昔の映画も面白い――『お楽しみはこれからだ PART 2』(和田誠)(3)

『ピンクの豹』すなわち「ピンクパンサー」の第1作目は面白い、と和田誠は言う。
 
クセの強いクルーゾー警部(ピーター・セラーズ)を傍役におき、主役の怪盗紳士デヴィド・ニヴンと、さる国の王女クラウディア・カルディナーレに、焦点を当てたところが上手かったという。
 
デヴィド・ニヴンは宝石を狙って王女に近づく。中年プレイボーイと、王女クラウディアの会話。

「私はお酒は飲みません。現実に満足しているから」

「私も現実に満足しています。私の現実には酒も含まれておりますが」
 
でも「ピンクパンサー」は音楽がたいへん有名で、映画の中身を覚えている人は、ほとんどいないんじゃないか。もちろん僕も2度くらい見たはずだが、全然覚えていない。

『レベッカ』は、ヒチコックのアメリカにおける第1作である。
 
和田誠は何よりもヒチコックが好きである。

「ぼくは高校時代に『汚名』と『レベッカ』を観て、たちまちヒチコックマニアになってしまった。」
 
たとえば『レベッカ』では、レベッカが死んだところを、凡庸な監督なら回想を使うが、ヒチコックはカメラワークだけで表現する。

「つまり、事件の起こったボート小屋で彼〔=ローレンス・オリヴィエ〕が語るレベッカの一挙一動に合わせてカメラは動き、あたかもそこにレベッカがいると錯覚させるように撮っていたのだった。」
 
たしかに初めて観ると、ここは上手いのかもしれない。しかし2度目以降は、いかにもそれふうのカメラワークで、わざとらしい。
 
そもそもアメリカ第1作で、ヒチコックも肩に力が入っていただろう。『レベッカ』はただ陰惨なだけで、僕はどちらかといえば好きではない。

『明日に向って撃て!』も、バート・バカラックの曲で有名である。
 
和田誠はちょっと皮肉な見方をしている。

「例の『雨に濡れても』の自転車のシーンは、その後TVコマーシャルにずいぶん真似が出たが、ぼくはあの場面を観た時に、『あれ、CMみたい』と思ったものだ。」
 
だから左ページの絵は、ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスの、2人乗りの自転車の場面ではない。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが、崖から川に向かって飛び降りる瞬間を描いている。
 
そのときサンダンス・キッド(レッドフォード)が、切羽詰まって言う。「俺は泳げないんだ!」今回はここがゴチック。
 
僕は好きな映画で、10代後半から20代にかけて何度も観たものだが、今観るとお気楽な映画だと思うだろう(でもやっぱり好きだけど)。

『さらば友よ』は名作だった、と僕は思う。

「傍役として、そして主に悪漢として西部劇によく出ていた50年代に、今のブロンスンを想像した人はいないだろう。60年代にはかなり目立つ存在になっていたが、それにしても対照的なアラン・ドロンと組み合わせた『さらば友よ』のキャスティングはうまい。」
 
和田誠が好きなセリフ。軍医のアラン・ドロンはアルジェリアで、暗闇の中で味方を撃ってしまい、自己嫌悪に陥っている。するとブロンスンが言う。

「敵と味方をいつも見分けられるってものでもない。似たようなものだから」
 
アラン・ドロンのセリフもある。

「俺は負傷者の身体をつぎはぎして、もう一度殺すために戦場へ送り返していた」
 
アメリカン・ニューシネマと違って、フランス映画は苦みがある、と僕は思う。
 
なお脚本にセバスチアン・ジャプリゾが参加している。彼の『シンデレラの罠』は、高校のとき創元推理文庫で読んだ。私は犯人です、私は被害者です、私は証人です、……。双子の姉妹が何役もやるというのは、惹句を読むだけで興奮した。

昔の映画も面白い――『お楽しみはこれからだ PART 2』(和田誠)(2)

森谷司郎監督『日本沈没』で、丹波哲郎が総理大臣に扮して、沈みゆく日本を憂えて、こんなセリフを言う。

「爬虫類の血は冷たかったが、人間の血は暖かい」
 
しかし今回は『日本沈没』の話ではない。この映画は、そもそも俳優たちの大芝居が空回りしていて、「客席から失笑が起こる部分さえある。」
 
森谷司郎は大スペクタクルを撮るよりは、「青春のある断面を描くのが得意な作家であるように思う」。たとえば、ベストセラーの映画化でも、『赤頭巾ちゃん気を付けて』の方がふさわしい、と。
 
ということで最後の一段が、ほんとに言いたいことである。

「『赤頭巾ちゃん気を付けて』には、ぼくは指先だけの出演をした。主人公が独白しながらいたずら描きをする。その絵をぼくが左手で描いた。右手だと高校生にしてはうますぎると思ったからで、ぼくのへんてこないたずら描きが、シネスコに拡大されたのだった。」
 
