「道子」と「勉」はこんな関係であった。
「秋山のいない時、彼と交わす気楽な会話、彼の顔を見、声を聞き、あるいは室を別にしていても、彼の足音や動く気配を聞くことが、彼女の生活の欠くべからざる一環となっていることを彼女は理解した。彼がいない時も台所なぞしながら、終始彼のことを思っていたことを彼女は改めて思い出した。」
復員兵だった「勉」は、行くところがなく、「道子」夫婦のところに下宿していたのだ。
「道子」はしかし、「勉」に対する気持ちを、恋だとは思っていなかった。
「彼女はそれまで恋したことはなかった。小説なぞ読んでも、そういうことは特別の人がすることで、自分とは縁がないと思っていた。」
それに対する「勉」の気持ちはどうか。ここがフランス心理小説を、日本の登場人物に置き換えたものだ。
「秋山のますますつのる不機嫌と道子の苦悩は勉の注意を惹いた。そして無論それが自分のためであることを彼は理解した。さらに若者の敏感から、秋山の不機嫌の真の理由も察していた。彼の道子に対する同情は増したが、秋山の理由を道子にいう気はしなかった。無論彼女を傷つけるのを懼れたためであるが、同時にそうして秋山を誹謗することによって、彼自身の彼女の傍で占める位置を有利にしようとする下心が働くのを自分で懼れたのである。」
実によくできた青年ではないか。自分が卑しくなる心持ちを、あらかじめ先手を打って、そういうことがないようにするとは。
こういうことを明晰に書くとは、見事なものだ、と70年前の読者が思ったかどうか。それは知らない。しかし小説を初めて読むような、例えば10代の人にとって見れば、もやもやした恋を鮮やかに分析したものとして、忘れられない作品になるのではないか。これはひょっとすると、今でもそうかもしれない。
そうしてまた、国木田独歩に対抗すべく、地勢の話が出てくる。
「勉」の武蔵野に関する知識は、夜に「秋山」を避けて閉じこもる、書斎の読書によって蓄えられたものだ(ここら辺が、苦しいと言えば苦しい)。
「勉がことに興味を持ったのは、『はけ』の前を流れる野川であった。〔中略〕五万分の一の地図を調べて、この小川が以前彼が高等学校時代成城学園の高台の下で見、また『はけ』へ来る前に寄寓していた田園調布の友人の家の下を流れる川の上流であることを知った。成城や田園調布では川は三間ほどの幅であったが、幅に似あわず豊かな水を疏水のように急速に運んでいた。水が蒲田から六郷に到る水田を灌〔うるお〕すものであることは疑いない。」
このあと「勉」は「道子」を誘って、水源の探索に出かける。その探索行が3ページにわたっている。
しかし地誌を記すのみで、2人の仲に進展はない。このあたりは主題が少々分裂していて、読んでいて退屈である。
ついに独歩に及ばないとすれば、その辺りに原因があるのではないか。
どちらが読まれたのか――『武蔵野夫人』(大岡昇平)(2)
武蔵野夫人「道子」の夫、「秋山忠雄」は、東京の私立大学のフランス語の教師である。この人物は、大岡昇平を戯画化したもので、それが面白い。
「彼が専門としたのがスタンダールであったのは、幾分ジュリアン・ソレルの出世主義に共鳴したところがあったからでもあるが、主な動機は当時他の作家は大抵先輩たちによって分割し尽くされていて、少し時代の古いこの作家より残されていなかったからである。」
大学の文学研究の現場は、そんなものだ。実に辛辣である。
大岡は、京大仏文科の卒論は、アンドレ・ジッドの『贋金つかい』だったが、その後、スタンダールへの傾斜を深めていった、とウィキペディアにある。「秋山忠雄」とは、動機は違ったようである。
しかし「秋山忠雄」はツイていた。
「戦後不意に来た出版景気と奇妙なスタンダールの流行から、彼が昔やっておいた翻訳が方々から重版され、急に印税が入るようになった。」
これは大岡昇平のことか。
同じ思いをした「秋山忠雄」は、急に傲慢になった。まあ、よくあることだ。
「道子」(29歳)と、「秋山忠雄」(41歳)と、従弟の「勉」(24歳)は、精神的な三角関係に陥るが、その前にこんなことが書いてある。
「一夫一婦制の当然の帰結である蓄妾と姦通は小説にあるよりは少ないが、世間が考えているよりは多い。つまり夫にも妻にも知られずに過ぎてしまう数、それだけが多いわけである。」
なるほど、といったんは納得するが、考えてみれば、こんなことは誰にも知りようがない。総じて心理小説というのは、見てきたようなことを書き、というところがある。
ビルマから復員してきた「勉」は、終戦直後にしかいない人物であった。
「道子の知っていた勉はおとなしい淋しい少年であった。その彼が兵隊に行ってからのそういう急激な変化は、特攻隊崩れの行状に関する新聞の記事等を見るたびに彼女の胸を痛ませた。」
戦後の文学には、復員兵ものという一群があったのだ。
さらに「勉」は、こんな考えを持っていた。
「敗軍の混乱の中で、彼は〔中略〕頼りになるのは自分一人だという確信を強めた。さらに俘虜の堕落は彼に人間に対する信頼を失わせた。復員後彼の見た敗戦日本の大人たちの行跡は、彼の確信を裏書きしただけであった。彼は学生運動に興味を持たず、デモクラシーを信じなかった。」
こういうところを読むと、僕は必然的に、シベリアの捕虜から復員してきた父を思い出す。戦後の日本で暮らすうちに、徐々に周りに慣れてはきたが、しかし馴染みはしなかった。
90歳を超えて亡くなる直前に、「権利は全ての人間に平等に与えられている」というのが、どういうことなのか、私にはどうしても分からない、と語ったのが印象的だった。これで正常な親子関係を結べというのは、冗談がきつすぎる。
というふうに距離を置いて、言葉にできるようになったのは、最近のことである。
「彼が専門としたのがスタンダールであったのは、幾分ジュリアン・ソレルの出世主義に共鳴したところがあったからでもあるが、主な動機は当時他の作家は大抵先輩たちによって分割し尽くされていて、少し時代の古いこの作家より残されていなかったからである。」
大学の文学研究の現場は、そんなものだ。実に辛辣である。
大岡は、京大仏文科の卒論は、アンドレ・ジッドの『贋金つかい』だったが、その後、スタンダールへの傾斜を深めていった、とウィキペディアにある。「秋山忠雄」とは、動機は違ったようである。
しかし「秋山忠雄」はツイていた。
「戦後不意に来た出版景気と奇妙なスタンダールの流行から、彼が昔やっておいた翻訳が方々から重版され、急に印税が入るようになった。」
これは大岡昇平のことか。
同じ思いをした「秋山忠雄」は、急に傲慢になった。まあ、よくあることだ。
「道子」(29歳)と、「秋山忠雄」(41歳)と、従弟の「勉」(24歳)は、精神的な三角関係に陥るが、その前にこんなことが書いてある。
「一夫一婦制の当然の帰結である蓄妾と姦通は小説にあるよりは少ないが、世間が考えているよりは多い。つまり夫にも妻にも知られずに過ぎてしまう数、それだけが多いわけである。」
なるほど、といったんは納得するが、考えてみれば、こんなことは誰にも知りようがない。総じて心理小説というのは、見てきたようなことを書き、というところがある。
ビルマから復員してきた「勉」は、終戦直後にしかいない人物であった。
「道子の知っていた勉はおとなしい淋しい少年であった。その彼が兵隊に行ってからのそういう急激な変化は、特攻隊崩れの行状に関する新聞の記事等を見るたびに彼女の胸を痛ませた。」
戦後の文学には、復員兵ものという一群があったのだ。
さらに「勉」は、こんな考えを持っていた。
「敗軍の混乱の中で、彼は〔中略〕頼りになるのは自分一人だという確信を強めた。さらに俘虜の堕落は彼に人間に対する信頼を失わせた。復員後彼の見た敗戦日本の大人たちの行跡は、彼の確信を裏書きしただけであった。彼は学生運動に興味を持たず、デモクラシーを信じなかった。」
こういうところを読むと、僕は必然的に、シベリアの捕虜から復員してきた父を思い出す。戦後の日本で暮らすうちに、徐々に周りに慣れてはきたが、しかし馴染みはしなかった。
