誰が書いたかは問題ではない――『黒い雨』(井伏鱒二)(2)

この小説は、閑間重松の「被爆日記」が、大きな位置を占めているが、他にもいろんな人の手記が入っている。ほとんどその寄せ集めと言ってもいい。
 
最初は矢須子の、8月6日の日記である。のちに8月6日を思い出して、書いたのである。

「私はおじさんに云われて、自分が泥の跳ねのようなものを浴びているのを知った。白い半袖ブラウスも同じように汚れ、その汚れているところだけ布地が傷んでいた。鏡を見ると、防空頭巾で隠されていたところ以外は同じような色で斑点になっているのが分かった。」

「跳ねのようなもの」を、どこでどう付けられたのか。そういえば「黒い雨」の夕立が、来ていたことを思い出す。

「午前十時ごろではなかったかと思う。雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降って来るのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。真夏だというのに、ぞくぞくするほど寒かった。雨はすぐ止んだ。」
 
このとき、「万年筆ぐらいな太さの棒のような雨」を浴びたものは、たとえ短い間であろうとも、原爆症にかかった。もちろん日本人の誰一人として、そんなことを知る人はいない。
 
次は閑間重松の「被爆日記」から。

「茸型の雲は、茸よりもクラゲに似た形であった。しかし、クラゲよりもまだ動物的な活力があるかのように脚を震わせて、赤、紫、藍、緑と、クラゲの頭の色を変えながら、東南に向けて蔓延〔はびこ〕っていく。ぐらぐらと煮えくり返る湯のように、中から中から湧き出しながら、猛り狂って今にも襲いかぶさってくるようである。」
 
原爆のキノコ雲、これは直接見た人の目に映ったものである。「ぐらぐらと煮えくり返る湯のように、中から中から湧き出しながら」というのは、映画やテレビの画面では、出てこない言葉である。
 
重松の「被爆日記」とは別に、妻のシゲ子の、戦時下の献立表を記録したものもある。これは原爆と直接の関係はないが、興味深い、というか面白い。

「栄養失調または寝小便する子供は、イチジクの虫、クサギの虫を醤油で附焼きにして食べさせられておりました。これは鉄砲虫の幼虫でございます。私が子供のころ、田舎では夏になるとクサギの虫を売りに来る木樵がおりまして、私も虫封じのため食べさせられたことがありました。芳ばしくて美味しかった記憶がございます。」
 
およそ80年前には、こんなものを食べていたのか。ほとんど別世界の観があるな。女性に特有の特効薬(?)もある。

「更年期障害で頭痛のする隣家の奥さんは、蟻地獄を一匹か二匹、盃の冷酒と共に吞み下して直しておりました。奇妙によく効くとのことでございました。」
 
いま蟻地獄といわれて、どんな虫か分かる人が、何人いるだろうか。このとき蟻地獄は、亭主に取ってきてもらったんだろうか。原爆とは関係ないけれど、書き留めずにはおられない。
 
ふたたび重松の『被爆日記』から。

「水道の水が出ないので、矢須子に泉水で手を洗わせたが汚れは落ちなかった。黒い雨が降った跡だと云うのだが、皮膚にぴったり着いている。コールタールでもなし、黒ペンキでもなし、為体のしれないものである。」

「黒い雨」はどれだけ擦ろうが、石鹸で洗おうが、絶対に落ちなかった。
 
近所の人はこう言った。

「『毒瓦斯じゃなくて、爆発によって発生した黒煙が、天空で雨滴に含有されて降ったんだそうです。黒い雨は主に市街の西部方面に降ったんです。たった今、そこで市役所の衛生課の人に会ったら、そう云ってました。人体に害はないそうです』
 僕は衛生課の人が云うのなら大丈夫だろうと思った。」
 