どうして和田誠が、それも指先だけが、映画に出ることになったのか。そこも知りたいものだ。

『ポセイドン・アドベンチャー』は、パニック映画ブームの先駆けとして名高い。
 
しかし和田誠は、これより前に『最後の航海』(製作・監督・脚本、アンドリュー・L・ストーン)という佳作があって、その方が優れているという。

「日本で実際に解体するフランス豪華船を利用して抜け目なく早撮りで一本作っちまったという商売映画だけれど、サスペンスがとてもよく利いていて、実は『ポセイドン』よりこちらの方をぼくは買っているのだ。」
 
でも残念なことに、僕は観ていない。それよりも、ここに記された海難映画で、タイタニック号を扱ったものが何本かある、と和田誠は言う。その代表的な例として、恋愛ものの『歴史は夜作られる』がある。
 
今回は、これにまつわる僕の話だ。
 
昭和35年か6年、僕が小学校に入るか入らないかのころに、ニッサン・テレビ名画座というのが始まった。
 
テレビで昼に映画をやるわけだが、これがなんと1週間、同じ番組を放送し続けた。昔はテレビも番組が少なかったのだ。そういえば番組がないときは、テストパターンを流していたっけ。
 
そのニッサン・テレビ名画座で、『歴史は夜作られる』を1週間放送したのだ。
 
僕が毎日、『歴史は夜作られる』を、じっと観ていたわけではない。たぶん母親が熱心に観るので、くっついて見ていたのだろう。
 
話の筋は分からなかったが、クライマックスで、タイタニック号の話が出てくるのは分かった。
 
母親は飽きもせずに1週間、同じ映画を観続けた。そして「やっぱりシャルル・ボワイエはええなあ。クラーク・ゲイブルもええけど、やっぱりシャルル・ボワイエや」と呟いた。
 
どうしてそんな一瞬の呟きを、記憶しているかというと、母親は毎日、同じ映画を観て、同じことを呟いていたのである。
 
和田誠の本を読んでいて、そんな記憶の断片が蘇った。

ヒチコックの『泥棒成金』は、遊びが多くて洒落たセリフも多い、と和田誠は言う。その中で、酒に関するものを挙げる。

「酒はバーボンに限るわね。ブランデーなんて作ってから八十年も持つなんて、バカらしい話じゃないの」
 
今回はここがゴチック。グレース・ケリーの母親に扮した、ジェシイ・ロイス・ランディスのセリフである。
 
バーボンはトウモロコシを原料に使う、アメリカ製のウイスキーで、和田誠はこれが好きである。どうしてかというと、

「サミイ・デイヴィス・ジュニアが十三年ほど前初めて来日した時、バーボンを飲みながら、俺はこれがいちばん好きだ、と言っている所に居合わせ、たちまち影響を受けてしまったからである。」
 
思わずニヤリとする。酒の銘柄に関しては軽薄なんだ、和田誠。
 
なおヒチコックの『泥棒成金』は遊びが多く、それが間延びと感じられて、僕は終わりまで見たことがない。

昔の映画も面白い――『お楽しみはこれからだ PART 2』(和田誠)(1)

和田誠と山田宏一の対談集『定本 たかが映画じゃないか』を読んだら、あまりに面白かったので、古本で『お楽しみはこれからだ PART2』が出ていたので、つい買ってしまった。調子に乗って買ったくらいだから、PART1から読む必要はないのだ。
 
映画をテーマに、左ページに似顔絵、右ページにセリフと文章、そして下段に註というこの本は、出たときから気になって、ときどき書店で立ち読みしたが、買うことはなかった。就職して3か月で筑摩書房が倒産し、僕は30を超えるまで、ずっと貧乏だったのだ。
 
考えてみれば60を過ぎるまでは、貧乏か、そうでないときは忙しいかで、ゆっくり本を読む暇もなかった。半身不随になってからの9年間が、いちばん本が読めたのかもしれない。
 
この本は1見開きで完結しているので、面白いところを適当に抜き出す。
 
最初は『幕末太陽伝』。フランキー堺の「居残り佐平次」が、石原裕次郎の高杉晋作に向かって、タンカを切るところ。

「こちとら、てめえ一人の料簡で生き抜いて来た男だ。首が飛んでも動いて見せまさあ」
 
中心となるセリフは、ゴチックで強調してある。
 
フランキー堺はジャズ・ドラマーから、コメディアンに転身したばかりだが、この映画が代表作になった、和田誠はそう言う。

「羽織を投げ上げてからヒョイと着るしぐさなんぞは、正に佐平次の雰囲気で、思わず拍手さえしたくなるほどだった。」
 
この映画は日活が映画製作を再開して、3周年記念作品だということで、オールスターキャストだった。フランキー堺、石原裕次郎の他に、南田洋子、左幸子、芦川いずみ、小林旭、二谷英明、小沢正一、西村晃、殿山泰司、金子信雄、岡田真澄などが出ている。
 
