「Ⅲ 文化と暮らしと芸能と」は文芸以外の、柔らかめの人文書というか、雑本全般である。
若尾政希『百姓一揆』(岩波新書)は、従来の「百姓一揆」のイメージをひっくり返す、と斎藤美奈子は言う。血塗られた竹槍を手に、農民が必死の覚悟で突進する、というのは間違ったイメージだ、と。
「60年代~70年代に支配的だった〈領主階級を打破しようとした「階級闘争」としての百姓一揆像〉はロマンチックな幻想だったらしい。」
これはもう50年くらい前から、一般に言われてきた。僕が筑摩書房にいたころの『江戸時代図誌』(全27冊)は、そういう江戸時代像を、ガラッと変える先駆けとなった。
「近世の百姓一揆は、意外なほどに非暴力的で合理的だった。〈日本近世は訴訟社会で、訴状が教材になるほどに、異議申し立てが頻繁に行われていた〉という話は、虐げられた物言わぬ民という近世の民衆のイメージを一変させる。」
そのころ、ある大学の先生に、「百姓一揆いうのは、春闘みたいなもんやね」、と聞かされたこともある。
「歴史学もまたその時代時代のイデオロギーに影響される。この本のおもしろさは、その過程が一揆研究史を通じて明らかにされていく点だ。暴力革命に幻想を抱いていた時代も過去にはあった。だが〈『カムイ伝』さながらの歴史叙述は、現在では通用しない〉のだ。」
たしかにそういうことも言えるだろう。
しかしそうではない時代、地域もあった。徳川時代は長い。東北の農民が、飢餓で子供を間引きした時代もあったのだ。こんどはそれが忘れられるのが怖い。
まことに歴史は、「その時代時代のイデオロギーに影響される」ものなのだ。だから昔の「階級闘争」が、今の「春闘」になる。
これに続く、原田伊織『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト―』(講談社文庫)も、明治維新史を真っ向から突き崩す。
「勤皇志士とは〈現代流にいえば「暗殺者集団」、つまりテロリストたちである。我が国の初代内閣総理大臣は「暗殺者集団」の構成員であったことを知っておくべきである〉にはじまり、私たちが学校で教わり、小説やドラマを通じて刷り込まれた近代の幕開けとしての維新の歴史がことごとく覆される。」
この話は、『父が子に語る日本史』(トランスビュー)を編集しているとき、著者の小島毅先生から、たっぷり聞かされた。僕の感想は、革命を成就するためには、血生臭いことも多々あるだろう、くらいだった。
しかしこの著者は、血生臭いことを、学者として客観的に書くのではなく、怨念を込めて書きつける。
「〈長州テロリストが行った多くの暗殺は、その残虐さにおいて後世のヤクザの比ではない〉。〈彼らは、これらの行為を『天誅』と称した。天の裁きだというのである。〔中略〕そして、自分たちが天に代わってそれを行うのだという。もはや狂気と断じるしかない〉」
長州テロリストの思想は、山県有朋などを通じて旧日本軍に伝染し、侵略戦争を引き起こした、と著者は言う。
「〈平成日本は今、危険な局面に差しかかっている。彗星の如く国民の不満を吸収する政治勢力が現れるのは常にこういう時期であり、それが正しい社会の指針を提示することは少ないのだ〉」
斎藤美奈子はここで、「安倍一強政治」を思い浮かべる。なるほどそうとも言える。
しかし、石破茂自民党総裁の場合はどうか。この鳥取一区から出た、東京生まれの国会議員は、軍事オタクとして名高く、また西洋では天賦人権説、つまり人権は天が与えたものだというのに対し、日本では国家が与えたものである、と主張する(©前川喜平)。ここから「国を守るために、死んでこい」、という主張へは一直線である。
今度の衆議院選挙で負けたので、石破総裁は辞任しそうだが、なあに、この手の政治家は次から次へと排出する。これは別に、特定の地域に絞ったものではない。
ただ「平成日本は今、危険な局面に差しかかっている。彗星の如く国民の不満を吸収する政治勢力が現れるのは常にこういう時期」だということは、心得ておくべきである。
ほかにもまだ紹介したい本、からかいたい本はあるが、このくらいにしよう。
丹念に読めば、紹介したいものや買ってみたい本は、あるにはあった。しかし10年に及ぶ『週刊朝日』連載の、490冊から150冊を選んだにしては、その時代時代を象徴する本がなかったのは、別の意味で危機を感じる。
(『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』
斎藤美奈子、朝日新聞出版、2024年5月30日初刷)
もはや中毒――『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』(斎藤美奈子)(5)
荻原浩の『海の見える理髪店』(集英社文庫)は連作6篇を収める短篇集だ。
「髪をいじりつつ店主が語る半生は、まさに昭和の歴史である。」
しかしそれだけで、直木賞受賞作、NHKでドラマ化されたこの本を、買おうと思ったわけではない。だいたいその2つで、ふつうは通俗の極み、もう結構となりがちである。
ところが最後に、斎藤美奈子はこんなことを書いている。
「え、え、それって……。『僕』と店主の間にはじつは浅からぬ因縁があるのだが、それを知ってか店主はいう。〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います。真正面から向き合うとつらいから〉。理髪店主でなければ吐けない一言。上手い!」
これ、ぜんぜん分からないではないか。しかもこれが、最後の一段なのだ。
こういう訳の分からぬ読書案内もあるのか。とにかく買わずにはいられない。
小手鞠るいの『アップルソング』(ポプラ文庫)は、女性報道写真家の一生を描いた長編小説。モデルのいる評伝と間違えそうだが、純粋の小説である。
斎藤美奈子は言う、戦後史をこれほど真正面から描いた作品は、珍しいのではないか、と。
「なにせ描かれた事件の数々がスゴイのだ。新宿駅西口の反戦フォーク集会(69年)、連合赤軍によるあさま山荘事件(72年)、丸の内の三菱重工業爆破事件(74年)、御巣鷹山の日航機墜落事故(85年)、ベルリンの壁崩壊(89年)。しかも単なる背景としてではなく、これらすべての現場に主人公がいたという、驚愕の設定!」
報道写真家を主人公にすれば、そういう設定も無理ではないのかもしれない。
僕はこの人の書くものを、読んだことがない。人と話していても、その名前に言及されたことは一度もない。しかし名前だけは知っている。
「〈私は知ってしまった。この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は、美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非業だ。私は、この醜い世界を撮りたい〉」
こういう本をしらなかったのは、実に不覚である。必ず読んで、ブログに挙げたい。
この章の一つに、「文学のトレンドは老後にあり」というのがある。おおむね実につまらないものが載っている。たとえば渡辺淳一『愛ふたたび』や、瀬戸内寂聴『爛』である。
ナベジュン(斎藤美奈子はこう略す)の主人公は、73歳の整形外科医で、ある日突然「不能(ED)」になったので、これはいかんと性交の研究に励む。
この小説は、地方紙の連載が、次々に打ち切りになったという問題作、というか問題外の作。しかし新聞小説で、次々に打ち切りになるというのは、聞いたことがない。これはこれで勲章……にはならないか。
瀬戸内寂聴の『爛』の方は、80歳前後の女が2人出てきて(1人は死んだばかり)、それぞれ悪女(ファムファタール)自慢をする。
挙句の果てに、主人公は言う。「〈あたくしは、男を殺す女に生れついているのでしょうか、次々死んでしまって〉」
そら、あんたが長生きしすぎなだけやんか、と言いたくなる。
斎藤美奈子はこう言う。
「唯我独尊こそが長生きの秘訣である。高級レディコミか、はたまたシルバー世代向きのハーレクインか。91歳になる作家の衰えない筆力と恋愛体質の発動ぶりに、脱帽。」
こういうものを、中身に触れることなく、読んだことにできる。読書代行業・斎藤美奈子に、ただ感謝である。
「髪をいじりつつ店主が語る半生は、まさに昭和の歴史である。」
しかしそれだけで、直木賞受賞作、NHKでドラマ化されたこの本を、買おうと思ったわけではない。だいたいその2つで、ふつうは通俗の極み、もう結構となりがちである。
ところが最後に、斎藤美奈子はこんなことを書いている。