90歳を超えて亡くなる直前に、「権利は全ての人間に平等に与えられている」というのが、どういうことなのか、私にはどうしても分からない、と語ったのが印象的だった。これで正常な親子関係を結べというのは、冗談がきつすぎる。
というふうに距離を置いて、言葉にできるようになったのは、最近のことである。
どちらが読まれたのか――『武蔵野夫人』(大岡昇平)(1)
大岡昇平の『成城だより Ⅲ』を読んでいると、こんなことが書いてあった。
「結局、『武蔵野夫人』は独歩『武蔵野』に及ばず。多摩川流路変遷と富士の崩壊を結びつける雄大なる空間構成が、独歩の迷路としての武蔵野のセンチメンタルな描写にかなわないのはうらめしい。」(7月1日)
えっ、そういう話なの。僕は『武蔵野夫人』という題名から連想して、裕福な有閑マダムが三角関係で悩む、というような小説を想像していた。
「多摩川流路変遷と富士の崩壊を結びつける雄大なる空間構成」など、入ってくる余地はないと思っていた。
これはやはり、読んでみる価値はありそうだ。
それで新潮文庫を買って奥付を見ると、仰天するような数字が並んでいる。
「一九五三年六月五日初刷、二〇一三年七月二十五日七十七刷改版」
文庫の初版は、僕が生まれた年だ。日付も、6月10日の誕生日とほとんど変わらない。その本が2000年以降も、変わらず発行されている。
大岡昇平は、本当に独歩にかなわないと思っていたのか。これは興味津々である。
カバー裏の惹句を見てみよう。
「貞淑で、古風で、武蔵野の精のようなやさしい魂を持った人妻道子と、ビルマから復員してきた従弟の勉との間に芽生えた悲劇的な愛。――欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に、姦通・虚栄・欲望などをめぐる錯綜した心理模様を描く。スタンダールやラディゲなどに学んだフランス心理小説の手法を、日本の文学風土のなかで試みた、著者の初期代表作のひとつである。」
この惹句は実によくできている。これで過不足なく読んだ気になる。
大岡昇平としては、「欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に」というところだけが、あえて言えばオリジナルで、そこに知恵を絞ったのだろう。
ということで本文を見ていこう。
本文に先立つプロローグがある。
「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか。
ラディゲ」
これは、フランスの心理小説を日本語に置き換えたものですよ、ということが断ってある。
今から見れば古色蒼然だが、70年前なら、その意匠は新しいものだったのか。多分その当時の読者にとっては、新しい恋愛小説だったのだろう。
いや、ひょっとすると令和の今ですら、こんな小説は初めてだ、と思って読む人がいるかもしれない。恋愛小説を、当事者の男女の心理に絞って描いたものは、案外少なそうだ。
「ドルジェル伯爵夫人のような……」という箴言があるので、さっそく人間関係の話があるかと思うと、そうではない。
冒頭、作品の舞台となる武蔵野台地の説明がある。
「中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。『野川』と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかつて古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈澱させた古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。」
このような説明が、この後、4ページにわたって続いていく。これが大岡が言うところの、国木田独歩と張り合った、武蔵野の描写である。
ここを舞台に悲劇が起きるのだから、土地の霊とも関係があり、大岡が力を籠めて描くわけである。
「結局、『武蔵野夫人』は独歩『武蔵野』に及ばず。多摩川流路変遷と富士の崩壊を結びつける雄大なる空間構成が、独歩の迷路としての武蔵野のセンチメンタルな描写にかなわないのはうらめしい。」(7月1日)
えっ、そういう話なの。僕は『武蔵野夫人』という題名から連想して、裕福な有閑マダムが三角関係で悩む、というような小説を想像していた。
「多摩川流路変遷と富士の崩壊を結びつける雄大なる空間構成」など、入ってくる余地はないと思っていた。
これはやはり、読んでみる価値はありそうだ。
それで新潮文庫を買って奥付を見ると、仰天するような数字が並んでいる。
「一九五三年六月五日初刷、二〇一三年七月二十五日七十七刷改版」
文庫の初版は、僕が生まれた年だ。日付も、6月10日の誕生日とほとんど変わらない。その本が2000年以降も、変わらず発行されている。
大岡昇平は、本当に独歩にかなわないと思っていたのか。これは興味津々である。
カバー裏の惹句を見てみよう。
「貞淑で、古風で、武蔵野の精のようなやさしい魂を持った人妻道子と、ビルマから復員してきた従弟の勉との間に芽生えた悲劇的な愛。――欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に、姦通・虚栄・欲望などをめぐる錯綜した心理模様を描く。スタンダールやラディゲなどに学んだフランス心理小説の手法を、日本の文学風土のなかで試みた、著者の初期代表作のひとつである。」
この惹句は実によくできている。これで過不足なく読んだ気になる。
大岡昇平としては、「欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に」というところだけが、あえて言えばオリジナルで、そこに知恵を絞ったのだろう。
ということで本文を見ていこう。
本文に先立つプロローグがある。
「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか。
ラディゲ」
これは、フランスの心理小説を日本語に置き換えたものですよ、ということが断ってある。
今から見れば古色蒼然だが、70年前なら、その意匠は新しいものだったのか。多分その当時の読者にとっては、新しい恋愛小説だったのだろう。
いや、ひょっとすると令和の今ですら、こんな小説は初めてだ、と思って読む人がいるかもしれない。恋愛小説を、当事者の男女の心理に絞って描いたものは、案外少なそうだ。
「ドルジェル伯爵夫人のような……」という箴言があるので、さっそく人間関係の話があるかと思うと、そうではない。
冒頭、作品の舞台となる武蔵野台地の説明がある。
「中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。『野川』と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかつて古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈澱させた古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。」
このような説明が、この後、4ページにわたって続いていく。これが大岡が言うところの、国木田独歩と張り合った、武蔵野の描写である。
ここを舞台に悲劇が起きるのだから、土地の霊とも関係があり、大岡が力を籠めて描くわけである。
警察を辞めざるを得ないだろう――『傷だらけのカミーユ』(ピエール・ルメートル、橘明美・訳)
ヴェルーヴェン警部ものの、3部作の掉尾を飾る。
第1作『悲しみのイレーヌ』では、第一部の叙述に工夫があった。第2作の『その女アレックス』は、途中で犯人の連続殺人鬼が死んでしまった。
いずれも読者には、何がどうなっているのか、絶対に見破れない仕掛けだと思う。
前の2作が、空間図形におけるネジレの位置にあったとすると、こんどは、例によってどんでん返しはきついが、いちおう平面図形の範疇に収まっている。というようなことを言っても、具体的なことが分からないと、何のことやらだろう。
例によってカバー裏の惹句から。