似顔絵の、フランキー堺扮する「居残り佐平次」の、漂々たる羽織姿がおかしい。
 
日本映画で最初に思い出すセリフは、『夫婦善哉』の「おばはん、頼りにしてまっせ」だと和田誠は言う。森繁久彌が淡島千景に大阪弁で言うセリフだ。

「大阪弁としては何でもない日常の言葉であるが、このセリフには物語の中の男の性格、女の性格、背景となる世界の情感が溢れているようで好きなセリフである。」
 
僕はもともと関西人なので、そうは思えないが、でも森繁久彌と淡島千景の寄り添った似顔絵を見ると、そういう気になってしまう。
 
森繁は最初、だらしない男や少々ずるい男を演じて、力量を発揮したが、「俳優としてえらくなるにしたがって役柄の方は少しずつアクが抜けて善良になり、魅力が減って行ったのは残念なことだ。」
 
森繁はエラクなりたい人だったのだ。

『けんかえれじい』は、大学生のころ仲間と連れだって、文芸座オールナイトの「鈴木清順特集」で何度も見たものだ。

「鈴木清順特集」だから、このほかに『東京流れ者』、『河内カルメン』なども見た。

大学に在籍した6年間のうちで、文芸座の「鈴木清順特集」は、ベスト5の出来事に入るだろう。そのくらい面白かったし、今も面白いと思う。
 
この映画の終りくらいに、松尾嘉代が出て、「髪梳〔す〕けば髪吹きゆけり木の芽風」という句を詠む。今回はこのセリフがゴチック。松尾嘉代はいい女だったなあ。僕だけでなく、みんなそう思っていた。
 
ところでそこに、こんなことが書いてある。

「ところが、あの面白い映画も原作には敵わない、と言えるほど原作(理論社)が面白い。」
 
ひゃー、これは読まずばなるまい。

どうにも合わない、が……――『不実な美女か貞淑な醜女〔ブス〕か』(米原万里)(2)

この本で一箇所、面白いと思ったところがある。

通訳になりたてのころ、来日した作家に、2週間ぴったり随行したことがある。ところが7日目くらいになると、尊敬するその作家の顔も見たくなくなり、「十日目にはブッ殺したくなった。」
 
そういうことが、随行通訳をするたびにあって、米原万里は、自分は通訳には向いてないんじゃないか、と真剣に悩んだという。

「殺意の原因は、本来自分の意思や思想や感情を表現することを使命とする脳のある部分が、あまりにも長く他人の意思や思想や感情に占領されていたために、耐えきれなくなってあげる悲鳴のようなものではないかと思う。」
 
これは場数を踏んでくると、「言語駆使能力を他人のために使いながらも、自分は自分に属し続けるのだと割り切っていける肝っ玉のようなものが備わって」きて、解消できた。
 
なるほど、これは通訳が初期にかかる、流行り病いみたいなものか。
 
しかしその次に、米原万里は注目すべきことを述べている。

「もっとも今でも、往生際の悪い私は時おり通訳しながら、
『ああ、何でこんなアホで恥知らずなことを私の耳使って聞き取り、口使って言わなきゃならないんだろう』
 と心のなかでつぶやいていたりする。」
 
このあたりが、米原万里がこの本を書いた理由だろう。通訳は通常、自分の言葉を持たないけれど、実は知識も見識もあるんだ、というかなり悲痛な叫びだったのではないか。
 
でもそれを、正面切っては言いにくい。それが通訳という立場の人間なのだ。自分は最終的に、一歩引く側の人間ではないか、と。
 
それで例えば「あとがき」に、「または誠実な美女の編集者と不実な醜女〔ブス〕の著者の出会い」と、サブタイトルを入れたりするのだ。

「これほどの美貌に恵まれているならば、毎日鏡を眺めているだけで幸せになれるだろうに。何を好きこのんで、この絶世の美女は他人の才能を引き出し、守り立てることに骨身を削る編集者という黒子的職業に就いたのだろうか。〔中略〕自分が醜女〔ブス〕であることもあって、美女に対する偏見甚だしい私が抱いた最初の印象である。」

はっきり言って、著者が美女であるか醜女であるかは、この本を読む人にとってはどうでもいいことである。
 
僕がこの書き下ろしを担当したならば、著者の容貌に関わるところは、全部取るだろう。その方がはるかにすっきりして、論旨明晰な本になったに違いない。
 
著者も、ようよう「あとがき」まで来て、思いを吐露している。

「おそらく職業柄、他人の思いや考えを伝えることばかりに自分の言語操縦能力を駆使しているせいもあって、私自身の思いや考えがたまりにたまって出口を求めていたのかもしれない。」
 
そういうことである。それならそれで、原稿執筆に向かうときに、この本とは違う構えがあったろう。

しかし「あとがき」を読めば、2人続いた編集者はどちらも、何も期待していなかったことは、明らかである。何しろこれが、初めての単行本なのだから。
 
この文庫本の「解説」を、時事通信社の名越健郎という人が書いている。この「解説」は優れている。
 
1990年12月、旧ソ連人民代議員大会で、シェワルナーゼ外相の辞任表明演説があった。このときテレビ局の同時通訳が、米原万里だった。

「彼女はこの時の通訳を回顧し、実際には『私、はっきり言いたい。独裁来る。どんな独裁、これ分からない。独裁者、誰、これ分からない。でも、独裁来る……』といった響きを持っていたと指摘する。」
 