「え、え、それって……。『僕』と店主の間にはじつは浅からぬ因縁があるのだが、それを知ってか店主はいう。〈きっと私はなんでも鏡越しに見ていたんだと思います。真正面から向き合うとつらいから〉。理髪店主でなければ吐けない一言。上手い!」
これ、ぜんぜん分からないではないか。しかもこれが、最後の一段なのだ。
こういう訳の分からぬ読書案内もあるのか。とにかく買わずにはいられない。
小手鞠るいの『アップルソング』(ポプラ文庫)は、女性報道写真家の一生を描いた長編小説。モデルのいる評伝と間違えそうだが、純粋の小説である。
斎藤美奈子は言う、戦後史をこれほど真正面から描いた作品は、珍しいのではないか、と。
「なにせ描かれた事件の数々がスゴイのだ。新宿駅西口の反戦フォーク集会(69年)、連合赤軍によるあさま山荘事件(72年)、丸の内の三菱重工業爆破事件(74年)、御巣鷹山の日航機墜落事故(85年)、ベルリンの壁崩壊(89年)。しかも単なる背景としてではなく、これらすべての現場に主人公がいたという、驚愕の設定!」
報道写真家を主人公にすれば、そういう設定も無理ではないのかもしれない。
僕はこの人の書くものを、読んだことがない。人と話していても、その名前に言及されたことは一度もない。しかし名前だけは知っている。
「〈私は知ってしまった。この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は、美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非業だ。私は、この醜い世界を撮りたい〉」
こういう本をしらなかったのは、実に不覚である。必ず読んで、ブログに挙げたい。
この章の一つに、「文学のトレンドは老後にあり」というのがある。おおむね実につまらないものが載っている。たとえば渡辺淳一『愛ふたたび』や、瀬戸内寂聴『爛』である。
ナベジュン(斎藤美奈子はこう略す)の主人公は、73歳の整形外科医で、ある日突然「不能(ED)」になったので、これはいかんと性交の研究に励む。
この小説は、地方紙の連載が、次々に打ち切りになったという問題作、というか問題外の作。しかし新聞小説で、次々に打ち切りになるというのは、聞いたことがない。これはこれで勲章……にはならないか。
瀬戸内寂聴の『爛』の方は、80歳前後の女が2人出てきて(1人は死んだばかり)、それぞれ悪女(ファムファタール)自慢をする。
挙句の果てに、主人公は言う。「〈あたくしは、男を殺す女に生れついているのでしょうか、次々死んでしまって〉」
そら、あんたが長生きしすぎなだけやんか、と言いたくなる。
斎藤美奈子はこう言う。
「唯我独尊こそが長生きの秘訣である。高級レディコミか、はたまたシルバー世代向きのハーレクインか。91歳になる作家の衰えない筆力と恋愛体質の発動ぶりに、脱帽。」
こういうものを、中身に触れることなく、読んだことにできる。読書代行業・斎藤美奈子に、ただ感謝である。
もはや中毒――『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』(斎藤美奈子)(4)
「Ⅱ 文芸書から社会が見える」は、文芸評論家・齋藤美奈子の本領発揮かと思ったのだが、肝心の文芸本にパンチの効いた、こちらの胸を熱くするような、あるいは心胆を寒からしめる本が少ない。それでも挙げると。
松田青子『持続可能な魂の利用』(中公文庫)は「爆弾的長編小説」だ、と斎藤は言う。
「〈この社会は、これまで「おじさん」によって運営されてきた。〉〈「おじさん」から自由になりたい。「おじさん」が決めない世界を見てみたい。「おじさん」がいなくなれば社会構造が劇的に変わるはずだ。その社会を見たい〉
そんな社会を私も見たい。鈍感な男社会の住人を粉砕する渾身の一撃だ。」
これは読まざるを得まい。
松田青子は、デビュー作品『スタッキング可能』で注目を浴びた。僕も読んでみたが、よく分からなかった。
こんどは「渾身の一撃」とあるから、ストレートに響くだろう。それとも僕の「おじさん」度がすごくて、響かなかったりして。それはそれで考えてしまう。
ともかく、すぐに読んでみよう。
今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)は、単行本で読んだ。例によって、「間違って書かれた名作童話みたいな不思議な雰囲気」があって、面白かった。
語り手の「わたし」は、近所で「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女と、友だちになりたくってしょうがない。
「女はさほど若くはなく、頬にはシミ、髪はパサパサ。公園には彼女専用のベンチがあり、町で彼女を知らない人はいない。」
「わたし」は自分の職場に、彼女を誘導する。その仕事は、ホテルの客室清掃員である。「わたし」はついに彼女と同僚になる。
しかし「わたし」の怪しさも、相当なものだ。
「語り手は『むらさきのスカートの女』に同情を寄せているのだが、『黄色いカーディガンの女』を自称する彼女自身もかなり怪しい。女の一挙手一投足を観察し、陰で世話を焼いたり気をもんだりするこの子は、いったい何者なのか。これほど近くにいながら、なぜあっちは彼女の存在に気づかないのか。透明人間なのか。まさか幽霊か。」
一言で言ってしまえば、相当に変な小説である。斎藤美奈子は、上手いことを言っている、
「ストーカーの視点で描かれた一人称小説」。後は読んでください。
宇佐見りんの『推し、燃ゆ』(河出文庫)は、近年の芥川賞では断トツで、僕は単行本で読んだ。
そうはいうものの、僕は近年の芥川賞作品をほとんど読んでいない。しかしそう言いたくなる力を、この大学生の著者は持っている。
「〈推しが燃えた。ファンを殴ったらしい〉
という一文から小説ははじまる。『推し』の名前は上野真幸。アイドルである。『まざま座』という5人グループの端っこのメンバーだ。
『あたし』こと山下あかりは16歳。真幸を『推し』に認定し、一貫して彼を応援してきた。〈アイドルのね、追っかけをしているんだって〉。〈若いからいいけど、現実の男を見なきゃあな。行き遅れちゃう〉と大人はいうが、それは違う。」
こういう話だが、この作品は断然文体が優れている。朝日新聞の、かつてあったWeb Ronzaに、そのことを書いたこともある。
「大人には理解しがたい心境である。しかし推しに対する彼女の思いは切実で、鬼気迫るものがある。〈推しは命にかかわるからね〉」。
そのことが、文体を見ればわかる。
「作者は21歳の大学生。ゆうても主人公はオタクだからベストセラーにはなりにくいかなと思いきや、すでに同世代の共感を誘っている由。これはこれで破滅型の青春の系譜に乗っているのが末おそろしい。」
最後の一文は、僕とは意見が違う。これだけ軽快に飛ばす文体の人が、「破滅型の青春の系譜」になど、乗るわけがない。僕はそう思う。
松田青子『持続可能な魂の利用』(中公文庫)は「爆弾的長編小説」だ、と斎藤は言う。
「〈この社会は、これまで「おじさん」によって運営されてきた。〉〈「おじさん」から自由になりたい。「おじさん」が決めない世界を見てみたい。「おじさん」がいなくなれば社会構造が劇的に変わるはずだ。その社会を見たい〉
そんな社会を私も見たい。鈍感な男社会の住人を粉砕する渾身の一撃だ。」
これは読まざるを得まい。
松田青子は、デビュー作品『スタッキング可能』で注目を浴びた。僕も読んでみたが、よく分からなかった。
こんどは「渾身の一撃」とあるから、ストレートに響くだろう。それとも僕の「おじさん」度がすごくて、響かなかったりして。それはそれで考えてしまう。
ともかく、すぐに読んでみよう。
今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)は、単行本で読んだ。例によって、「間違って書かれた名作童話みたいな不思議な雰囲気」があって、面白かった。
語り手の「わたし」は、近所で「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女と、友だちになりたくってしょうがない。
「女はさほど若くはなく、頬にはシミ、髪はパサパサ。公園には彼女専用のベンチがあり、町で彼女を知らない人はいない。」
「わたし」は自分の職場に、彼女を誘導する。その仕事は、ホテルの客室清掃員である。「わたし」はついに彼女と同僚になる。
しかし「わたし」の怪しさも、相当なものだ。
「語り手は『むらさきのスカートの女』に同情を寄せているのだが、『黄色いカーディガンの女』を自称する彼女自身もかなり怪しい。女の一挙手一投足を観察し、陰で世話を焼いたり気をもんだりするこの子は、いったい何者なのか。これほど近くにいながら、なぜあっちは彼女の存在に気づかないのか。透明人間なのか。まさか幽霊か。」