私は暗澹となり、言葉が出ない。
 
広島をさまよった記録は、『被爆日記』全体がそうであるから、引用することが出来ない。それでも、書き付けておかねばならないこともある。

「死体の恰好は千差万別だが、共通している一点は、俯伏せの姿が多すぎることである。それが八割以上を占めていた。ただ一つの例外は、白神社前停留所の安全地帯のすぐ傍に、仰向けになって両足を引きつけ膝を立て、手を斜に伸ばしている男女であった。身に一糸もまとわず黒こげの死体となって、一升枡に二杯ほどもあろうと思われる脱糞を二人とも尻の下に敷いていた。これは他では見られない光景であった。」
 
私やあなたが、このとき広島にいれば、こんなふうに亡くなることもあり得た。

誰が書いたかは問題ではない――『黒い雨』(井伏鱒二)(1)

『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』の中で、毎年8月になると、武田百合子は『黒い雨』を読んで泣くのだということを、著者の校條剛さんが書いていた。
 
校條さんは『黒い雨』を、これまで機会を逃して読んだことがなかったので、この折に読んでみたという。そして、やっぱり読んでおいてよかったという。
 
私も武田百合子、校條剛の系譜にならって、読んでみることにする。
 
私はこの本を、たまたま機会を得ずに読まないでいた、というのではない。井伏鱒二は、中学の終りか高校の初めくらいに、集中的に読んだ。そして、それ以後読んだことはない。
 
いずれも、そんなに面白くなかった。「山椒魚」「屋根の上のサワン」「夜ふけと梅の花」「鯉」、他にもいろいろあったが忘れた。どれもピントをどこに合わせていいか、よく分からなかった。
 
文章が面白いようでもあり、それほどでもないような気がして、小説の結構と文章の、どちらもよく分からなかったのである。

『黒い雨』は、また盗作騒ぎもあった。文中に使われている登場人物の日記が、盗作の疑いがあるというのだ。

『黒い雨』は原爆の話を、正面から扱っている。それなら私の世代は、映画やテレビで見て、よくわかっている。少なくとも私は、分かっているつもりだった。

すでに分かっていることを、井伏鱒二の文章で、しかも盗作の疑いもかかっているというのに、わざわざ読む必要はない。
 
とまあ、そういうふうに考えるだろう。それでこれまで敬遠してきたのだ。
 
今度読んでみて、どう思ったか。

やっぱり読んでおいてよかった、という校條さんの意見とまったく重なる。
 
はじめはよく分かっていることから始まる。それで語弊があるかもしれないが、ちょっと退屈する。しかし4分の1を超えるくらいから、もはや目が離せなくなる。
 
この小説の主人公は、閑間〔しずま〕重松と妻のシゲ子、姪の矢須子の3人である。

本文中の日記は、重松のもので、広島に原爆が落とされた8月6日から、終戦の詔勅が出た8月15日までを扱っている。

小説全体はその後も続いていく。姪の矢須子が、後に原爆症になるからである。

これは最初、『姪の結婚』という題で、雑誌『新潮』に連載されたが、齋藤十一がこれを読み、井伏さんの代表作になるから、題名を『黒い雨』に変えてもらえ、と言ったという。
 
もともと矢須子は、8月6日は、爆心地から遠くへ出張していたので、直接の被害はないはずであった。だから原爆症のことなど気にもかけずに、矢須子は結婚を心待ちにし、その縁談もまとまりかけていた。
 
そういうなかで原爆症に罹ったのだ。

矢須子は、原爆を投下された直後に広島に入り、重松やシゲ子と、そこらじゅうを歩いた。「黒い雨」に打たれ、すりむいて、手傷を負ったりした。それで後に原爆症を発症したのである。
 
やりきれない話である。そしてそのやりきれない話が、原爆投下直後から、今日に至るまで、数限りなくあるのだ。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(9)