名越健郎はこのとき、相変わらずグルジア訛りの、ひどいロシア語だと思っただけだった。
 
米原万里は違っていた。

「シェワルナーゼ氏はこのとき大変興奮していた。舌がもつれ、普段よりさらにロシア語の単語がなかなか出てこなかったりして、もどかしげで、いかにもグルジア訛り丸出しのロシア語の演説だった。そして、そのなかに、ロシアという大国に併合され、蹂躙され続けてきた誇り高いグルジアという小国の民族の悲哀がにじみ出ていた。」
 
ここは本当によく見ている。さらにもう一歩踏み込んで書けば、誰にもわかるものになったろう。
 
名越健郎はこんなふうに総括する。

「凡庸な特派員ではその意味すら分からなかったこの一瞬の凝縮されたドラマを、当事者に近い立場でとらえ切ったことに、すぐれた異文化の紹介者としての米原さんの技量を感じた。」
 
そういうことなのだ。
 
しかしそうであればあるだけ、シモネタや醜女論議は取っ払って、米原万里にはどこまでも「異文化の紹介者」として、揺るぎない地位を確立してほしかったと思う。

(『不実な美女か貞淑な醜女〔ブス〕か』米原万里、
 新潮文庫、1998年1月1日初刷、2022年4月30日第30刷)

どうにも合わない、が……――『不実な美女か貞淑な醜女〔ブス〕か』(米原万里)(1)

米原万里は昔、雑誌に載ったエッセイを読んだことがある。そのとき、僕には合わないと思って以来、読んだことはなかった。
 
そのエッセイは内容を忘れたし、米原万里のどういうところが合わないと思ったかも、忘れてしまった。
 
先日、田中晶子が手話の講座で、この本を先生に推薦されて読み、いたく感心していた。
 
僕も食わず嫌いをやめて、1冊まるまる読んでみることにした。
 
すると、なぜこの人の本が、性に合わないかが分かってきた。
 
まずプロローグで、通訳者を売春婦に例えるところが嫌だ。これは「師の徳永晴美氏」の教えらしいが、そういうことであっても、通訳のことを貶めこそすれ、何もいいことはない。
 
もっとも、これは語り口によるのであって、上手な人が語れば、「通訳=売春婦論」でもいいことになるだろう。
 
しかしそもそも、米原万里の通訳論には、新しい発見が皆無である。本当に見事に言い古されたことばかりなのだ。
 
たとえば次のところ。

「通訳するとき、あるいは翻訳するとき、訳者はスピーカーや原文作者の思考の型をも他言語に移し替えるのである、だから、さまざまな他人のものの考え方の構造と筋道を、受動的にだけでなく、能動的に実体験できる。まさにこの点が、通訳・翻訳稼業の苦行と魅力の源である。醍醐味である。」
 
ことさら言葉にして、言わなければいけないことじゃないだろう。そう思いませんか。
 
また同時通訳の場合に、問題になりやすい差別語については、こんな意見を言う。

「言葉は同時にその言語の担い手である国民の、過去の罪状と恥部をも含む精神史の証人でもある。それを簡単に隠蔽しきれるものか。その過去を直視するきっかけを奪う権利が、誰にあるというのだ。」
 
これも堂々とした、しかし古びた正論で、テレビや新聞では通らない。
 
米原万里は、続けてこんなことを言う。

「売春婦が処女膜再生手術をして玉の輿を狙うほうが、遥かに可愛げがあるように思えて仕方がない。」
 
こういうピントのボケた、比喩になってない比喩は、本当にうんざりする。
 
事の本質を、一見つかんだような疑問も、発することは発する。

「要するに訳のプロセスの出発点と帰結店、〔中略〕その間の仕組み、つまり原文が入っていって訳文が出てきた、その間がどうなっているのか、途中経過が不明、神秘のベールに包まれている。」
 
これはまず米原万里が、自分の頭の中を考えてみることだ。それの補助手段として、大脳生理学や心理学を使うのもいいだろう。
 
しかし本当に、原文と訳文が同じ脳に浮かぶのが、それほど不思議なことなのだろうか。僕には分からない。
 
一見、卓見に見えるところもある。

「どんな分野でも確実に役立つ使用頻度の高い動詞を自由自在に操れるようになることが、すぐれた言語遣いになる重要な決め手の一つになるといえなくもない。」

「いえなくもない」どころではない。こんなことは60年前から、田舎の中学生(つまり私)が英語を勉強するときに、ラジオの『百万人の英語』で、さんざん言われていたことではないか。
 