一言で言ってしまえば、相当に変な小説である。斎藤美奈子は、上手いことを言っている、
「ストーカーの視点で描かれた一人称小説」。後は読んでください。
宇佐見りんの『推し、燃ゆ』(河出文庫)は、近年の芥川賞では断トツで、僕は単行本で読んだ。
そうはいうものの、僕は近年の芥川賞作品をほとんど読んでいない。しかしそう言いたくなる力を、この大学生の著者は持っている。
「〈推しが燃えた。ファンを殴ったらしい〉
という一文から小説ははじまる。『推し』の名前は上野真幸。アイドルである。『まざま座』という5人グループの端っこのメンバーだ。
『あたし』こと山下あかりは16歳。真幸を『推し』に認定し、一貫して彼を応援してきた。〈アイドルのね、追っかけをしているんだって〉。〈若いからいいけど、現実の男を見なきゃあな。行き遅れちゃう〉と大人はいうが、それは違う。」
こういう話だが、この作品は断然文体が優れている。朝日新聞の、かつてあったWeb Ronzaに、そのことを書いたこともある。
「大人には理解しがたい心境である。しかし推しに対する彼女の思いは切実で、鬼気迫るものがある。〈推しは命にかかわるからね〉」。
そのことが、文体を見ればわかる。
「作者は21歳の大学生。ゆうても主人公はオタクだからベストセラーにはなりにくいかなと思いきや、すでに同世代の共感を誘っている由。これはこれで破滅型の青春の系譜に乗っているのが末おそろしい。」
最後の一文は、僕とは意見が違う。これだけ軽快に飛ばす文体の人が、「破滅型の青春の系譜」になど、乗るわけがない。僕はそう思う。
もはや中毒――『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』(斎藤美奈子)(3)
杉山春の『児童虐待から考える―社会は家族に何を強いてきたか―』(朝日新書)は、あまりに重い内容だ。
著者は児童虐待事件を専門に取材してきた人で、10年くらい前に、『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件―』 (ちくま新書)を読んだことがある。これも忘れられない内容だった。
今度の本は、たとえばこういう例が載っている。
「神奈川県厚木市のアパートで白骨化した子どもの遺体が発見された(14年5月)。5歳で死亡したとみられる男児で、父親が保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕された。母親が家を出てから2年間、父親はひとりで子どもの面倒をみてきたが、知的なハンディキャップがあり、証言は二転三転、記憶は曖昧。裁判でその点は考慮されなかった。」
やりきれない。事件が起きた後は、何をどうこうしても、どうしようもない。こういう本は正直読みたくない。
「大阪市で3歳と1歳の妹弟が50日間放置されて死亡した(10年7月)。風俗店で働く23歳の母親に非難が集まったが、彼女は幼い頃、実母のネグレクトを受けて育った。」
児童虐待は、誰もが知る通り、これが典型的なケースである。
「虐待する親には子ども時代にネグレクトや暴行を受けた人が目立つ。ある専門家の知見では、子どもを虐待死させてしまった親は〈100パーセント虐待を受けて育っている〉。」
これも、誰もが知っていることだ。
「〈子どもを虐待する親たちは、まるで難民のようだ〉と著者は書く。支援の制度はあるのに頼らない。孤立し、それでも家族にこだわり、社会との回路を断つ。問題への本質的なアプローチを試みた本。」
と書いているが、斎藤美奈子も立ち往生している。これは地域の児童相談所で、手に負えることではない。いったいどうすればよいのか。
これはもう、明石市長だった泉房穂の知恵と実行力を、日本中に知らしめるしか、方法がない。詳しくは『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』と『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』のブログに書いた。
そこでは泉房穂の指揮のもと、明石市役所の人たちが、獅子奮迅の活躍をし、育児ネグレクトを、1人の落ちこぼれもなく救おうとしている。
こういうことを、政府が全国にやらせればいいと思うのだが、自民党はやらない。国民は労働生産をし、国を守る防衛力のコマに過ぎないから、個人の面倒な不幸には、介入しないのである。かつて菅義偉首相が述べたように、まず自助努力、そしてそれだけだ。
だから、この本を読む段階は、もう過ぎている。
次は『イナカ川柳』(文藝春秋)。これは荒廃する田舎を、皮肉を込めて詠む。
ダイエーが サティになって 今イオン
郊外に 行けば行くほど ブックオフ
学校の 利権で生きてる 洋服店
店頭の カットモデルが シブガキ隊
廃校を オシャレにしたがる 仕掛け人
ラブホテル 潰れた後に ケアハウス
パチンコ屋 潰れた後は 葬儀場
霊園と 老人ホームと がんセンター
漁師町 スナック、鏡月 ハイライト
あと2日もすれば、第50回衆議院議員総選挙だ。石破総理が叫んでる、地方からの創生を成しとげたい、と。――ただ、絶句する。まさか本気ではあるまい。
著者は児童虐待事件を専門に取材してきた人で、10年くらい前に、『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件―』 (ちくま新書)を読んだことがある。これも忘れられない内容だった。
今度の本は、たとえばこういう例が載っている。
「神奈川県厚木市のアパートで白骨化した子どもの遺体が発見された(14年5月)。5歳で死亡したとみられる男児で、父親が保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕された。母親が家を出てから2年間、父親はひとりで子どもの面倒をみてきたが、知的なハンディキャップがあり、証言は二転三転、記憶は曖昧。裁判でその点は考慮されなかった。」
やりきれない。事件が起きた後は、何をどうこうしても、どうしようもない。こういう本は正直読みたくない。
「大阪市で3歳と1歳の妹弟が50日間放置されて死亡した(10年7月)。風俗店で働く23歳の母親に非難が集まったが、彼女は幼い頃、実母のネグレクトを受けて育った。」
児童虐待は、誰もが知る通り、これが典型的なケースである。
「虐待する親には子ども時代にネグレクトや暴行を受けた人が目立つ。ある専門家の知見では、子どもを虐待死させてしまった親は〈100パーセント虐待を受けて育っている〉。」
これも、誰もが知っていることだ。
「〈子どもを虐待する親たちは、まるで難民のようだ〉と著者は書く。支援の制度はあるのに頼らない。孤立し、それでも家族にこだわり、社会との回路を断つ。問題への本質的なアプローチを試みた本。」
と書いているが、斎藤美奈子も立ち往生している。これは地域の児童相談所で、手に負えることではない。いったいどうすればよいのか。
これはもう、明石市長だった泉房穂の知恵と実行力を、日本中に知らしめるしか、方法がない。詳しくは『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』と『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』のブログに書いた。
そこでは泉房穂の指揮のもと、明石市役所の人たちが、獅子奮迅の活躍をし、育児ネグレクトを、1人の落ちこぼれもなく救おうとしている。
こういうことを、政府が全国にやらせればいいと思うのだが、自民党はやらない。国民は労働生産をし、国を守る防衛力のコマに過ぎないから、個人の面倒な不幸には、介入しないのである。かつて菅義偉首相が述べたように、まず自助努力、そしてそれだけだ。
だから、この本を読む段階は、もう過ぎている。
次は『イナカ川柳』(文藝春秋)。これは荒廃する田舎を、皮肉を込めて詠む。
ダイエーが サティになって 今イオン
郊外に 行けば行くほど ブックオフ
学校の 利権で生きてる 洋服店
店頭の カットモデルが シブガキ隊
廃校を オシャレにしたがる 仕掛け人
ラブホテル 潰れた後に ケアハウス
パチンコ屋 潰れた後は 葬儀場
霊園と 老人ホームと がんセンター
漁師町 スナック、鏡月 ハイライト
あと2日もすれば、第50回衆議院議員総選挙だ。石破総理が叫んでる、地方からの創生を成しとげたい、と。――ただ、絶句する。まさか本気ではあるまい。