「カミーユ警部の恋人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負った。一命をとりとめた彼女を執拗に狙う犯人。もう二度と愛する者を失いたくない。カミーユは彼女との関係を隠し、残忍な強盗の正体を追う。〔中略〕痛みと悲しみの傑作ミステリ。」
この「痛みと悲しみの」というところが、ポイントである。
3作目は事件が起こってから、解決するまで、わずか3日間のいろいろな事柄が、同時進行的に起きている。だから大見出しは、「一日目」「二日目」「三日目」となっていて、小見出しは例えば、「十時」「十時四十分」というふうになっている。
それでこちらも、刻々と時間が迫ってくるような気がしてしまう。物語の構造は違うけれど、ゲーリー・クーバーの『真昼の決闘』の、映画と中身の同時進行を思い出してしまう。
ヴェルーヴェン警部側と、犯人側、そして警部の恋人アンヌの三つ巴が、共鳴装置のように、大団円に向かって徐々に効果を上げながら、頂点に達する。
そのとき事件の真相は、ここまで見ていたものとは、まったく違うものになっている。
それとは別に、部下のアルマン刑事は、この作品では癌で死んだばかりである。度外れたケチのアルマン。よけいな描写を一切せずに、ヴェルーヴェン警部が葬儀に出かける、というところから始まる。けっこう大きな衝撃だった。
詳しくは言えないが、ヴェルーヴェン警部は、警察を辞めざるを得ないだろう。自分の恋人を守ることは、警察では私情を挟む、いけないことなのだ。
第1作ではマレヴァル刑事が辞め、第3作目ではアルマン刑事が死んだ。これでヴェルーヴェン警部が辞めたら、この3作をもって、幕を閉じることになる。
これは新しいシリーズとしてはもったいない。
でもたぶん大丈夫、ルイ・マリア―ニ刑事がいる。この資産家の御曹司で、着こなしも上から下までブランドもので隙のない、文学、絵画・彫刻、音楽に明るい、溢れるように魅力的な若者に、バトンタッチして続いていくだろう。
きっとそうなることを期待している。
(『傷だらけのカミーユ』ピエール・ルメートル、橘明美・訳、
文春文庫、2016年10月10日初刷)
第1作『悲しみのイレーヌ』では、第一部の叙述に工夫があった。第2作の『その女アレックス』は、途中で犯人の連続殺人鬼が死んでしまった。
いずれも読者には、何がどうなっているのか、絶対に見破れない仕掛けだと思う。
前の2作が、空間図形におけるネジレの位置にあったとすると、こんどは、例によってどんでん返しはきついが、いちおう平面図形の範疇に収まっている。というようなことを言っても、具体的なことが分からないと、何のことやらだろう。
例によってカバー裏の惹句から。
「カミーユ警部の恋人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負った。一命をとりとめた彼女を執拗に狙う犯人。もう二度と愛する者を失いたくない。カミーユは彼女との関係を隠し、残忍な強盗の正体を追う。〔中略〕痛みと悲しみの傑作ミステリ。」
この「痛みと悲しみの」というところが、ポイントである。
3作目は事件が起こってから、解決するまで、わずか3日間のいろいろな事柄が、同時進行的に起きている。だから大見出しは、「一日目」「二日目」「三日目」となっていて、小見出しは例えば、「十時」「十時四十分」というふうになっている。
それでこちらも、刻々と時間が迫ってくるような気がしてしまう。物語の構造は違うけれど、ゲーリー・クーバーの『真昼の決闘』の、映画と中身の同時進行を思い出してしまう。
ヴェルーヴェン警部側と、犯人側、そして警部の恋人アンヌの三つ巴が、共鳴装置のように、大団円に向かって徐々に効果を上げながら、頂点に達する。
そのとき事件の真相は、ここまで見ていたものとは、まったく違うものになっている。
それとは別に、部下のアルマン刑事は、この作品では癌で死んだばかりである。度外れたケチのアルマン。よけいな描写を一切せずに、ヴェルーヴェン警部が葬儀に出かける、というところから始まる。けっこう大きな衝撃だった。
詳しくは言えないが、ヴェルーヴェン警部は、警察を辞めざるを得ないだろう。自分の恋人を守ることは、警察では私情を挟む、いけないことなのだ。
第1作ではマレヴァル刑事が辞め、第3作目ではアルマン刑事が死んだ。これでヴェルーヴェン警部が辞めたら、この3作をもって、幕を閉じることになる。
これは新しいシリーズとしてはもったいない。
でもたぶん大丈夫、ルイ・マリア―ニ刑事がいる。この資産家の御曹司で、着こなしも上から下までブランドもので隙のない、文学、絵画・彫刻、音楽に明るい、溢れるように魅力的な若者に、バトンタッチして続いていくだろう。
きっとそうなることを期待している。
(『傷だらけのカミーユ』ピエール・ルメートル、橘明美・訳、
文春文庫、2016年10月10日初刷)
これはピンボケ――『絶望からの新聞論』(南彰)(4)
2014年、朝日新聞の慰安婦報道問題をめぐって、猛烈な朝日バッシングが起きる。これが朝日にとって、深い痛手になったのではないか、と青木理は言う。
「青木 ただ、慰安婦問題そのものが虚構だったわけではもちろんなく、誤報だったのは慰安婦問題報道をめぐる一部の記事にすぎません。なのに朝日憎しに凝り固まった安倍政権の意向なども背景とし、ここぞとばかりにライバル紙の読売なども朝日叩きに走り、一種異様な朝日バッシングのムードに覆われました。」
このときは私も覚えている。朝日の、付き合いのある文化部の記者は、問題の中心からは距離を置いていたが、それでも朝日社内の異様なムードは伝わってきた。
「しかもこれに池上彰さんのコラム不掲載問題といった朝日経営陣のミスなども重なり、当時の社長をはじめとする経営幹部、編集幹部が総退陣、総入れ替えに追い込まれた。その影響が強く尾を引いている面もあるでしょう。」
これを受けて南が言う。
「南 本来は経営幹部になるべきだった人がいなくなり、そこまで深く考えてきていない人たちが経営陣に就いてしまった。そういう面は間違いなくあるでしょう。しかもそういう人たちが社内の権力闘争にうつつを抜かしている。」
問題はここに尽きている。そのことを南は、さらに具体的に述べていく。
「上層部に台頭する危機管理重視派が取材や記事の細かな点をあげつらい、人事で記者を飛ばすといったことも繰り返され、社内が強い委縮ムードに染まっていったのも間違いありません。」
南は、なおも事実を挙げる。
「昨年(2022年)七月に安倍元首相が殺害されるという衝撃的事件が発生した直後、これは朝日だけではありませんでしたが、犯行の大きな動機となった旧統一教会の問題に踏み込むことを一瞬ためらってしまった。」
まったくどうしようもない。
「旧統一教会と安倍政権、あるいは与党内の右派勢力との関係が大きな焦点となった際、たとえば政権や与党の復古的なジェンダー政策、家族政策などに旧統一教会がどのような影響を与えたのか、そうした評価の部分について踏み込む報道はなかなか難しい状況になっていました。」
おかげで自民党が少数与党に陥った現在も、旧統一教会はのうのうと生き延びている。このままでは解散命令も出せないのではないか。
あるいは出せても、すぐに衣替えして、新しい宗教団体として復活するのではないか。
それはともかく、『絶望からの新聞論』は大したことのない本だった。いかにも朝日らしい感度の鈍い記者と、編集者が仕事をしていない本で、これではどうしようもない。
そういうこととは別に、新聞をめぐってはこの1年、劇的な様相を呈している。それはSNSとの関わりで起きた。
今年(2024年)、東京都知事選で石丸伸二が、蓮舫を抜いて2位に入った。また一度失職した斎藤元彦が、兵庫県知事選で再び選ばれた。いずれも選挙戦終盤で、異様な盛り上がりを見せたのだ。
乱暴に言うと、新聞もテレビも見ない若い人が、勢いのついたSNSに熱狂したのだ。
SNSは、その人とケータイの、一対一対応である。そこでは人は、自分に興味のある情報しか見ない。新聞やテレビも、基本は同じなんだけれど、それでも、それ以外の情報も少しはある。