そのときはベイシック・イングリッシュといって、たしか650語の動詞で、ほとんどすべての英語が、作文可能という話だった。こんなこと、誰でも知っていることではないか。

対話は楽しいけれど、難しい――『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳)(8)

これが最終回、あと短篇が3つである。そしてその3篇が難しい。

『何もかもが彼にくっついていた』というタイトルも、よく分からない。
 
クリスマスのミラノで。娘が父親に、小さいときはどんな子だった、と訊く。母親のことは、終わりまで出てこない。
 
父は結婚したとき18歳、妻は17歳だった。2人とも、少年少女だった。ほどなく娘が生まれた。
 
ある日、少年は友達から猟に誘われた。少女は、快く送り出そうと思っていたが、折あしく、赤ん坊の具合が悪くなった。
 
猟を取るか、赤ん坊と妻を取るか。少年は外に出て、車のエンジンを入れ、しばらくして、エンジンを切り家の中に戻る。
 
家の中で、夫と妻は互いに詫びを入れ、仲直りする。しかし、いつもそういうわけにはいかない。
 
父親は話し終え、娘は「面白い話だったわ」という。父親は肩をすくめる。

「物事は変わるんだ、と彼は言う。どうしてそうなるのかはわからないけれど、とにかく気がついたときには変わってしまっている。意志とは無関係にね。」
 
妻はどこへ行ったのか。父と娘は、互いにそのことは言わない。
 
村上春樹の「解題」はこうだ。

「いつしか二人は失われていく。自分たちがそんなに深く失われてしまったことを二人が気づきもしないうちに。カーヴァー自身のかつての人生を切り取ったような、激しい痛みのある作品である。」
 
これはある種、象徴的な作品である。この小説を読んで、作者自身の「激しい痛み」に達することは、かならずしも簡単ではない。

『愛について語るときに我々の語ること』は、本のタイトルに取られている。それだけ力の入った作品ということになる。
 
2組の夫婦が酒を飲みながら、「愛」について語っていく。
 
こういうシチュエーションが、日本人の夫婦を考えると、僕には想像しにくい。仲の良い夫婦が酒を飲んで、「愛」を語るというようなことが、あるのだろうか。
 
まあ、あるのかもしれない。僕には分からない。
 
村上さんは、真面目である。

「彼らはだれもが真剣に愛と救済を求めている。渇望し、希求している。運命がどれほど熾烈なものであれ、彼らはなんとかそこに出口を見出そうと努めている。そしてそのドアが愛という記号を通してしか開かないことを彼らは感じている。」
 
こういうことが、僕には想像しづらい。
 
そして村上さんの結論である。

「カーヴァーという人間の内部でずっと続けられてきたシニシズムと救済の葛藤が、この作品においてははっきりと救済の方向に傾いている。それは明らかに一つの徴候であるように訳者には感じられる。そしてそれは一種の宗教的な光のようなものである。」
 
僕には、とてもここまでは付いていけない。

しかし、とはいってもこの小説は、面白いことは面白い。

最後の『もうひとつだけ』は、飲んだくれの夫と、妻と娘が、最終的な喧嘩をする話だ。

夫は出ていこうとして、「もうひとつだけ言いたいことがある」というが、「でもそうは言ったものの、どれだけ知恵をしぼっても、彼にはそのひとつが思いつけなかった。」
 
これが最後の一文である。短篇小説でこんな終わり方は、絶対にすべきではない。三流以下の作家の終わり方である。
 
でもそれを除けば、いつものカーヴァーである。
 
村上春樹の寸評。

「いかにもカーヴァーらしい勢いのある一筆描きだが、内容にはさして新味はない。」
 
けんもほろろだが、そういうことを言うなら、この短篇集全体が、「情けない男の情けない話」ではないか。
 
だから僕には、これも最後の1行を除いては、面白かった。
 
こうして全体を読んできたわけだが、考えてみると、村上春樹はなぜカーヴァーが、これほどまでに好きなんだろうか。
 
男と女は究極わかりあえない、というカーヴァーの本質は、村上春樹の小説世界とは一致しないし、また村上の目指しているものとは、違うと思う。
 
カーヴァーはたしかに、一瞬のシチュエーションを捉えるのが巧みだし、そこにかけては並ぶ者がない。村上春樹の「解題」を読めば、そう思わされる。
 
でもしいて言えば、ほとんどそれだけではないか。そんなことを言っては、亡くなった作家に失礼だろうか。
 
僕には、村上春樹とレイモンド・カーヴアーの小説世界の、深い関係がよくわからない。

そうは言っても、これからもどしどし読んでいくつもりだが。

(『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳、
 中央公論新社、2006年7月10日初刷、2017年3月20日第5刷)

対話は楽しいけれど、難しい――『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳)(7)

『私の父が死んだ三番めの原因』も奇妙なタイトルだ。これも、最初に『怒りの季節』に収録されたときのタイトルは、『ダミー』である。
 
ダミーという、耳の聞こえない製材所の雑用係が、家の裏手にある池で、バスの養殖を始める。それに、あまりにものめり込みすぎて、バス以外の誰も何も、信用しなくなってしまう。
 