次はこの短編集の最後、タイトルが表題作にもなっている「大聖堂」である。
 
こういう話を、どうやったら思いつくのだろうか、と僕は考える。

奥さんの友だちで、長く付き合いのある盲人がいなければ、思い付きようがない。それとも作家の才能は、その辺りまでも構想するのだろうか。
 
盲人を巡るシチュエーションは、冒頭で簡潔に説明してある。

「盲人が私のうちに泊まりに来ることになった。妻の昔からの友だちである。彼は奥さんを亡くしたばかりで、コネティカットにある彼女の親戚の家を訪ねていたのだが、そこからうちに電話がかかってきて、細かい手はずがととのえられた。彼は五時間かけて鉄道でやってきて、妻が駅まで迎えにいくことになった。」
 
この作品に対する村上春樹の評は、カーヴァーの個性も捉えて、圧巻である。

「カーヴァーの残したマスターピースのひとつ。一級の文学としての力と品位を備えた優れた作品である。非のうちどころがない、という賞賛の表現は、あるいはカーヴァーの作品にはふさわしくないかもしれないが、隅から隅まで何度読み返してみても(翻訳をしているとどうしてもそういう読み方を強要されるし、それは当然のことながら最もシビアな読み方のひとつである)いつも変わらず実に見事だと思う。」
 
そしてこの解題の最後に、「現代における優れた短篇小説の書き方を示した名篇というべきだろう」と締め括っている。

小説の具体的な内容は、解題によればこうだ。

「夫と盲人は二人で酒を飲み、マリファナを吸って、テレビを見ているうちに、少しずつ心を通じあわせることができるようになってくる。目が見えないというのがどういうことなのか、その痛みと、その痛みを越えた心のありようを、夫はわが身のこととして実感することになる。」
 
こういうふうに要約されると、なるほどそうかと思えるが、本文を読んでいるうちは、なかなかそうは思えない。
 
まして夫と妻との比較で言うならば、とても次のようには行かない。

「その実感は理性的なレベルで盲人に同情的な妻には理解することのできない、まさにフィジカルな痛みであり実感である。」
 
すごい読みである。

「大聖堂」は、盲人がテレビを見ていて(そんなことがあり得るのか!)、次のようなことを思いつく。

「ねえ、こうしよう。ひとつ頼みがあるんだ。ちょっと思いついたんだけどさ、しっかりした紙とそれからペンを持ってきてもらえないだろうか? 面白いことをやろう。二人で一緒にその絵を描いてみるのさ。ペンとしっかりした紙とを持ってきて。」
 
これから、どういうことが始まるのだろうか。

「『よろしい』と彼は言った。『これでいい。描くとしよう』
 彼はペンを持った方の私の手を探りあて、その上に自分の手をぴたりと重ねた。〔中略〕『いいから描いて。あなたの動きを追っていくから、大丈夫だよ。さあ、私の言うとおりにやってみてよ。大丈夫。さあ描いて』と彼は言った。」
 
村上春樹はここを、解題で次のように書く。

「夫と盲人が二人で手を重ねてポールペンで大聖堂の絵を描きあげていくラストシーンは見事に感動的である。カーヴァーの筆はあくまで即物的であり押しつけがましくない。そして彼の思い入れのない簡潔な言葉は人の心の核心に、ぴたりと正確に達している。」
 
そうなんだ、これも言われてみれば、そういうふうに思えてくる。特にカーヴァーの、「思い入れのない簡潔な言葉」というところ、またもや、ただうならざるを得ない。
 
全部を読み終えて、ふと気づいてみれば、僕はアメリカの〝failure〟の行く末に、第一の関心を持っているわけではない。
 
それでも、村上さんの読みを読むのが、たまらなく面白いから、カーヴァーの他の作品も読んでみよう。

というわけで、次は『愛について語るときに我々の語ること』だ。

(『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』レイモンド・カーヴァー、
 中央公論新社、2007年3月10日初刷、2010年6月10日第2刷)

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(8)

「熱」は、ホームドラマのような趣がある、と村上春樹は言う。

僕もそう思う。しかしもちろん、ホームドラマを突き抜けて面白い。
 
カーライルは高校の美術教師であり、女房が、カーライルの同僚と駆け落ちしたために、子供2人を抱え、困り果てていた。
 
最初から、抜き差しならない設定である。
 
そこへ老いたミセス・ウェブスターが、家政婦として子供の世話をしにやってくる。英語では何というか知らないが、「地獄に仏」である。彼女の心遣いは、「一家を温かく包んで」くれる。
 