何よりも新聞は複数の眼が入り、読者が見るときは、原稿そのままではなく、編集の過程を経ている。ここが大事である。
朝日の場合は、上役の目が入ることがマイナスで、何の記事だか分からなくなるということだが、複数の眼はもろ刃の刃〔やいば〕なのである。
私は新聞も、普段はざっと読んで、横目でにらんで通り過ぎるが、しかし、横目であってもにらむということが、大事なのである。そこには編集という、一段階が入っている。
まあそうは言っても、新聞は早晩滅びるだろう。何かそれに代わるものがないと、あっという間に日本は様変わりし、徴兵制なども勢いがつけば、すぐに復活しそうである。
(『絶望からの新聞論』南彰、地平社、2024年4月23日初刷)
「青木 ただ、慰安婦問題そのものが虚構だったわけではもちろんなく、誤報だったのは慰安婦問題報道をめぐる一部の記事にすぎません。なのに朝日憎しに凝り固まった安倍政権の意向なども背景とし、ここぞとばかりにライバル紙の読売なども朝日叩きに走り、一種異様な朝日バッシングのムードに覆われました。」
このときは私も覚えている。朝日の、付き合いのある文化部の記者は、問題の中心からは距離を置いていたが、それでも朝日社内の異様なムードは伝わってきた。
「しかもこれに池上彰さんのコラム不掲載問題といった朝日経営陣のミスなども重なり、当時の社長をはじめとする経営幹部、編集幹部が総退陣、総入れ替えに追い込まれた。その影響が強く尾を引いている面もあるでしょう。」
これを受けて南が言う。
「南 本来は経営幹部になるべきだった人がいなくなり、そこまで深く考えてきていない人たちが経営陣に就いてしまった。そういう面は間違いなくあるでしょう。しかもそういう人たちが社内の権力闘争にうつつを抜かしている。」
問題はここに尽きている。そのことを南は、さらに具体的に述べていく。
「上層部に台頭する危機管理重視派が取材や記事の細かな点をあげつらい、人事で記者を飛ばすといったことも繰り返され、社内が強い委縮ムードに染まっていったのも間違いありません。」
南は、なおも事実を挙げる。
「昨年(2022年)七月に安倍元首相が殺害されるという衝撃的事件が発生した直後、これは朝日だけではありませんでしたが、犯行の大きな動機となった旧統一教会の問題に踏み込むことを一瞬ためらってしまった。」
まったくどうしようもない。
「旧統一教会と安倍政権、あるいは与党内の右派勢力との関係が大きな焦点となった際、たとえば政権や与党の復古的なジェンダー政策、家族政策などに旧統一教会がどのような影響を与えたのか、そうした評価の部分について踏み込む報道はなかなか難しい状況になっていました。」
おかげで自民党が少数与党に陥った現在も、旧統一教会はのうのうと生き延びている。このままでは解散命令も出せないのではないか。
あるいは出せても、すぐに衣替えして、新しい宗教団体として復活するのではないか。
それはともかく、『絶望からの新聞論』は大したことのない本だった。いかにも朝日らしい感度の鈍い記者と、編集者が仕事をしていない本で、これではどうしようもない。
そういうこととは別に、新聞をめぐってはこの1年、劇的な様相を呈している。それはSNSとの関わりで起きた。
今年(2024年)、東京都知事選で石丸伸二が、蓮舫を抜いて2位に入った。また一度失職した斎藤元彦が、兵庫県知事選で再び選ばれた。いずれも選挙戦終盤で、異様な盛り上がりを見せたのだ。
乱暴に言うと、新聞もテレビも見ない若い人が、勢いのついたSNSに熱狂したのだ。
SNSは、その人とケータイの、一対一対応である。そこでは人は、自分に興味のある情報しか見ない。新聞やテレビも、基本は同じなんだけれど、それでも、それ以外の情報も少しはある。
何よりも新聞は複数の眼が入り、読者が見るときは、原稿そのままではなく、編集の過程を経ている。ここが大事である。
朝日の場合は、上役の目が入ることがマイナスで、何の記事だか分からなくなるということだが、複数の眼はもろ刃の刃〔やいば〕なのである。
私は新聞も、普段はざっと読んで、横目でにらんで通り過ぎるが、しかし、横目であってもにらむということが、大事なのである。そこには編集という、一段階が入っている。
まあそうは言っても、新聞は早晩滅びるだろう。何かそれに代わるものがないと、あっという間に日本は様変わりし、徴兵制なども勢いがつけば、すぐに復活しそうである。
(『絶望からの新聞論』南彰、地平社、2024年4月23日初刷)
これはピンボケ――『絶望からの新聞論』(南彰)(3)
第2章は「『一強』化する読売新聞」、つまり読売新聞論だ。
10年ほど前に脳出血で倒れてから、よくは知らないが、読売と朝日の部数は、すさまじい差がついたらしい。
「日本ABC協会のまとめでは、二〇二三年九月の読売の朝刊発行部数は六二一万部、朝日、毎日、産経の三新聞の合計(計六一一万部)を上回った。日本経済新聞を含めた全国紙五紙におけるシェアは四五%を超えた。読売のシェアは突出している。」
私は現役の編集者のころは、新聞の文化・学芸部の記者とは、仲良くしていた。記者の人たちとはギブ・アンド・テイクで、こちらもできる限り情報を相手に伝え、その代り新聞記事として取り上げてもらおうとした。
記者の人たちは、皆ざっくばらんで、どの新聞も対等で、気持ちのいい付き合いだった。
しかし政治のこととなると、かなり評価は分かれる。読売新聞は、与党に重なるような報道が多く、それは私には、新聞の立ち位置とは違うような気がした。
それがシェアで突出した状態というのは、よくない。
例えば次のようなこともあった。
2021年12月27日、読売大阪本社と大阪府は、情報発信など8分野で連携を進めるために、「包括連携協定」を結んだ。
「二〇二五年開催の大阪・関西万博の税金による『特需』を見越した関係づくりと見られるが、取材される側の権力と取材する側の報道機関の『一体化』は、読者の『知る権利』を歪め、民主主義を危うくする行為にほかならない。〔中略〕大阪府は西日本最大の自治体であるとともに、国政政党(日本維新の会)幹部がトップを務め、特定政党の影響力の強い自治体だ。」
読売の体質が露骨に出た話だ。こういう新聞は、私は取りたくない。
新聞協会が調査している、2023年春の入社予定者は、読売が64人、朝日は19人で、読売が記者志望者の「主要な受け皿になっている」。
「日本の健全なジャーナリズムと民主主義社会を維持していくうえで、読売が『唯一無二の全国紙』となり、対抗するメディアがない状況は望ましいものとは言えないだろう。」
行き着く果ては、ひどいことになりそうだ。
もっとも読売ですら、ひところは1000万部と言っていたのが、およそ2分の1に減っている。そう思えば、「唯一無二の全国紙」も風前の灯し火ではある。
これで新聞が無くなると(それは早晩そうなるだろう)、社会的な情報を得るのは、ネット一色になる。これはこれで実に恐ろしいことだ。
ここから終わりまでは、新聞記者・南彰の活躍ぶりを、その時々の政治・社会状況と絡めて描き、最後に朝日新聞から琉球新報に転職するところまでである。
これも面白くないわけではないが、『絶望からの新聞論』というのとは主旨が違う。
最後に附録のような扱いで、青木理さんとの対談が入っている。
青木さんはトランスビューから、『ルポ 国家権力』『青木理の抵抗の視線』という2冊を出していただいた。この企画と編集は、フリーの編集者がやったが、私もときどき一緒に青木さんと会った。話は面白く、懐かしい人だ。
この附録の対談が、いわば『絶望からの「朝日新聞」論』の本体をなしている。
10年ほど前に脳出血で倒れてから、よくは知らないが、読売と朝日の部数は、すさまじい差がついたらしい。
「日本ABC協会のまとめでは、二〇二三年九月の読売の朝刊発行部数は六二一万部、朝日、毎日、産経の三新聞の合計(計六一一万部)を上回った。日本経済新聞を含めた全国紙五紙におけるシェアは四五%を超えた。読売のシェアは突出している。」
私は現役の編集者のころは、新聞の文化・学芸部の記者とは、仲良くしていた。記者の人たちとはギブ・アンド・テイクで、こちらもできる限り情報を相手に伝え、その代り新聞記事として取り上げてもらおうとした。