やがて彼の妻は、他の男たちと遊び歩くようになる。
 
そして突然、悲劇がやってくる。洪水が、バスを川に流し去った後、ダミーは妻をハンマーで殴り殺し、自分も池に身を投げて死んでしまう。
 
主人公の少年と父親は、ダミーを折々に助けてやりたいと思うが、それは叶わない。そしてそのダミーの死が、父の死の3番めの原因だというのだ。
 
その最後の段落。

「でも最初にも言ったように、それとは別に、真珠湾も、故郷の地に戻らなくてはならなかったことも、やはり父にはこたえたことだったのだ。」
 
読んでいるときは夢中だったが、読み終わってみると、奇妙な小説という印象しか残らない。
 
物語の最後の方。

「友達が死ぬとそんな風になってしまうのか? あとに残った友人に、死者は悪運を残していくのだろうか?」
 
そんな話は聞いたことがない、と僕は思う。

『深刻な話』は、女に捨てられた男が、それでも未練たらたら、クリスマスに会いに行って、女を怒らせる話である。
 
これでアルコール漬けなら、カーヴァーの独壇場である。

「情けない男の情けない話といってしまえばそれまでだが、人生と真剣に渡り合わねばならないぞと一人の男が腹をくくる前の空白の、一瞬の弛緩と混乱をこの短篇はそれなりに鮮やかに切り取っている。」
 
そうかなあ。
 
それに、そんな前段のことを切り取るよりも、「深刻な話」の中身を描いた方が、よいのではなかろうか。

『静けさ』は、まるで一幕物の劇のようだ。

床屋で髪を切っている主人公と、順番を待っている3人の客。そのうちの1人が、鹿を撃った話をする。
 
その話がもつれて、順番を待っていた3人は、面白くなくなって帰ってしまう。

「こういう田舎町の床屋の風景なんかを描かせると、この作者はほれぼれするくらいうまい。品の良い線描を思わせるような、実に簡潔にして要をえたカーヴァーの風景画家としての才能は、そのストーリー・テリングの才とともに高く評価されていいのではないかとおもう。」
 
主人公はこの朝、床屋の椅子の上で、町を出ていくことを決意する。まるでヘミングウェイの短篇小説だ、と村上さんは言う。
 
そうなんだな。僕はそういうことを、胸にしみこませるごとく、繰り返し読んでいる。

『ある日常的力学』は、若い男女が赤ん坊を取り合う、その一瞬だけを描いている。
 
このタイトルは、最初のヴァージョンは『私のもの』、次のタイトルは『ささやかなこと』、そして原タイトル、『ポピュラー・メカニックス』となる。
 
村上春樹は、この題は「即物的な冷たさがあって、なかなか悪くない」というが、そんなことよりも、女と男の一瞬の修羅場だけを、ヴァージョンを変えて何度も書き直すのは、異様な感じがする。

日本人ならすぐに、これは私小説ではないか、と勘繰るところだが、もちろん村上さんは、そういうところに関心はない。
 
その最後の場面。

「この子は放すもんか、と彼女は思った。赤ん坊の一方の手を摑んだ。そして赤ん坊の手首を握って引っ張るように身をそらせた。
 でも彼は赤ん坊を放そうとはしなかった。自分の手から赤ん坊がするりと抜け出ていくのを感じて、男は力まかせに引っ張りかえした。
 かくのごとく、事態の決着がついた。」
 
よくある修羅場だが、最後の1行が、叙述とは裏腹に、事態の決着がついてないことを示している。

対話は楽しいけれど、難しい――『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳)(6)

『デニムのあとで』も、不思議なタイトルだ。村上春樹はそう言う。
 
地域のコミュニティーが主催するビンゴ大会に、欠かさず参加している中年夫婦は、ある日、デニム服を着た若いカップルと同席したことで、すっかり不愉快になる。それは、より惨めなものに変わっていく。
 
夫は、カップルがビンゴで、不正をやっているのではないか、と疑っている。
 
妻はそんなことより、体の不調が気になる。
 
化粧室から戻った妻が言う。

「『また汚れが出てるの』と彼女は言った。
『汚れ?』と彼は言った。でも彼にはそれがどういう意味なのかわかっていた。『汚れ』と彼はとても静かな声で繰り返した。」
 
これは「史上最悪のビンゴの夜だ」と夫は言うが、最初僕は、それほどのこともあるまいと思っていた。
 
家に帰った後、夫は「自分用の編み物かごをわきに押しやり、これもまた自分用の刺繡バスケットを手に取ると、椅子に座った。彼はバスケットのふたを開け、金属製の張り輪を取り出した。」
 