もはや中毒――『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』(斎藤美奈子)(2)
田中信一郎『政権交代が必要なのは、総理が嫌いだからじゃない』(現代書館)は、書名を読む限り、僕は読まない本だ。
斎藤美奈子も、これは挑発的なタイトルだというが、読んでみると意外や、かなり具体的な政策提言の書だという。
大前提は、今後の日本にとっては人口減少が避けられない、ということだ。
「2008年をピークに日本の人口は減少に転じた。この年の人口は1億2808万人。以後毎年60万人ずつ減少し、2040年以降は100万人ずつ減少する見込み。これは避けられない現実だ。ところが、現在の経済と社会のシステムは人口増加を大前提にしているため、少子化対策はことごとく的外れ。」
なるほど、前提が間違っているわけか。しかし社会活動、政治活動を行なっている、会社や政党にとって、途中で前提を変えることほど難しいことはない。立っている土台が、ぐらついてしまう。さらに場合によっては、完全に崩れてしまう。
「人口減少を前提にすれば、内需は縮小し、生産活動も縮小する。ところが、景気対策を中心に回るなど、経済政策は高度成長期の感覚のまま。」
再びなるほど、言われてみればそれはそうだ。しかし僕の場合も、言われるまでは、そうとはっきり認識していなかった。
「ここに政治を動かす制度の問題が加わる。大臣は飾り物だし、国会は内閣を制御できない仕組みだし、選挙制度は業界団体や組合などの中間団体が軸で既得権のしがらみから抜け出せない。〔中略〕
自民党ではこれらを解決するのは無理。だから政権交代が必要だという話である。」
政治が腐敗するのは政治家が悪い、となりがちだが、政治家も長年やってきて、その前提を変えろと言われても、難しいに違いない。
国民が、自民党をいったん政権党の立場から下ろしてやって、大前提を変えるために別の政党に任せてみる、とならなければ、早晩、日本は破綻する。結局すべては、国民の知恵にかかってくるわけか。
なお最後に、この著者独自の提案がある。
「人口減少時代の指針になるのは個人の幸せを重視する思想を持った現行憲法だ、という提言が新鮮だ。〈つまり、時代が求めているのは、憲法を具現化する経済政策なのです〉。現行憲法の使い道はかくも広い、憲法は絵に描いた餅じゃないのである。」
うーん、でもこれはそうとう政治思想史で、頭を鍛えられた人が言う言葉である。そうでない人にとっては、やっぱり描いた餅じゃないかなあ。
とは言えこの本は、読んでみることにする。
鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』も、足元が崩れていくような本である。
これは大体のところは知っていたが、こうやって理路整然と説かれてみると、やはりゾッとする。
「コロナショックとウクライナ戦争は世界の物流を変え、日本は生産資材(種や肥料など)の面で大打撃を受けた。〔中略〕野菜の自給率は80%だが、種の9割は輸入で、真の自給率は8%。卵は97%時給だが、鶏の餌のトウモロコシの自給率はほぼゼロで、ヒナもほぼ100%輸入。なのに政府の危機感もゼロ。」
政治家が危機感ゼロなのは、わかる気もする(ほんとは分かっちゃいけないのだが)。政治家は選挙で落ちれば、それまで。長期の政策を、選挙のときには訴えにくかろう。
それよりも、農林水産省や厚生労働省の官僚は、一体何をしているのだろう。これこそ国家の根幹政策として、中央官僚が、切れ目なくやり遂げなければならないものだろうに。
斎藤美奈子にとって、ということは僕にとってもショックだったのは、次のようなことだ。
「アメリカ、カナダ、EU各国などの先進諸国はコロナ前から農家を手厚く保護し、自国の食料を確保しているという指摘である。〔中略〕
アメリカは日本よりよほど『補助金漬け』だし、農家の所得に占める補助金率は日本が30%程度、英仏は90%以上。
自由競争神話に煽られている間に、畜産を含む農家の経済は疲弊し、日本の農業はとんでもないことになってしまったようだ。」
斎藤美奈子の言うように、軍備の拡張に巨費を投じている場合じゃない。
斎藤美奈子も、これは挑発的なタイトルだというが、読んでみると意外や、かなり具体的な政策提言の書だという。
大前提は、今後の日本にとっては人口減少が避けられない、ということだ。
「2008年をピークに日本の人口は減少に転じた。この年の人口は1億2808万人。以後毎年60万人ずつ減少し、2040年以降は100万人ずつ減少する見込み。これは避けられない現実だ。ところが、現在の経済と社会のシステムは人口増加を大前提にしているため、少子化対策はことごとく的外れ。」
なるほど、前提が間違っているわけか。しかし社会活動、政治活動を行なっている、会社や政党にとって、途中で前提を変えることほど難しいことはない。立っている土台が、ぐらついてしまう。さらに場合によっては、完全に崩れてしまう。
「人口減少を前提にすれば、内需は縮小し、生産活動も縮小する。ところが、景気対策を中心に回るなど、経済政策は高度成長期の感覚のまま。」
再びなるほど、言われてみればそれはそうだ。しかし僕の場合も、言われるまでは、そうとはっきり認識していなかった。
「ここに政治を動かす制度の問題が加わる。大臣は飾り物だし、国会は内閣を制御できない仕組みだし、選挙制度は業界団体や組合などの中間団体が軸で既得権のしがらみから抜け出せない。〔中略〕
自民党ではこれらを解決するのは無理。だから政権交代が必要だという話である。」
政治が腐敗するのは政治家が悪い、となりがちだが、政治家も長年やってきて、その前提を変えろと言われても、難しいに違いない。
国民が、自民党をいったん政権党の立場から下ろしてやって、大前提を変えるために別の政党に任せてみる、とならなければ、早晩、日本は破綻する。結局すべては、国民の知恵にかかってくるわけか。
なお最後に、この著者独自の提案がある。
「人口減少時代の指針になるのは個人の幸せを重視する思想を持った現行憲法だ、という提言が新鮮だ。〈つまり、時代が求めているのは、憲法を具現化する経済政策なのです〉。現行憲法の使い道はかくも広い、憲法は絵に描いた餅じゃないのである。」
うーん、でもこれはそうとう政治思想史で、頭を鍛えられた人が言う言葉である。そうでない人にとっては、やっぱり描いた餅じゃないかなあ。
とは言えこの本は、読んでみることにする。
鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』も、足元が崩れていくような本である。
これは大体のところは知っていたが、こうやって理路整然と説かれてみると、やはりゾッとする。
「コロナショックとウクライナ戦争は世界の物流を変え、日本は生産資材(種や肥料など)の面で大打撃を受けた。〔中略〕野菜の自給率は80%だが、種の9割は輸入で、真の自給率は8%。卵は97%時給だが、鶏の餌のトウモロコシの自給率はほぼゼロで、ヒナもほぼ100%輸入。なのに政府の危機感もゼロ。」
政治家が危機感ゼロなのは、わかる気もする(ほんとは分かっちゃいけないのだが)。政治家は選挙で落ちれば、それまで。長期の政策を、選挙のときには訴えにくかろう。
それよりも、農林水産省や厚生労働省の官僚は、一体何をしているのだろう。これこそ国家の根幹政策として、中央官僚が、切れ目なくやり遂げなければならないものだろうに。
斎藤美奈子にとって、ということは僕にとってもショックだったのは、次のようなことだ。
「アメリカ、カナダ、EU各国などの先進諸国はコロナ前から農家を手厚く保護し、自国の食料を確保しているという指摘である。〔中略〕
アメリカは日本よりよほど『補助金漬け』だし、農家の所得に占める補助金率は日本が30%程度、英仏は90%以上。
自由競争神話に煽られている間に、畜産を含む農家の経済は疲弊し、日本の農業はとんでもないことになってしまったようだ。」
斎藤美奈子の言うように、軍備の拡張に巨費を投じている場合じゃない。
もはや中毒――『あなたの代わりに読みました―政治から文学まで、意識高めの150冊―』(斎藤美奈子)(1)
斎藤美奈子の読書本には必ず手が出る。もはや中毒である。
「はじめに」で、斎藤はこう述べている。
「本書はいつか読むかもしれない(がたぶん読まない)教養書ではなく『いま起きていること』を知るための、同時代の本を取り上げている。」
この辺は、僕とは微妙にズレるけれど、でも完全に一致していると、そもそも読む必要がない。
またこんなことも言う。