記者の人たちは、皆ざっくばらんで、どの新聞も対等で、気持ちのいい付き合いだった。
しかし政治のこととなると、かなり評価は分かれる。読売新聞は、与党に重なるような報道が多く、それは私には、新聞の立ち位置とは違うような気がした。
それがシェアで突出した状態というのは、よくない。
例えば次のようなこともあった。
2021年12月27日、読売大阪本社と大阪府は、情報発信など8分野で連携を進めるために、「包括連携協定」を結んだ。
「二〇二五年開催の大阪・関西万博の税金による『特需』を見越した関係づくりと見られるが、取材される側の権力と取材する側の報道機関の『一体化』は、読者の『知る権利』を歪め、民主主義を危うくする行為にほかならない。〔中略〕大阪府は西日本最大の自治体であるとともに、国政政党(日本維新の会)幹部がトップを務め、特定政党の影響力の強い自治体だ。」
読売の体質が露骨に出た話だ。こういう新聞は、私は取りたくない。
新聞協会が調査している、2023年春の入社予定者は、読売が64人、朝日は19人で、読売が記者志望者の「主要な受け皿になっている」。
「日本の健全なジャーナリズムと民主主義社会を維持していくうえで、読売が『唯一無二の全国紙』となり、対抗するメディアがない状況は望ましいものとは言えないだろう。」
行き着く果ては、ひどいことになりそうだ。
もっとも読売ですら、ひところは1000万部と言っていたのが、およそ2分の1に減っている。そう思えば、「唯一無二の全国紙」も風前の灯し火ではある。
これで新聞が無くなると(それは早晩そうなるだろう)、社会的な情報を得るのは、ネット一色になる。これはこれで実に恐ろしいことだ。
ここから終わりまでは、新聞記者・南彰の活躍ぶりを、その時々の政治・社会状況と絡めて描き、最後に朝日新聞から琉球新報に転職するところまでである。
これも面白くないわけではないが、『絶望からの新聞論』というのとは主旨が違う。
最後に附録のような扱いで、青木理さんとの対談が入っている。
青木さんはトランスビューから、『ルポ 国家権力』『青木理の抵抗の視線』という2冊を出していただいた。この企画と編集は、フリーの編集者がやったが、私もときどき一緒に青木さんと会った。話は面白く、懐かしい人だ。
この附録の対談が、いわば『絶望からの「朝日新聞」論』の本体をなしている。
これはピンボケ――『絶望からの新聞論』(南彰)(2)
この本は『絶望からの新聞論』と銘打ちつつも、読んでいくと、『絶望からの「朝日新聞」論』になっていることが多い。
著者の文章が、体験してきたことを、直接書き付けていることが多いため、「新聞論」というよりも、「朝日新聞批判」であることが多い。
著者の南彰は2022年4月、政治部から異動して、コンテンツ編成本部のデスクになった。コンテンツ部のデスクは、社内事情がよく見える。
「体質は旧態依然のまま、社内の統制ばかりを強めて、自由な気風が壊れていく朝日の変質に危機感を募らせる社内外からの相談を受け、連日、大量の泥水を飲むような感覚ではあった。経営陣は優れたコラムニストや記者を目の敵にし、人事権による統制を強めた。」
さすがにこういうところでは働けない、どうしようもない。
こんなこともあった。2022年7月8日、安倍晋三元首相が狙撃された。
「朝日新聞の取材陣はいち早く容疑者の親族に接触。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者になった母親の多額の献金のせいで苦しんできた容疑者の生い立ちについての証言を得て、捜査当局からも同様の情報を得ていた。」
ところが、朝日新聞が教団名を報じたのは、教団が記者会見を開いた3日後。雑誌系メディアや海外メディアの後追い報道となり、他の新聞・テレビと横並びだった。
どうしてこんなことになったのか。
「事件当日夜の編集局の会議には、編集担当役員が乗り出して、『モリカケばかり強調するな』『SNSで会社がつぶれかねない』など表現を抑える発言を続けていた。」
本当にこれが、世論をリードするメディアの役割なのか。退嬰的という言葉では足りないくらい、狂っている。
「その後も委縮が続き、宮台真司・東京都立大学教授のインタビュー記事で、民主党政権下に自民党と教団が再び接近して関係を深めたと語ったくだりを『社会部の取材で確かめてからでないと掲載できない』と削除。朝日には教団取材の蓄積もあったが、そうした記者を遠ざけていたので、確認にも時間がかかる。民放などに大きな後れをとり、読者の離反を招いた。」
朝日は編集の中枢を、何者かに乗っ取られたんだね。
東京新聞も10年たって飽きてきたので、たまには朝日でもと思ったけれど、やめておこう。というより、朝日新聞は金輪際ごめんだ、という気に、この本を読むとなるよね。まったく『絶望からの「朝日新聞」論』である。
なお一連の旧統一教会の問題で言えば、著者は気にするふうもないが、「雑誌系メディアや海外メディアの後追い報道となり、他の新聞・テレビと横並びだった」、というところが問題である。新聞・テレビは、この時点で終わっている。ここをどうにかしないと、『絶望からの新聞論』には意味がない。
なおこの著者は、かってな一人合点が多い。いくつか例を引く。
著者が朝日新聞をやめるとき、「同僚たちは『ジャーナリズムを支える 離れていても仲間です』という見出しで締めくくる四ページ立ての〝卒業新聞〟を作ってくれた」。
これだけでは、何のことだかわからない。朝日の仲間うち以外は、ちんぷんかんぷんである。
編集者も、黙って原稿を押し頂いてきてはダメだ。この〝卒業新聞〟とは何ですか、と聞かなきゃ。編集者は読者代表でしょ。
またこのころ朝日では、社外のすべての表現活動について、編集局長室の事前検閲を義務づけることとした。
著者はそこをこう表現する。
「NHKの連続テレビ小説『らんまん』で大学教授が主人公の牧野富太郎に『私のものになりなさい』と迫った言動とそっくりで、社員の活動のすべてを管理し、成果と自由を奪っていくようなものだった。三浦英之記者の『太陽の子』のような作品の出版はできなくなる仕組みだった。」
まずNHKのテレビ小説『らんまん』を見ていなければ、何のことだかわからない。かりに見ていても、2,3年もたてば忘れてしまうだろう。この本は、そんなに寿命の短いものなのか。
また三浦英之記者の労作は内容を言うべきで、その題名も『太陽の子―日本がアフリカに置き去りにした秘密―』と、サブタイトルも付けるべきである。そうすると、内容もいくらかは分かる。それにしても、『太陽の子』が出せなくなるとは、どういう意味なんだ。
テレビ番組と書籍の2つを挙げておきながら、それをまったく解説しないとは。この著者は、自分の知っていることは、みんなも知っていて当然、と思っているのだ。朝日の記者らしいなあ。
こういう表現をする記者が、まだ朝日新聞にいたことが信じられない。『絶望からの新聞論』の例なら、何よりも傲慢な私を見よ、と言うのではあるまいな。
そしてこの本にはまた、編集者もいないのである。
著者の文章が、体験してきたことを、直接書き付けていることが多いため、「新聞論」というよりも、「朝日新聞批判」であることが多い。
著者の南彰は2022年4月、政治部から異動して、コンテンツ編成本部のデスクになった。コンテンツ部のデスクは、社内事情がよく見える。
「体質は旧態依然のまま、社内の統制ばかりを強めて、自由な気風が壊れていく朝日の変質に危機感を募らせる社内外からの相談を受け、連日、大量の泥水を飲むような感覚ではあった。経営陣は優れたコラムニストや記者を目の敵にし、人事権による統制を強めた。」
さすがにこういうところでは働けない、どうしようもない。
こんなこともあった。2022年7月8日、安倍晋三元首相が狙撃された。
「朝日新聞の取材陣はいち早く容疑者の親族に接触。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者になった母親の多額の献金のせいで苦しんできた容疑者の生い立ちについての証言を得て、捜査当局からも同様の情報を得ていた。」