なんと夫は、刺繡を始めたのである。それが最後の場面だ。
 
村上春樹はこう書く。

「そうこうするうちに、こんどは妻の体の変調が出てくる。子宮癌か何かそういうものの徴候らしい。」
 
これは大変だ。「史上最悪の夜」という意味が、初めて分かった。

「人生の果てまで来てしまったような絶望と疲弊の中で、主人公は若いカップルに静かな呪いをかけ、妻が眠ってしまったあと、ひとりで黙々と刺繡に耽る。これもありきたりの善男善女の世界における、癒しがたい暗闇を描いた作品と言えるだろう。」
 
そうか、そういうふうに読むのか。本当に、先達は必要なものなのだなあ。
 
でも、村上春樹の深い読解は、それはもう限りなく魅力的だが、僕には、そこまでのところは読めない。

『足もとに流れる深い川』は象徴的な題だが、日本語に訳すのは難しい、と村上春樹は言う。直訳すれは、「家のこんなに近くに、こんなにいっぱい水があるのに」となるが、全体を読むと、いろいろな捉え方があるような気がする
 
夫が3人の仲間と釣りに行って、川で少女の全裸死体を発見する。しかし夫たちは、死体は逃げることはないと、釣り旅行を優先し、警察に通報するのが遅れた。
 
妻はその事実にショックを受け、幼い日に経験した殺人事件が蘇ってくる。

「彼女には自分自身を抑えることができない。これまでは何ということもなくごく普通に送ってきた日常生活の細部が少しずつ耐えがたいものに変質していく。夫が異質な世界に属する見知らぬ人間のように思えてくる。自分自身の存在位置を見定めることがだんだん困難になってくる。」
 
実はこの題の小説は、『怒りの季節』にロング・ヴァージョンが載り、『愛について語るときに我々の語ること』には、ショート・ヴァージョンが載せられている。
 
2つの中で最も大きな違いは、最後の場面である。

「少女の葬儀から戻った妻は、ロング・ヴァージョンにおいてはドアに鍵をかけて何日も強固に夫を拒否しつづけるのだが、ショート・ヴァージョンにおいては、彼女は無気力に夫を受け入れる。空洞を胸に抱きつつも、彼女には何もすることができない。」
 
うーん、これはどういうことだろう。

「ただ夫にブラウスのボタンを外され、抱かれるだけである。もちろんこれも好みの問題であるけれど、後者のエンディングにはいささか啞然となさる読者も多いのではないだろうか。」
 
村上さんは、2つを見比べて結論は出していないけれど、これはどう見ても、『怒りの季節』のロング・ヴァージョンの方が、筋が一貫し整然としている。
 
しかし、筋が一貫し整然としたカーヴァーは、もの足りないと言えば言える。さあ、どっちがいいのか。

対話は楽しいけれど、難しい――『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳)(5)

『出かけるって女たちに言ってくるよ』は、問題の作品である。

ジェリーとビルは、幼いときから親友で、結婚して子供ができても、家族どうし仲良くつきあっている。

「二組の夫婦は土曜日と日曜日ごとに顔を合わせた。休日があればその回数はもっと増えた。天気がよければ彼らはジェリーの家でホットドッグを焼き、子供たちを簡易プールで勝手に水浴びさせておいた。」
 
そんなある日、2人はふと退屈し、妻たちたちに少しドライブしてくると言う。
 
そしてハイウェイを飛ばしていると、自転車に乗った2人の若い娘と出会う。2人は娘たちに声をかけ、少し会話をし、別れる。2人は別れたふりをして、先回りして待っている。
 
ジェリーはもう、若い女を手に入れたつもりである。

「ビルはただ女とやりたかっただけだった。あるいは裸にするだけでもよかった。でももし駄目でも、それはそれでまあいいさと思っていた。」
 
ここで終わっていれば、独特の、奇妙な味の短篇だと思う。たとえ女房子供がいても、男はこういう妄想に、ときに取りつかれる。

しかし実際には、最後にもう一段落ある。

「ジェリーが何を求めているのか、ビルにはわからなかった。しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ジェリーはどちらの娘に対しても同じ石を使った。最初がシャロンという名の娘で、ビルがいただくことになっていた娘が後だった。」
 
これはどういうことか。
 
村上春樹はこの短篇を訳したとき、この最後の文章はどういう意味なのか、という質問を方々で受けたという。

「最後の一行は、もちろん彼らが二人の女たちをレイプし(あるいはレイプしようとして)、石で殴り殺したことを示唆している。」
 
あっさりそう言っているけれど、それで本当にいいのかね。
 
続けて村上春樹は言う。

「いかにもカーヴァーらしい、説明を徹底的に省いた象徴的な謎かけのようなエンディングで、読者としてもいささか狐につままれたような感があるのだろう。こういう部分は翻訳がいちばん難しい。」
 
翻訳がいちばん難しいのは、筋を無理やり捻じ曲げているからではないか、と僕は思うが、村上さんはこんなことを言う。

「この短篇ではそういう手法〔=「最後にぽんと読者を放り出してしまう」手法〕は、いささか強引ではあるにせよ面白い効果を上げているように訳者は感じるのだが。」
 
僕はまったく違う。
 
2人が幼いときから友情を育み、所帯を持って、お互いに子供が生まれても、週末に行き来するくらい親しくなければ、つまり行きずりの2人ならば、そういう結末を迎えることもあるだろう。
 