「お忙しいみなさまの代わりに、とりあえず話題の本、気になる本を読んでみました。〔中略〕気分はほとんど読書代行業。」
なるほど、だからどうでもよい本が入っているのだ。
そして最後をこんなふうに締める。
「読書は昨日を省み、明日を生きるための糧である。」
そうも言えるが、肝心のことが抜けている。僕の場合は、「今という時」を読書で満たさないと、どうにも退屈で困ってしまうのだ。
この本は全体が3部に別れている。「Ⅰ 現代社会を深堀すれば」「Ⅱ 文芸書から社会が見える」「Ⅲ 文化と暮らしと芸能と」。そしてそれぞれ、4つ、5つの章見出しが付いている。
最初は菅直人『東電福島原発事故』(幻冬社新書)。これは当時の菅首相の、3月11日から18日までの動きを中心とした手記である。
巷間言われているのとは違って、菅直人でなければ、ということは「官邸の過剰な介入」がなければ、事態はより悪化していた可能性が高い、と述べる。
これはそうであろう。菅直人は、原発に巣食う有象無象によって、排斥されたのだ。
「政権末期の菅直人が浜岡原発の再稼働に強力に抵抗し、脱原発に舵を切ろうとした……〔中略〕しかし、まさに脱原発を標榜したゆえ、彼は首相の座から追い落とされたのだ(と思う)。菅直人は敗軍の将である。しかし、誰がやっても敗軍の将にならざるを得ないのが『原子炉との戦い』だ。相変わらず神風を信じている人がいっぱいのこの国って何だろうと思う。」
「神風を信じている」人間がいっぱいいるとは、限らない。この先、原発事故が起こっても、自分は安全なところにいる、と信じられる人間がいるのだ。
菅直人は、首相を辞めてから3年くらいして、僕が属している勉強会の講演に呼んだ。100人くらいの聴衆で、司会は僕がやった。菅さんはそこで、原発は絶対にダメだ、そのことのみを語った。
次は安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)。こういう本は、絶対に読まない。読まない理由はいろいろあるが、それを書いてるうちに、不愉快になるので書かない。だけど斎藤美奈子が、こういう本を取り上げれば、必ず読む。
その結びの部分。
「かつては歴然と差があった右翼とネトウヨの境界線も失われ、いまや差別的、排他的な気分が日本中を覆い尽くす。『制服の右翼』はもう必要ない。なぜってもう日本中が極右な空気の中にいるから! ゾッとしない話だけれど、〈私たちは右翼の大海原で生きている〉といわれると、否定できない。息苦しいはずだわ。」
こういう本は動向を知っておく必要はある。「読書代行業」、齋藤美奈子の面目躍如である。
「はじめに」で、斎藤はこう述べている。
「本書はいつか読むかもしれない(がたぶん読まない)教養書ではなく『いま起きていること』を知るための、同時代の本を取り上げている。」
この辺は、僕とは微妙にズレるけれど、でも完全に一致していると、そもそも読む必要がない。
またこんなことも言う。
「お忙しいみなさまの代わりに、とりあえず話題の本、気になる本を読んでみました。〔中略〕気分はほとんど読書代行業。」
なるほど、だからどうでもよい本が入っているのだ。
そして最後をこんなふうに締める。
「読書は昨日を省み、明日を生きるための糧である。」
そうも言えるが、肝心のことが抜けている。僕の場合は、「今という時」を読書で満たさないと、どうにも退屈で困ってしまうのだ。
この本は全体が3部に別れている。「Ⅰ 現代社会を深堀すれば」「Ⅱ 文芸書から社会が見える」「Ⅲ 文化と暮らしと芸能と」。そしてそれぞれ、4つ、5つの章見出しが付いている。
最初は菅直人『東電福島原発事故』(幻冬社新書)。これは当時の菅首相の、3月11日から18日までの動きを中心とした手記である。
巷間言われているのとは違って、菅直人でなければ、ということは「官邸の過剰な介入」がなければ、事態はより悪化していた可能性が高い、と述べる。
これはそうであろう。菅直人は、原発に巣食う有象無象によって、排斥されたのだ。
「政権末期の菅直人が浜岡原発の再稼働に強力に抵抗し、脱原発に舵を切ろうとした……〔中略〕しかし、まさに脱原発を標榜したゆえ、彼は首相の座から追い落とされたのだ(と思う)。菅直人は敗軍の将である。しかし、誰がやっても敗軍の将にならざるを得ないのが『原子炉との戦い』だ。相変わらず神風を信じている人がいっぱいのこの国って何だろうと思う。」
「神風を信じている」人間がいっぱいいるとは、限らない。この先、原発事故が起こっても、自分は安全なところにいる、と信じられる人間がいるのだ。
菅直人は、首相を辞めてから3年くらいして、僕が属している勉強会の講演に呼んだ。100人くらいの聴衆で、司会は僕がやった。菅さんはそこで、原発は絶対にダメだ、そのことのみを語った。
次は安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)。こういう本は、絶対に読まない。読まない理由はいろいろあるが、それを書いてるうちに、不愉快になるので書かない。だけど斎藤美奈子が、こういう本を取り上げれば、必ず読む。
その結びの部分。
「かつては歴然と差があった右翼とネトウヨの境界線も失われ、いまや差別的、排他的な気分が日本中を覆い尽くす。『制服の右翼』はもう必要ない。なぜってもう日本中が極右な空気の中にいるから! ゾッとしない話だけれど、〈私たちは右翼の大海原で生きている〉といわれると、否定できない。息苦しいはずだわ。」
こういう本は動向を知っておく必要はある。「読書代行業」、齋藤美奈子の面目躍如である。
これは凝った作りだ――『いまだ成らず―羽生善治の譜―』(鈴木忠平)(4)
第7章の深浦康市は、羽生よりも2歳年下で、いわゆる「羽生世代」には入っていない。
1990年代から2000年代にかけて、タイトルを争うということは、羽生善治と戦うことを意味していた。
しかしどの棋戦においても、羽生と戦うまでに、「羽生世代」の森内俊之や佐藤康光といった強豪が立ちはだかっていて、タイトルに挑戦するところまでも行かなかった。
唯一、深浦が24歳のとき、第37期王位戦で羽生に挑戦したが、だめだった。
このときのクラスは、いちばん下のC級2組で、タイトルに挑戦するだけでも、才能の片鱗は示している。
敗れた後、またチャンスはあるだろうと考えていたが、その後十年以上、タイトルに出ることすらかなわなかった。
だから深浦35歳、第48期王位戦、3勝3敗で第7局を迎えた朝は、これが最後のチャンスかもしれない、これでだめならもう……、という思いが胸をよぎった。
深浦は不思議な棋士である。私だけでなく、多くの人がそう思っている。対羽生戦ではこのときまで、ほぼ互角の戦績を残している。
じつは藤井聡太に対しても、2021年の段階で3勝1敗と勝ち越している。棋士のほぼ全員が負け越している中で、これは燦然と輝く戦績である。
藤井聡太があまりに負けないので、これは人間ではない、どこかの星からやって来た将棋星人である、という噂が、笑い話としてひそかに流れたことがある。年間勝率8割を超える棋士というのが、考えられないことなのだ。
そのとき、地球にある8つの冠(8大タイトル)を防衛すべく、先頭に立って戦うのに深浦がふさわしい、ということになった。これが地球防衛隊長・深浦康市の謂われである。
第48期王位戦第7局目は、2日目の夜になっていた。羽生はどこまでも曲線的に指してくる。羽生マジックが出やすい時間でもある。
しかし深浦は、勝利の尻尾を捕まえていた。
「今度こそ勝てる――。
再び鼓動が早鐘を打ち始めた。見えなくなっていた希望が再び姿を現したのだ。
その一方、胸の奥底で頭をもたげる感情があった。羽生がさらにそれを超える手を指してくるのではないか……。また信じられないようなことが起こるのではないか……。わずかな時間であるはずの手番の間がずいぶんと長く感じられた。深浦は最後の最後まで羽生マジックの幻想と戦わなければならなかった。」
深浦は自分の迷いに耐えて、ようやく羽生に勝ったのである。
第8章の渡辺明は、第21期竜王戦を舞台に、羽生との死闘を振り返ったものである。
この竜王戦は「百年に一度の大勝負」と言われ、渡辺が連続5期で初代永世竜王になるか、羽生がタイトルを奪って史上初の永世七冠を達成するか、つまり、ともに永世称号をかけた戦いだった。
7連戦は初めから、一方的に羽生の3連勝で推移する。タイトル戦で、3連敗から逆転で4連勝した者は、これまで将棋史上1人もいない。
第4局目も圧倒的に不利で、渡辺は「ああ、負けたな……」と思った。