ところが、朝日新聞が教団名を報じたのは、教団が記者会見を開いた3日後。雑誌系メディアや海外メディアの後追い報道となり、他の新聞・テレビと横並びだった。
どうしてこんなことになったのか。
「事件当日夜の編集局の会議には、編集担当役員が乗り出して、『モリカケばかり強調するな』『SNSで会社がつぶれかねない』など表現を抑える発言を続けていた。」
本当にこれが、世論をリードするメディアの役割なのか。退嬰的という言葉では足りないくらい、狂っている。
「その後も委縮が続き、宮台真司・東京都立大学教授のインタビュー記事で、民主党政権下に自民党と教団が再び接近して関係を深めたと語ったくだりを『社会部の取材で確かめてからでないと掲載できない』と削除。朝日には教団取材の蓄積もあったが、そうした記者を遠ざけていたので、確認にも時間がかかる。民放などに大きな後れをとり、読者の離反を招いた。」
朝日は編集の中枢を、何者かに乗っ取られたんだね。
東京新聞も10年たって飽きてきたので、たまには朝日でもと思ったけれど、やめておこう。というより、朝日新聞は金輪際ごめんだ、という気に、この本を読むとなるよね。まったく『絶望からの「朝日新聞」論』である。
なお一連の旧統一教会の問題で言えば、著者は気にするふうもないが、「雑誌系メディアや海外メディアの後追い報道となり、他の新聞・テレビと横並びだった」、というところが問題である。新聞・テレビは、この時点で終わっている。ここをどうにかしないと、『絶望からの新聞論』には意味がない。
なおこの著者は、かってな一人合点が多い。いくつか例を引く。
著者が朝日新聞をやめるとき、「同僚たちは『ジャーナリズムを支える 離れていても仲間です』という見出しで締めくくる四ページ立ての〝卒業新聞〟を作ってくれた」。
これだけでは、何のことだかわからない。朝日の仲間うち以外は、ちんぷんかんぷんである。
編集者も、黙って原稿を押し頂いてきてはダメだ。この〝卒業新聞〟とは何ですか、と聞かなきゃ。編集者は読者代表でしょ。
またこのころ朝日では、社外のすべての表現活動について、編集局長室の事前検閲を義務づけることとした。
著者はそこをこう表現する。
「NHKの連続テレビ小説『らんまん』で大学教授が主人公の牧野富太郎に『私のものになりなさい』と迫った言動とそっくりで、社員の活動のすべてを管理し、成果と自由を奪っていくようなものだった。三浦英之記者の『太陽の子』のような作品の出版はできなくなる仕組みだった。」
まずNHKのテレビ小説『らんまん』を見ていなければ、何のことだかわからない。かりに見ていても、2,3年もたてば忘れてしまうだろう。この本は、そんなに寿命の短いものなのか。
また三浦英之記者の労作は内容を言うべきで、その題名も『太陽の子―日本がアフリカに置き去りにした秘密―』と、サブタイトルも付けるべきである。そうすると、内容もいくらかは分かる。それにしても、『太陽の子』が出せなくなるとは、どういう意味なんだ。
テレビ番組と書籍の2つを挙げておきながら、それをまったく解説しないとは。この著者は、自分の知っていることは、みんなも知っていて当然、と思っているのだ。朝日の記者らしいなあ。
こういう表現をする記者が、まだ朝日新聞にいたことが信じられない。『絶望からの新聞論』の例なら、何よりも傲慢な私を見よ、と言うのではあるまいな。
そしてこの本にはまた、編集者もいないのである。
これはピンボケ――『絶望からの新聞論』(南彰)(1)
版元の地平社は、今年(2024年)1月に、5人で創業した。代表は熊谷伸一郎氏で、前職は岩波の『世界』編集長である。
意欲的に『世界』を編集していて、岩波書店の社内の空気に、我慢がならなかったんだろう。月1回の岩波の新聞広告から、私はそう推測する。
この本の巻末に、書籍広告が載っている。
『デジタル・デモクラシー』(内田聖子)、『ルポ・低賃金』(東海林智)、『NHKは誰のものか』(長井暁)、『経済安保が社会を壊す』(島薗進ほか五名)、『世界史の中の戦後思想』(三宅芳夫)、『ガザ日記―ジェノサイドの記録―』(アーティフ・アブー・サイフ、中野真紀子・訳)。
創業した年の刊行書目には、その出版社の個性が如実に表われる。トランスビューの場合は、『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか―』(島田裕巳)、『昭和二十一年八月の絵日記』(山中和子、解説・養老孟司)、『無痛文明論』(森岡正博)が最初の3冊で、この3点で図形を描けば、その中にかなりいろんな企画が入れられる、と思った。
さまざまな本を出すつもりだったが、あとでその3冊を横から見ると、見事に3点が同一平面上にある。個人の知恵は知れたものだ、と言わざるを得ない。あるいは、私の知恵と言うべきなのか。
それはともかく、地平社の創業企画の場合は、岩波の最良の企画たちという気がする。本家・岩波が衰弱して、分家の地平社が、DNAを受け継いだように見える。
では『絶望からの新聞論』を読んでいこう。まず「はじめに」から。
「底が抜けた二〇年だった。
筆者が新聞社に入社した二〇〇二年、日本の新聞発行部数は、五三二〇万部だった。〔中略〕それから二一年が経過した直近の二〇二三年は二八五九万部、〔中略〕実に約二五〇〇万部が消失した。」
お先真っ暗で、ゾッとする数字である。
「スマートフォンの普及で新聞という存在は生活習慣から切り離され、購読している世帯は全世帯の半分以下に落ち込んだ。そのうえ、近年は落ち込みに加速がかかっており、二〇一八年からは前年比で年二〇〇万部以上が減っている。」
最初にこういう数字が挙げられているので、このままでは新聞の消滅は避けられない、ということが分かる。
一体どうすればよいのか。
「めざす新聞の姿は、『ペットボトルの水』のような存在だ。刺激の強い嗜好品ではなく、正気を保ち、いざというときに頼りになるものだ。次世代にどのようなメディア環境、民主主義社会を残していけはよいのか。」
新聞は「ペットボトルの水」のような存在とは、なかなか感覚がいい。
そう思って読み出すと、文章の調子が何だか変だ。
最初は朝日新聞を辞める話だ。南彰は2023年7月10日、21年半勤めた朝日新聞を退職する決意をした。すると6時間後に週刊文春から、退職されることについて話を伺いたい、という取材が入った。
その中にこういう一文がある。
「週刊文春編集部は、後述する『七月八日』の出来事も把握していた。」
その「後述」が、行けども行けども見当たらない。そもそも本文の1ページ目から、後述する事項を入れたりすべきではない。
この記者は、朝日のエースと目されているらしく、若くして(と言っても39歳)新聞労連の委員長に選出されたりしているが、どうなんだろうねえ、という気がしてしまう。
意欲的に『世界』を編集していて、岩波書店の社内の空気に、我慢がならなかったんだろう。月1回の岩波の新聞広告から、私はそう推測する。
この本の巻末に、書籍広告が載っている。
『デジタル・デモクラシー』(内田聖子)、『ルポ・低賃金』(東海林智)、『NHKは誰のものか』(長井暁)、『経済安保が社会を壊す』(島薗進ほか五名)、『世界史の中の戦後思想』(三宅芳夫)、『ガザ日記―ジェノサイドの記録―』(アーティフ・アブー・サイフ、中野真紀子・訳)。
創業した年の刊行書目には、その出版社の個性が如実に表われる。トランスビューの場合は、『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか―』(島田裕巳)、『昭和二十一年八月の絵日記』(山中和子、解説・養老孟司)、『無痛文明論』(森岡正博)が最初の3冊で、この3点で図形を描けば、その中にかなりいろんな企画が入れられる、と思った。
さまざまな本を出すつもりだったが、あとでその3冊を横から見ると、見事に3点が同一平面上にある。個人の知恵は知れたものだ、と言わざるを得ない。あるいは、私の知恵と言うべきなのか。