しかしこの2人の場合は、だめである。取って付けた最後の一段は、文字通り取って付けたもので、500ページの推理小説の、終わりのページに初めて出てくる真犯人みたいなものだ。
 
村上さんの、この小説に対する最終的な評価は、こうである。

「ユーモアのかけらもないカーヴァーの『ダークサイド・ストーリー』だが、文章の抑制がきいた好篇だと思う。」
 
全然そんなことはない。最後の最後に自爆した、小説になりそこないの残骸だと僕は思う。

対話は楽しいけれど、難しい――『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー、村上春樹・訳)(4)

『私にはどんな小さなものも見えた』は、村上さんが、珍しくタイトルに疑問を呈している。

妻である「私」は、昔は仲良しだった隣家のサムに、久々に挨拶をする。それは夜中で、サムは隣の庭で「なめくじ」を捕まえに出てきている。

「『気色悪いやつらだよ』と彼は言った。
 なめくじはにょろにょろとのたうった。それからそれはくるっと身を丸め、やがてまっすぐになった。
 サムは玩具のシャベルを手に取ってなめくじをすくい、壷の中に放り込んだ。」
 
そのあとサムは、仕事を辞めざるを得なくなったので、この家を出て行かなくてはならない、と言う。これもまた、敗残者がからむ話なのだ。
 
村上春樹は言う。

「いかにもカーヴァーらしい奇妙な、癖のあるタイトルである。正直にいって、僕はこのようなカーヴァー氏のタイトルのつけかたに対しては、時折、あきらめがちではあるけれど、いささかの異論をもつ場合が多い。異論とまではいわずとも、かなり深い角度に首をひねってしまう場合が多い。」
 
最後の一文、「かなり深い角度に首をひねってしまう」がおかしい。ここはどう考えても、『なめくじ』とするべきではないか、「それはあくまで『あのなめくじの話』なのだ」、と村上さんは言う。
 
僕は、なるほどそうだと思う反面、タイトルは自由なんだから、『私にはどんな小さなものも見えた』も、悪いというほどではないと思う。

次の『菓子袋』は、短編集『怒りの季節』に『浮気』という題で、かつて収録されていた。
 
父親が、息子である「僕」に対して、自分が妻、すなわち「僕」の母と、別居するに至った経緯を語る。
 
しかし「僕」は、父親の浮気話なんかには、まったく興味がない。「僕」は僕で、妻とうまくいってないのだ。

「しかし父親の不幸はまるで呪いのように息子の運命にもふりかかってくる。〔中略〕やがて彼もまた父親と同じような寂莫とした思いを抱いて生きざるをえなくなるのだ。」
 
村上春樹はここで、『菓子袋』と、その前のヴァージョン、『浮気』を比較する。

「前者〔『浮気』〕の方が短篇としてはよりストレートであるが、キレはたしかに後者の方がずっといい。」
 
さらにこれを詳細に述べる。

「個人的な感想を言わせていただくなら、削るという方向に頭が行ってしまっているせいで、微妙な部分でほんの数ミリ、ノミの先が突っ込みすぎているかなという感じはある。もう少し温かいタメをそこに残しても(あるいはあらためて加えても)よかったのではないかという気がする。後期のカーヴァーなら、おそらくそういう方向に持っていっただろう。」
 
ここ、つまりこの「ノミの先が突っ込みすぎているかな」、というところが、村上春樹の真骨頂である。

翻訳の解説、解題は、すべからくこういうものであってほしい。でも村上さん以外には無理だけどね。

『風呂』は、短編集『大聖堂』に収められた『ささやかだけれど、役にたつこと』のショート・ヴァージョン。具体的に言えば、子供が誕生日に撥ねられて、病院で目を覚まさず、両親が不安の時を過ごし、ケーキ屋はできたケーキを、どこに届けたらいいのかわからない、というのが『風呂』の概要である。
 
この二種についての、村上春樹の結論は出ている。

「『大聖堂』の解題にも書いたように、訳者の個人的な好みは後者〔=『ささやかだけれど、役にたつこと』〕であるし、作者自身がファイナル・ヴァージョンとして選んだのも後者である。そして後世に残るのもおそらく後者だろう。しかし前者の(つまり本書に収められた版の)見事にアグレッシヴな小説作法を高く評価する批評家も数多く存在している。」
 
それはそうだと思う。最初に『風呂』を読めば、これはこれで、いかにもカーヴァーふうの物語だと思ってしまう。
 
のちに『ささやかだけれど、役にたつこと』を読んで、あの小説がこんなふうになったのかと思っても、読み味がまったく違うので、二作品が並列で並ぶのだ。
 
ではお前はどちらを選ぶか、と問われたら、一方を落とすわけにはいかないので、やはり並列でと答えるだろう。