ところが羽生は、なかなか指さない。勝利を前に、最後の確認をしているかのようだった。そこにスキとも言えないスキがあった。
「羽生が水を飲み、次の手を指すまで、時間にして一分と数十秒だっただろうか。そのわずかな間が追い詰められていた渡辺の頭に思考の猶予を与えた。ストレート負けでの失冠を覚悟していた渡辺はもう一度、盤面を見つめ直してみた。〔中略〕
脳裏に閃光のようなものが走ったのはその瞬間だった。自ら敗北への道筋を読み進めていった渡辺は息を呑んだ。行き着いた先に『うち歩詰め』がある――。」
まったく劇的な幕切れだった。
これを解説していた谷川浩司が、これはひょっとすると渡辺さんにとって、人生を変える一手になるかもしれない、と言ったのを、私は憶えている。
このクラスになると、一手の違いが、どんなふうに棋士の運命を左右するか、分かるのだろう。常人には計り知れない境地だ。
このあと渡辺は4勝して、初代永世竜王になった。
この本、『いまだ成らず―羽生善治の譜―』は奥が深い。羽生を中心にした昭和・平成の将棋界は、羽生世代が席巻していた。それが一通り決着がついたので、本にした。全体の骨格はそういうことである。
決着を付けに来たのは、八冠王(今は七冠王)となった藤井聡太である。つまりこの本の影の主役は、藤井聡太なのである。
しかし羽生世代の活躍は終わっても、羽生善治の活躍は終わらない。それがつまり、各章の冒頭に配された物語であり、だから題名は、「いまだ成らず」なのである。
この本は続けて2度読んだ。2回目の方が、いっそうコクがあった。
(『いまだ成らず―羽生善治の譜―』鈴木忠平、文藝春秋、2024年5月30日初刷)
1990年代から2000年代にかけて、タイトルを争うということは、羽生善治と戦うことを意味していた。
しかしどの棋戦においても、羽生と戦うまでに、「羽生世代」の森内俊之や佐藤康光といった強豪が立ちはだかっていて、タイトルに挑戦するところまでも行かなかった。
唯一、深浦が24歳のとき、第37期王位戦で羽生に挑戦したが、だめだった。
このときのクラスは、いちばん下のC級2組で、タイトルに挑戦するだけでも、才能の片鱗は示している。
敗れた後、またチャンスはあるだろうと考えていたが、その後十年以上、タイトルに出ることすらかなわなかった。
だから深浦35歳、第48期王位戦、3勝3敗で第7局を迎えた朝は、これが最後のチャンスかもしれない、これでだめならもう……、という思いが胸をよぎった。
深浦は不思議な棋士である。私だけでなく、多くの人がそう思っている。対羽生戦ではこのときまで、ほぼ互角の戦績を残している。
じつは藤井聡太に対しても、2021年の段階で3勝1敗と勝ち越している。棋士のほぼ全員が負け越している中で、これは燦然と輝く戦績である。
藤井聡太があまりに負けないので、これは人間ではない、どこかの星からやって来た将棋星人である、という噂が、笑い話としてひそかに流れたことがある。年間勝率8割を超える棋士というのが、考えられないことなのだ。
そのとき、地球にある8つの冠(8大タイトル)を防衛すべく、先頭に立って戦うのに深浦がふさわしい、ということになった。これが地球防衛隊長・深浦康市の謂われである。
第48期王位戦第7局目は、2日目の夜になっていた。羽生はどこまでも曲線的に指してくる。羽生マジックが出やすい時間でもある。
しかし深浦は、勝利の尻尾を捕まえていた。
「今度こそ勝てる――。
再び鼓動が早鐘を打ち始めた。見えなくなっていた希望が再び姿を現したのだ。
その一方、胸の奥底で頭をもたげる感情があった。羽生がさらにそれを超える手を指してくるのではないか……。また信じられないようなことが起こるのではないか……。わずかな時間であるはずの手番の間がずいぶんと長く感じられた。深浦は最後の最後まで羽生マジックの幻想と戦わなければならなかった。」
深浦は自分の迷いに耐えて、ようやく羽生に勝ったのである。
第8章の渡辺明は、第21期竜王戦を舞台に、羽生との死闘を振り返ったものである。
この竜王戦は「百年に一度の大勝負」と言われ、渡辺が連続5期で初代永世竜王になるか、羽生がタイトルを奪って史上初の永世七冠を達成するか、つまり、ともに永世称号をかけた戦いだった。
7連戦は初めから、一方的に羽生の3連勝で推移する。タイトル戦で、3連敗から逆転で4連勝した者は、これまで将棋史上1人もいない。
第4局目も圧倒的に不利で、渡辺は「ああ、負けたな……」と思った。
ところが羽生は、なかなか指さない。勝利を前に、最後の確認をしているかのようだった。そこにスキとも言えないスキがあった。
「羽生が水を飲み、次の手を指すまで、時間にして一分と数十秒だっただろうか。そのわずかな間が追い詰められていた渡辺の頭に思考の猶予を与えた。ストレート負けでの失冠を覚悟していた渡辺はもう一度、盤面を見つめ直してみた。〔中略〕
脳裏に閃光のようなものが走ったのはその瞬間だった。自ら敗北への道筋を読み進めていった渡辺は息を呑んだ。行き着いた先に『うち歩詰め』がある――。」
まったく劇的な幕切れだった。
これを解説していた谷川浩司が、これはひょっとすると渡辺さんにとって、人生を変える一手になるかもしれない、と言ったのを、私は憶えている。
このクラスになると、一手の違いが、どんなふうに棋士の運命を左右するか、分かるのだろう。常人には計り知れない境地だ。
このあと渡辺は4勝して、初代永世竜王になった。
この本、『いまだ成らず―羽生善治の譜―』は奥が深い。羽生を中心にした昭和・平成の将棋界は、羽生世代が席巻していた。それが一通り決着がついたので、本にした。全体の骨格はそういうことである。
決着を付けに来たのは、八冠王(今は七冠王)となった藤井聡太である。つまりこの本の影の主役は、藤井聡太なのである。
しかし羽生世代の活躍は終わっても、羽生善治の活躍は終わらない。それがつまり、各章の冒頭に配された物語であり、だから題名は、「いまだ成らず」なのである。
この本は続けて2度読んだ。2回目の方が、いっそうコクがあった。
(『いまだ成らず―羽生善治の譜―』鈴木忠平、文藝春秋、2024年5月30日初刷)
これは凝った作りだ――『いまだ成らず―羽生善治の譜―』(鈴木忠平)(3)
第5章から第7章までの森内俊之、佐藤康光、深浦康市は、彼らが羽生とどう戦ったか、の話である。
羽生は歴代ナンバーワンで、タイトルを99個とっている。現役で言えば、その次は渡辺明だが、31個とだいぶ差がつく。つまり羽生がタイトルを獲っている間は、相手方はそれだけ負け続けていたわけだ。
森内俊之の場合、第54期名人戦で敗北した後で。
「翌朝、森内は愛知県蒲郡市の銀波荘からどのように帰ったのが、ほとんど覚えていなかった。〔中略〕帰路にどんな景色を目にしたのか、そのあたりの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。残っているのはただ、詰みだと確信した瞬間から敗局に足を踏み入れたという、あの信じ難い盤面のみだった。
このままでは勝てない……。
それが初めてのタイトル戦で羽生と戦って得た実感だった。同い年の七冠王とは決定的な差があることを思い知った。」
森内はそれまで完璧主義だった。しかしその後、定跡を隅々まで研究することを辞めた。感覚、感性に従って、指したい手を指すようになった。
森内は7年後、第16期竜王戦で、羽生に4連勝した。初めてタイトル戦で羽生を破ったとき、33歳になっていた。
しかし森内は、羽生よりも早く永世名人になっている。羽生に対する苦手意識は、完全に払拭したのだ。その苦闘がどのようなものであったか。
森内は永世名人になり、その後、名人を手放した後で、フリークラスになっている。羽生との死闘が、どのようなものであったか。それに一応の決着が着いたとき、森内は順位戦から自由になったのだ。あるいは見方を変えれば、燃え尽きたのだ。
第6章の佐藤康光は、「圧倒的な集中力で王道を進むエリート」で、得意なのは「将棋の純文学」と謳われた矢倉囲いだった。
佐藤は始めは関西奨励会で、途中で関東奨励会に移った。関西の関係者は「名人候補を東京に取られた」と言って悔しがったという。
「そんな佐藤がどうしても破れない壁があった。羽生善治である。二十代前半から同世代の二人はたびたびタイトルをかけて戦うようになったが、佐藤はことごとく敗れた。とりわけ二十代前半からはまったくと言っていいほど勝てなくなり、対羽生戦の連敗は伸びていた。棋力でそれほどの差はないと見られる両者の戦績がなぜこれほど偏るのか……。」
連敗に次ぐ連敗を重ねた後、佐藤康光は、ある境地に立った。それは、すべては疑い得る、自分が自信を持って指した手ですら、というマルクスの教えだった。