それはともかく、地平社の創業企画の場合は、岩波の最良の企画たちという気がする。本家・岩波が衰弱して、分家の地平社が、DNAを受け継いだように見える。
では『絶望からの新聞論』を読んでいこう。まず「はじめに」から。
「底が抜けた二〇年だった。
筆者が新聞社に入社した二〇〇二年、日本の新聞発行部数は、五三二〇万部だった。〔中略〕それから二一年が経過した直近の二〇二三年は二八五九万部、〔中略〕実に約二五〇〇万部が消失した。」
お先真っ暗で、ゾッとする数字である。
「スマートフォンの普及で新聞という存在は生活習慣から切り離され、購読している世帯は全世帯の半分以下に落ち込んだ。そのうえ、近年は落ち込みに加速がかかっており、二〇一八年からは前年比で年二〇〇万部以上が減っている。」
最初にこういう数字が挙げられているので、このままでは新聞の消滅は避けられない、ということが分かる。
一体どうすればよいのか。
「めざす新聞の姿は、『ペットボトルの水』のような存在だ。刺激の強い嗜好品ではなく、正気を保ち、いざというときに頼りになるものだ。次世代にどのようなメディア環境、民主主義社会を残していけはよいのか。」
新聞は「ペットボトルの水」のような存在とは、なかなか感覚がいい。
そう思って読み出すと、文章の調子が何だか変だ。
最初は朝日新聞を辞める話だ。南彰は2023年7月10日、21年半勤めた朝日新聞を退職する決意をした。すると6時間後に週刊文春から、退職されることについて話を伺いたい、という取材が入った。
その中にこういう一文がある。
「週刊文春編集部は、後述する『七月八日』の出来事も把握していた。」
その「後述」が、行けども行けども見当たらない。そもそも本文の1ページ目から、後述する事項を入れたりすべきではない。
この記者は、朝日のエースと目されているらしく、若くして(と言っても39歳)新聞労連の委員長に選出されたりしているが、どうなんだろうねえ、という気がしてしまう。
哀しい女の犯罪――『その女アレックス』(ピエール・ルメートル、橘明美・訳)
身長145cmしかないヴェルーヴェン警部の、3部作の2作目。このシリーズはヴェルーヴェン警部だけではなく、部下の刑事たちにも個性がある。
第1弾の『悲しみのイレーヌ』は2部に分かれていて、第一部の叙述にあっと驚く工夫があり、唸った。面白かった。
2作目は「本屋大賞 2015年翻訳小説部門」「このミステリーがすごい! 第1位」「『週刊文春』ミステリーベスト10 第1位」などすごい評判で、英国ではダガー賞を受賞し、フランス本国では「リーヴル・ド・ポッシュ読者賞」を受賞している。リーヴル・ド・ポッシュは文庫のシリーズで、ずっと昔から出ている。
これだけ評判がいいと、こちらも構えて、ついつい評価が辛くなる。
でも傑作だった。
アレックスは突然誘拐される。廃墟に閉じ込められ、犯人に、死んでいくのを観察される。しかしアレックスは、自分の肉を狙うネズミに、自分の生き血を摺り込んだロープを齧らせ、なんとか脱出を果たす。
読者はやれやれとホッとするが、アレックスは猟奇的な手口で人を殺していく、連続殺人鬼だった。
ヴェルーヴェン警部は、誘拐された、誰だかわからない女が、殺人犯ではないかと疑う。警部の勘は当たり、逃げた女は殺人を繰り返して、警察は後手を踏み続ける。
著者のピエール・ルメートルは、ヴェルーヴェン警部とアレックスを、交互に描写していく。当然、物語の終りで、アレックスとヴェルーヴェン警部は直接対決する、と思いきや、アレックスは突然自殺する。
これが第一部と第二部の終りまで。こうなると第三部は、夜中であろうと、明け方であろうと、本に目が吸い付いて離すことが出来ない。
第三部は、うーん、ここは紹介できない。
ではこれで、書評は終わりかというと、それも寂しい。ミステリーの書評は、考えてみればほんとに難しい。
そこで何か工夫はないかと、再読してみる。2度目に読むと、アレックスの悲しみが、唐突に、ひときわ胸に迫る。
始まりから3ページ目、アレックスがさんざん迷ってウィッグ、つまりカツラを買うところ。
「本当に人生が変わるわけではないとしても、そんな気分が味わえれば楽しい。もはや人生に期待などしていない身としては、楽しめるだけでもありがたい。」
すでにこんなところに伏線が張ってある。
さらに5ページ目。
「恋愛はすでにアレックスの人生の〝損なわれた領域〟に属しているので関心の対象になりえない。」
次に誘拐犯から逃れて、シャワーを浴びるところ。
「アレックスは深く息を吸って目を閉じた。だいじょうぶ、やり遂げられる。疲れてはいるけれど、一歩ずつやるべきことをやっていけばいい。」
アレックスは手当たりしだいに、猟奇殺人を繰り返しているように見えるが、決してそうではないのだ。
しかしこの謎解きは難しい。誰も正解にはたどり着くまい。
ヴェルーヴェン警部たちは、間一髪でアレックスが逃走した後、残された本を点検する。
「本はほぼ二箱分あった。ペーパーバックばかりだ。セリーヌ、プルースト、ジッド、ドストエフスキー、ランボー。カミーユはタイトルを目で追った。『夜の果ての旅』、『スワンの恋』、『贋金づくり』……。」
部下のルイが考え込んでいる。
「『危険な関係』、『谷間の百合』、『赤と黒』、『グレート・ギャツビー』、『異邦人』……。
『高校生の本棚みたいですね』ルイがようやく言った。」
一度目はどうということはなかった。二度目に読んだとき、アレックスの人間がまざまざと肉体を伴って、眼前に迫ってきた。
(『その女アレックス』ピエール・ルメートル、橘明美・訳、
文春文庫、2014年9月10日初刷、2015年4月20日第15刷)
第1弾の『悲しみのイレーヌ』は2部に分かれていて、第一部の叙述にあっと驚く工夫があり、唸った。面白かった。
2作目は「本屋大賞 2015年翻訳小説部門」「このミステリーがすごい! 第1位」「『週刊文春』ミステリーベスト10 第1位」などすごい評判で、英国ではダガー賞を受賞し、フランス本国では「リーヴル・ド・ポッシュ読者賞」を受賞している。リーヴル・ド・ポッシュは文庫のシリーズで、ずっと昔から出ている。
これだけ評判がいいと、こちらも構えて、ついつい評価が辛くなる。
でも傑作だった。
アレックスは突然誘拐される。廃墟に閉じ込められ、犯人に、死んでいくのを観察される。しかしアレックスは、自分の肉を狙うネズミに、自分の生き血を摺り込んだロープを齧らせ、なんとか脱出を果たす。
読者はやれやれとホッとするが、アレックスは猟奇的な手口で人を殺していく、連続殺人鬼だった。
ヴェルーヴェン警部は、誘拐された、誰だかわからない女が、殺人犯ではないかと疑う。警部の勘は当たり、逃げた女は殺人を繰り返して、警察は後手を踏み続ける。
著者のピエール・ルメートルは、ヴェルーヴェン警部とアレックスを、交互に描写していく。当然、物語の終りで、アレックスとヴェルーヴェン警部は直接対決する、と思いきや、アレックスは突然自殺する。
これが第一部と第二部の終りまで。こうなると第三部は、夜中であろうと、明け方であろうと、本に目が吸い付いて離すことが出来ない。
第三部は、うーん、ここは紹介できない。
ではこれで、書評は終わりかというと、それも寂しい。ミステリーの書評は、考えてみればほんとに難しい。
そこで何か工夫はないかと、再読してみる。2度目に読むと、アレックスの悲しみが、唐突に、ひときわ胸に迫る。
始まりから3ページ目、アレックスがさんざん迷ってウィッグ、つまりカツラを買うところ。
「本当に人生が変わるわけではないとしても、そんな気分が味わえれば楽しい。もはや人生に期待などしていない身としては、楽しめるだけでもありがたい。」
すでにこんなところに伏線が張ってある。
さらに5ページ目。
「恋愛はすでにアレックスの人生の〝損なわれた領域〟に属しているので関心の対象になりえない。」
次に誘拐犯から逃れて、シャワーを浴びるところ。
「アレックスは深く息を吸って目を閉じた。だいじょうぶ、やり遂げられる。疲れてはいるけれど、一歩ずつやるべきことをやっていけばいい。」
アレックスは手当たりしだいに、猟奇殺人を繰り返しているように見えるが、決してそうではないのだ。
しかしこの謎解きは難しい。誰も正解にはたどり着くまい。
ヴェルーヴェン警部たちは、間一髪でアレックスが逃走した後、残された本を点検する。
「本はほぼ二箱分あった。ペーパーバックばかりだ。セリーヌ、プルースト、ジッド、ドストエフスキー、ランボー。カミーユはタイトルを目で追った。『夜の果ての旅』、『スワンの恋』、『贋金づくり』……。」
部下のルイが考え込んでいる。
「『危険な関係』、『谷間の百合』、『赤と黒』、『グレート・ギャツビー』、『異邦人』……。
『高校生の本棚みたいですね』ルイがようやく言った。」
一度目はどうということはなかった。二度目に読んだとき、アレックスの人間がまざまざと肉体を伴って、眼前に迫ってきた。
(『その女アレックス』ピエール・ルメートル、橘明美・訳、
文春文庫、2014年9月10日初刷、2015年4月20日第15刷)
同窓生の書評――『海の見える理髪店』(荻原浩)
斎藤美奈子の書評集『あなたの代わりに読みました』の中で、何が書いてあるか分からないと、ブログに書いた本である。そこをもう一度引く。
「え、え、それって……。『僕』と店主の間にはじつは浅からぬ因縁があるのだが、それを知ってか店主はいう。〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います。真正面から向き合うとつらいから〉。理髪店主でなければ吐けない一言。上手い!」
「〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います〉」が、なぜうまいんだ。
ということで読んでみた。
初めに訂正をします。「『海の見える理髪店』は連作6篇を収める短篇集だ」というのは間違い。これは連作ではなく、ただ6篇を集めただけの短篇集だった。床屋が髪を切りながら、お客の悩みを鮮やかに解決する、なんてものではなかった。
しかしもちろん、共通するテーマはある。それは家族だ。
収録されている6篇は次の通り。
海の見える理髪店
いつか来た道
遠くから来た手紙
空は今日もスカイ
時のない時計
成人式
斎藤美奈子が解説を書いているが、その解説ほどには面白くない。斎藤美奈子と荻原浩は、成蹊大学の同じ学部、同じ学年の同窓生だったらしい。らしいと書くのは、学生時代には接点がなかったからだ。まあ大学の同窓生にはよくある話だ。
その解説はこんなふうだ。
「理髪店の店主(計算では昭和六年生まれ)が語る半生は、戦中戦後の歴史ときれいに重なる(「海の見える理髪店」)。昭和三十四年に開店した時計屋には四十年の時間が刻まれ、さらに空襲で焼けた先代の時計屋の記憶も背負っている(「時のない時計」)。「いつか来た道」「遠くから来た手紙」では、「実家」が過去を象徴する場所として登場する。どの作品にも、時代を感じさせる色とりどりの大道具や小道具が配されている。」
それはそうなんだけれど、いずれの話も、どこかで聞いた話といっては失礼だが、そんな気がする話なのだ。
齋藤美奈子が解説では触れなかった「成人式」は、娘を亡くして立ち直れない夫婦が、思い切って成人式の当事者として参加する。なかなか面白い趣向だが、短篇小説の要である幕切れが、何とも平凡でがっかりする。
この中では、「空は今日もスカイ」だけが異質である。
「主人公は小学三年生の茜。英語を勉強中の茜にとって〈英語は魔法の呪文だ〉。〈英語にすれば、毎日のどうでもいいものが、別のものに見えてくる〉。
母ちゃんはマミーだし、ダメ父ちゃんはダディー。両親が離婚し、その後父が死に、母とともに親戚の家に身を寄せることになった茜は、ある日、〈生活なんか嫌いだ。茜はライフがしたい〉と考えて家を出る。」
途中で出会った男の子と一緒に、ホームレスの掘っ立て小屋に泊まるが、翌日警察官に発見されてしまう。
斎藤美奈子は、この一篇を読んでこう言う。
「フォレスト〔連れの男の子〕と茜の手には〈ビッグマン〔仲良くなったホームレス〕が手のひらに書いてくれた、フクシの連絡先〉が握られているのである。冒険家志望の茜は、いつかきっと立ち上がるだろう。いますぐでなくても、ずっと先だったとしても……。」
茜は親戚の嫌われ者だ。そして連れの男の子は親によって、家の中ではなく、外の小屋で生活させられている。
彼らの「未来」をいう前に、緊急のこととして「現在」があり、ここを生き延びることが難しいのだ。
なお、鏡越しに人生を見ていたのが、なぜ文章表現としてうまいのかは、分からなかった。
(『海の見える理髪店』荻原浩、集英社文庫、2019年5月25日初刷、6月26日第4刷)
「え、え、それって……。『僕』と店主の間にはじつは浅からぬ因縁があるのだが、それを知ってか店主はいう。〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います。真正面から向き合うとつらいから〉。理髪店主でなければ吐けない一言。上手い!」
「〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います〉」が、なぜうまいんだ。
ということで読んでみた。
初めに訂正をします。「『海の見える理髪店』は連作6篇を収める短篇集だ」というのは間違い。これは連作ではなく、ただ6篇を集めただけの短篇集だった。床屋が髪を切りながら、お客の悩みを鮮やかに解決する、なんてものではなかった。
しかしもちろん、共通するテーマはある。それは家族だ。
収録されている6篇は次の通り。
海の見える理髪店
いつか来た道
遠くから来た手紙
空は今日もスカイ
時のない時計
成人式
斎藤美奈子が解説を書いているが、その解説ほどには面白くない。斎藤美奈子と荻原浩は、成蹊大学の同じ学部、同じ学年の同窓生だったらしい。らしいと書くのは、学生時代には接点がなかったからだ。まあ大学の同窓生にはよくある話だ。
その解説はこんなふうだ。
「理髪店の店主(計算では昭和六年生まれ)が語る半生は、戦中戦後の歴史ときれいに重なる(「海の見える理髪店」)。昭和三十四年に開店した時計屋には四十年の時間が刻まれ、さらに空襲で焼けた先代の時計屋の記憶も背負っている(「時のない時計」)。「いつか来た道」「遠くから来た手紙」では、「実家」が過去を象徴する場所として登場する。どの作品にも、時代を感じさせる色とりどりの大道具や小道具が配されている。」
それはそうなんだけれど、いずれの話も、どこかで聞いた話といっては失礼だが、そんな気がする話なのだ。
齋藤美奈子が解説では触れなかった「成人式」は、娘を亡くして立ち直れない夫婦が、思い切って成人式の当事者として参加する。なかなか面白い趣向だが、短篇小説の要である幕切れが、何とも平凡でがっかりする。
この中では、「空は今日もスカイ」だけが異質である。
「主人公は小学三年生の茜。英語を勉強中の茜にとって〈英語は魔法の呪文だ〉。〈英語にすれば、毎日のどうでもいいものが、別のものに見えてくる〉。
母ちゃんはマミーだし、ダメ父ちゃんはダディー。両親が離婚し、その後父が死に、母とともに親戚の家に身を寄せることになった茜は、ある日、〈生活なんか嫌いだ。茜はライフがしたい〉と考えて家を出る。」
途中で出会った男の子と一緒に、ホームレスの掘っ立て小屋に泊まるが、翌日警察官に発見されてしまう。
斎藤美奈子は、この一篇を読んでこう言う。
「フォレスト〔連れの男の子〕と茜の手には〈ビッグマン〔仲良くなったホームレス〕が手のひらに書いてくれた、フクシの連絡先〉が握られているのである。冒険家志望の茜は、いつかきっと立ち上がるだろう。いますぐでなくても、ずっと先だったとしても……。」
茜は親戚の嫌われ者だ。そして連れの男の子は親によって、家の中ではなく、外の小屋で生活させられている。
彼らの「未来」をいう前に、緊急のこととして「現在」があり、ここを生き延びることが難しいのだ。
なお、鏡越しに人生を見ていたのが、なぜ文章表現としてうまいのかは、分からなかった。
(『海の見える理髪店』荻原浩、集英社文庫、2019年5月25日初刷、6月26日第4刷)