佐藤はその後、自分が試したい手を指すようになった。正解も不正解もなく、ただ探求のみがあった。そういうおのれを信じて、ついに8年振りに、王将戦に勝つことができた。
「その後、佐藤は新手メーカーとして知られるようになった。年齢を重ねるにつれて新たな手の発見をモチベーションとするようになり、独創的な手を生み出した棋士に贈られる『升田幸三賞』も手にした。」
ひところの佐藤康光の指す将棋は、まるでモダンアートのようだ、と羽生が言ったことがある。佐藤にしてみたら、これが棋理に適っているというのだが。
AIが導入される直前、佐藤将棋が一世を風靡したのは、将棋の歴史としては大変面白いことだ。
羽生は歴代ナンバーワンで、タイトルを99個とっている。現役で言えば、その次は渡辺明だが、31個とだいぶ差がつく。つまり羽生がタイトルを獲っている間は、相手方はそれだけ負け続けていたわけだ。
森内俊之の場合、第54期名人戦で敗北した後で。
「翌朝、森内は愛知県蒲郡市の銀波荘からどのように帰ったのが、ほとんど覚えていなかった。〔中略〕帰路にどんな景色を目にしたのか、そのあたりの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。残っているのはただ、詰みだと確信した瞬間から敗局に足を踏み入れたという、あの信じ難い盤面のみだった。
このままでは勝てない……。
それが初めてのタイトル戦で羽生と戦って得た実感だった。同い年の七冠王とは決定的な差があることを思い知った。」
森内はそれまで完璧主義だった。しかしその後、定跡を隅々まで研究することを辞めた。感覚、感性に従って、指したい手を指すようになった。
森内は7年後、第16期竜王戦で、羽生に4連勝した。初めてタイトル戦で羽生を破ったとき、33歳になっていた。
しかし森内は、羽生よりも早く永世名人になっている。羽生に対する苦手意識は、完全に払拭したのだ。その苦闘がどのようなものであったか。
森内は永世名人になり、その後、名人を手放した後で、フリークラスになっている。羽生との死闘が、どのようなものであったか。それに一応の決着が着いたとき、森内は順位戦から自由になったのだ。あるいは見方を変えれば、燃え尽きたのだ。
第6章の佐藤康光は、「圧倒的な集中力で王道を進むエリート」で、得意なのは「将棋の純文学」と謳われた矢倉囲いだった。
佐藤は始めは関西奨励会で、途中で関東奨励会に移った。関西の関係者は「名人候補を東京に取られた」と言って悔しがったという。
「そんな佐藤がどうしても破れない壁があった。羽生善治である。二十代前半から同世代の二人はたびたびタイトルをかけて戦うようになったが、佐藤はことごとく敗れた。とりわけ二十代前半からはまったくと言っていいほど勝てなくなり、対羽生戦の連敗は伸びていた。棋力でそれほどの差はないと見られる両者の戦績がなぜこれほど偏るのか……。」
連敗に次ぐ連敗を重ねた後、佐藤康光は、ある境地に立った。それは、すべては疑い得る、自分が自信を持って指した手ですら、というマルクスの教えだった。
佐藤はその後、自分が試したい手を指すようになった。正解も不正解もなく、ただ探求のみがあった。そういうおのれを信じて、ついに8年振りに、王将戦に勝つことができた。
「その後、佐藤は新手メーカーとして知られるようになった。年齢を重ねるにつれて新たな手の発見をモチベーションとするようになり、独創的な手を生み出した棋士に贈られる『升田幸三賞』も手にした。」
ひところの佐藤康光の指す将棋は、まるでモダンアートのようだ、と羽生が言ったことがある。佐藤にしてみたら、これが棋理に適っているというのだが。
AIが導入される直前、佐藤将棋が一世を風靡したのは、将棋の歴史としては大変面白いことだ。
これは凝った作りだ――『いまだ成らず―羽生善治の譜―』(鈴木忠平)(2)
「第4章 夜明けの一手」の主人公は谷川浩司。谷川王将は、羽生の、史上初の全七冠がかかった最後の王将戦で、これを阻止した。
この年は阪神・淡路大震災が起こり、神戸に居所を構える谷川も被災した。こういうときは、ぎりぎりに身を置いた方が勝つ。
しかし恐ろしいことに、羽生はその翌年も、六冠のタイトルを全部勝って、再び七冠をかけて谷川と激突したのだ。
こんどは谷川が王将位を失い、羽生が初の七冠制覇を成し遂げた。谷川は、羽生に苦手意識を持っており、それを払拭できなかった。
羽生はこの1年、6つのタイトルを守るうえで、信じられないような逆転劇を何度も起こしていた。
名人戦では28歳の実力者、森下卓が、間違いなく手中に収めていた勝ちを、ミスで逃した。森下はついに、他のタイトルも獲得することはなかった。
王座戦では「終盤の魔術師」、森雞二が、即詰みを逃していた。
そんなことを何度も起こすとは、奇蹟としか言いようがない。
「谷川には分かっていた。それも羽生の強さなのだ。羽生と盤を挟んで向かい合った者は終始、重圧を受け続ける。難解な迷路に誘い込むような手を指されると、その正解が羽生にだけ見えているように感じてしまう。指し間違えてはならないと考え続けた挙句、最終盤で自分でも信じられないようなミスや見落としをしてしまう。」
このときの外から見た羽生善治は、そっくりそのまま、現在の藤井聡太に置き換えられるだろう。どの時代においても、1人の覇者を見つめる集団は、このようなものなのだろう。
いや、どの時代においてもというのは、まちがっているかもしれない。大山康晴、羽生善治、藤井聡太のときだけが、そういうことなのかもしれない。
谷川浩司は、羽生を苦手とする長いスランプを抜けて、第9期竜王戦で、羽生に一度も敗れることなく、4連勝でタイトルを奪取した。
谷川のそのドラマは、著者の鈴木忠平の、想像力と創作力によるものだろう。それは読んでいただきたい。
この章は谷川浩司の幼少期から、初めて名人を獲るところまでをも描いて、谷川浩司論としても優れている。
「第5章 王将の座」の主役は森内俊之。
しかしこの章の前段の、藤井聡太と羽生善治の「第72期王将戦、第4局2日目」に、注目すべきことが書いてある。
「藤井さんの登場以前は、将棋は間違えるものだった。最後に間違えない人が勝つと考えられていた。ところが、藤井さんは一度も間違えることなく勝ってしまう。たとえ一手であろうとその優位を生かし切ることができる。そんな棋士が現れたこと自体が驚きです。」
これはインターネットのテレビ中継で、解説の棋士が語っていた言葉である。
人間はまちがえる動物である、という大山名人のテーゼが、通用しない棋士が現われたのだ。
しかし本当のところを言えば、それはちょっと違う。藤井聡太は確かに初手から最終手まで、1度もミスをしないことも多い。でもミスをするときもある。ただそれが、非常に少ないのだ。
しかもそれが、ほんのわずかなミス、致命傷にならないミスなのだ。相手はそのミスを、傷口を開けるように、じわじわと拡大するしかない。
なんだ、結局どうやっても、藤井聡太には勝てないんじゃないか、と言われるが、それは違う。ミスをしない完璧な藤井と、ほんのわずかなミスをする藤井、この差はとてつもなく大きい。
そこを突いて伊藤匠は藤井聡太から、叡王のタイトルを獲り、八冠の一角を崩したのだ。
とまあ、分かったようなことをほざいていますが、実際の棋戦になると、ほとんど雲の上の話ですね。まったく分かりません。
それはそうだ。羽生と藤井の解説をしているプロの高段者が、え、え、よくわかりません、となるから、テレビを見ている全員が、分かっていない。それでも、藤井聡太の将棋が面白い、というのはなぜなんだ。
この年は阪神・淡路大震災が起こり、神戸に居所を構える谷川も被災した。こういうときは、ぎりぎりに身を置いた方が勝つ。
しかし恐ろしいことに、羽生はその翌年も、六冠のタイトルを全部勝って、再び七冠をかけて谷川と激突したのだ。
こんどは谷川が王将位を失い、羽生が初の七冠制覇を成し遂げた。谷川は、羽生に苦手意識を持っており、それを払拭できなかった。
羽生はこの1年、6つのタイトルを守るうえで、信じられないような逆転劇を何度も起こしていた。
名人戦では28歳の実力者、森下卓が、間違いなく手中に収めていた勝ちを、ミスで逃した。森下はついに、他のタイトルも獲得することはなかった。
王座戦では「終盤の魔術師」、森雞二が、即詰みを逃していた。
そんなことを何度も起こすとは、奇蹟としか言いようがない。
「谷川には分かっていた。それも羽生の強さなのだ。羽生と盤を挟んで向かい合った者は終始、重圧を受け続ける。難解な迷路に誘い込むような手を指されると、その正解が羽生にだけ見えているように感じてしまう。指し間違えてはならないと考え続けた挙句、最終盤で自分でも信じられないようなミスや見落としをしてしまう。」
このときの外から見た羽生善治は、そっくりそのまま、現在の藤井聡太に置き換えられるだろう。どの時代においても、1人の覇者を見つめる集団は、このようなものなのだろう。
いや、どの時代においてもというのは、まちがっているかもしれない。大山康晴、羽生善治、藤井聡太のときだけが、そういうことなのかもしれない。
谷川浩司は、羽生を苦手とする長いスランプを抜けて、第9期竜王戦で、羽生に一度も敗れることなく、4連勝でタイトルを奪取した。
谷川のそのドラマは、著者の鈴木忠平の、想像力と創作力によるものだろう。それは読んでいただきたい。
この章は谷川浩司の幼少期から、初めて名人を獲るところまでをも描いて、谷川浩司論としても優れている。
「第5章 王将の座」の主役は森内俊之。
しかしこの章の前段の、藤井聡太と羽生善治の「第72期王将戦、第4局2日目」に、注目すべきことが書いてある。
「藤井さんの登場以前は、将棋は間違えるものだった。最後に間違えない人が勝つと考えられていた。ところが、藤井さんは一度も間違えることなく勝ってしまう。たとえ一手であろうとその優位を生かし切ることができる。そんな棋士が現れたこと自体が驚きです。」
これはインターネットのテレビ中継で、解説の棋士が語っていた言葉である。
人間はまちがえる動物である、という大山名人のテーゼが、通用しない棋士が現われたのだ。
しかし本当のところを言えば、それはちょっと違う。藤井聡太は確かに初手から最終手まで、1度もミスをしないことも多い。でもミスをするときもある。ただそれが、非常に少ないのだ。
しかもそれが、ほんのわずかなミス、致命傷にならないミスなのだ。相手はそのミスを、傷口を開けるように、じわじわと拡大するしかない。
なんだ、結局どうやっても、藤井聡太には勝てないんじゃないか、と言われるが、それは違う。ミスをしない完璧な藤井と、ほんのわずかなミスをする藤井、この差はとてつもなく大きい。
そこを突いて伊藤匠は藤井聡太から、叡王のタイトルを獲り、八冠の一角を崩したのだ。
とまあ、分かったようなことをほざいていますが、実際の棋戦になると、ほとんど雲の上の話ですね。まったく分かりません。
それはそうだ。羽生と藤井の解説をしているプロの高段者が、え、え、よくわかりません、となるから、テレビを見ている全員が、分かっていない。それでも、藤井聡太の将棋が面白い、というのはなぜなんだ。
これは凝った作りだ――『いまだ成らず―羽生善治の譜―』(鈴木忠平)(1)
著者の鈴木忠平は、『嫌われた監督―落合博満は中日をどう変えたのか―』で、大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞、講談社本田靖春ノンフィクション賞と、初めて三冠を同時受賞した。
このときは、文体がやや鼻につくが、中身が面白いので、途中からそんなことは気にならなくなった。
今度は将棋で、構成も凝っている。全部で9章まであって、それぞれ章見出しの前に、羽生善治の物語が入っている。
それは羽生が、A級からB級に落ちるところから始まり、やがて王将戦の挑戦者に名乗りを上げ、そして時の五冠王・藤井聡太王将相手に、息詰まる戦いを見せるのだが、結局は2勝4敗で敗れ去ってしまう。
そういう、ほとんど同時進行の物語が、各章の話とは別に、挿入されている。
各章の目次を挙げ、その章の主人公を挙げておく。
第1章 時代の声 (米長邦雄)
第2章 土曜日の少年 (八王子将棋クラブ主宰・八木下征男、少年時代の羽生善
治)
第3章 人が生み出すもの (豊島将之)
第4章 夜明けの一手 (谷川浩司)
第5章 王将の座 (森内俊之)
第6章 マルクスの長考 (佐藤康光)
第7章 点が与えしもの (深浦康市)
第8章 敗北の意味 (渡辺明)
終 章 終わりなき春 (その後の羽生善治)
こう見てくると、これらの棋士については、こういうことが書いてあるんだろうな、と見当のつくものもある。
しかしだからと言って、読まずにすますわけにはいかない。なんどでも読んでしまう。そこが、棋士を主役にした物語の、不思議なところである。
第1章の主人公は米長邦雄。話の視点は、毎日新聞学芸部の将棋担当、山村英樹から見ている。
ただ一度の名人就位式で、米長は「来年はあれが出てくるんじゃないか」と、会場にいた羽生を指して言う。そして確かに羽生は、挑戦者に名乗りを上げ、そのまま名人位を奪取する。
壇上から羽生を、挑戦者と名指した米長は、「時代の声」を正確に聞いていたのではないか、山村記者はそう思う。
第3章の豊島将之は、西の天才として順位戦を駆け上がってきたが、タイトルには手が届かなかった。羽生善治という、長く君臨する覇者がいたからである。
そこで豊島は、それまでの研究会を断って、AIだけを相手に、技量を磨き続けた。
これは有名な話なので、知らない人はいないだろう。
ただAIを相手にする前に、齋藤慎太郎と長年、研究会をしていたことは知らなかった。
研究会ということでは、藤井聡太と永瀬拓矢が有名である。これは永瀬が藤井に、研究会を申し入れたということである。
永瀬拓矢は当時、若手の有望株。藤井聡太はプロになったばかりの中学生。しかし中学生が、アベマTVで「炎の七番勝負」を戦い、羽生をはじめプロの高段者に、6勝1敗と圧勝したのだ。
その1敗が永瀬拓矢だ、というのがおかしい。勝った永瀬のみが、藤井聡太の稀に見る才能を見出した。
しかも「炎の七番勝負」は、ある高段者が相手役を下りてしまい、永瀬は代役だったという。
藤井との研究会を経て、永瀬は王座のタイトルを得た。まことに人の運命は数奇なものという以外にない。
このときは、文体がやや鼻につくが、中身が面白いので、途中からそんなことは気にならなくなった。
今度は将棋で、構成も凝っている。全部で9章まであって、それぞれ章見出しの前に、羽生善治の物語が入っている。
それは羽生が、A級からB級に落ちるところから始まり、やがて王将戦の挑戦者に名乗りを上げ、そして時の五冠王・藤井聡太王将相手に、息詰まる戦いを見せるのだが、結局は2勝4敗で敗れ去ってしまう。
そういう、ほとんど同時進行の物語が、各章の話とは別に、挿入されている。
各章の目次を挙げ、その章の主人公を挙げておく。
第1章 時代の声 (米長邦雄)
第2章 土曜日の少年 (八王子将棋クラブ主宰・八木下征男、少年時代の羽生善
治)
第3章 人が生み出すもの (豊島将之)
第4章 夜明けの一手 (谷川浩司)
第5章 王将の座 (森内俊之)
第6章 マルクスの長考 (佐藤康光)
第7章 点が与えしもの (深浦康市)
第8章 敗北の意味 (渡辺明)
終 章 終わりなき春 (その後の羽生善治)
こう見てくると、これらの棋士については、こういうことが書いてあるんだろうな、と見当のつくものもある。
しかしだからと言って、読まずにすますわけにはいかない。なんどでも読んでしまう。そこが、棋士を主役にした物語の、不思議なところである。
第1章の主人公は米長邦雄。話の視点は、毎日新聞学芸部の将棋担当、山村英樹から見ている。
ただ一度の名人就位式で、米長は「来年はあれが出てくるんじゃないか」と、会場にいた羽生を指して言う。そして確かに羽生は、挑戦者に名乗りを上げ、そのまま名人位を奪取する。
壇上から羽生を、挑戦者と名指した米長は、「時代の声」を正確に聞いていたのではないか、山村記者はそう思う。
第3章の豊島将之は、西の天才として順位戦を駆け上がってきたが、タイトルには手が届かなかった。羽生善治という、長く君臨する覇者がいたからである。
そこで豊島は、それまでの研究会を断って、AIだけを相手に、技量を磨き続けた。
これは有名な話なので、知らない人はいないだろう。
ただAIを相手にする前に、齋藤慎太郎と長年、研究会をしていたことは知らなかった。
研究会ということでは、藤井聡太と永瀬拓矢が有名である。これは永瀬が藤井に、研究会を申し入れたということである。
永瀬拓矢は当時、若手の有望株。藤井聡太はプロになったばかりの中学生。しかし中学生が、アベマTVで「炎の七番勝負」を戦い、羽生をはじめプロの高段者に、6勝1敗と圧勝したのだ。
その1敗が永瀬拓矢だ、というのがおかしい。勝った永瀬のみが、藤井聡太の稀に見る才能を見出した。
しかも「炎の七番勝負」は、ある高段者が相手役を下りてしまい、永瀬は代役だったという。
藤井との研究会を経て、永瀬は王座のタイトルを得た。まことに人の運命は数奇なものという以外にない。