しかしクリスマス休みの後、カーライルは病気になる。

「一夜のうちに(と思えた)彼の胸は固く締めつけられ、頭がずきずきと痛んだ。体の節々が石のようにこわばってしまっていた。体を動かすと眩暈がした。頭痛がだんだんひどくなってきた。」
 
ここから6ページばかりの、カーライルとミセス・ウェブスターのやり取りは、何というか行き届いていて、本当に面白い。
 
ミセス・ウェブスターの方に話があるから、それが含みになって、厚みのあるやりとりになっているのだ。
 
話は違うが、僕はたぶんコロナで、10日ばかり寝ていたので、ここのところは身につまされた。寝ていても、目を開けていると、壁や天井がモノトーンの暗い色で、ぐにゃぐにゃと迫ってくる。今も完全には抜けていない。
 
それはそうと、ミセス・ウェブスターの話は、夫と一緒にオレゴンで、ミンクの飼育場を手伝わないかというものだった。
 
カーライルに異存のあろうはずがない。というか、ウェブスター夫妻がこれからやろうとすることに、カーライルが口出しすることもない。
 
最後の場面。

「老夫婦が去っていきながら、彼の方にちょっと体を傾けるのが見えた。それから彼は腕をおろして、子供たちの方を向いた。」
 
ここを村上春樹は、深くえぐり取るように読む。

「カーライルの一家は再びそこに取り残される。しかしウェブスターさんの言葉は優しい予感として残されている。完全な十全な愛というものはこの世界にはない。しかし人はその漠然とした仮説の(あるいは記憶の)温もりを抱いて生きていくことはできるのだ。」
 
最後をどう読むかは、この場合、何通りかあるものだ。それはそうだ。

しかし村上春樹の読みを読んだ後では、ほかにどういう読み方もできない。それほど圧倒的である。

次の「轡〔くつわ〕」の原題は〝BRIDLE〟で、「馬勒〔ばろく〕」というのが正しい訳語である。しかし「馬勒」というのは、手綱、轡などの馬具一式の総称であり、これでは通じないだろうと思い「轡」と付けた、と村上さんは言う。
 
主人公は、アリゾナでモーテルの管理人をしている、中年の女だ。このモーテルは、家具付きの下宿のような役割も果たしている。僕の乏しい知識で言うと、日本のウィークリーマンションのようなものか。

そこにホリッツという一家が、ミネソタからやって来て、月極の客として滞在する。

「そこには生活でありながら生活ではないという、なにかしら暫定的な雰囲気が漂っている。そこに住む人々は旅行者ではない。しかし生活者でもない。」
 
この一家は、亭主が競走馬を育てることに入れあげて、土地その他すべてを無くしたのだ。
 
彼らはここで、何とか生活を立て直そうとする。女はウェイトレスの仕事をし、子供たちは学校に通う。
 
しかしある夜、亭主が酒でつまらない事故を起こし、それがもとでモーテルを出ていくことになる。

「私がこの小説を好きな点は、語り手の女性のホリッツ一家に対する温かい視線である。そしてホリッツの一家が落ちていきながらも四人で肩を寄せあって生きている、その奇妙な寡黙さである。彼らも、彼女も、そしてこのモーテルに住む大方の人々も、みんな多かれ少なかれ、アメリカという幻想の共同体からのfailureなのだ。」
 
本当に素晴らしい読みだ。特にホリッツ一家の、「その奇妙な寡黙さ」というところ、言われてみれば、なるほどと思えるのだが、指摘されるまでは分からない。ここはもう、ただ唸るばかりだ。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(7)

「僕とJPは、フランク・マーティン・アルコール中毒療養所のフロント・ポーチにいる。ここに入っている他の連中と同様、彼もまたとびっきりの飲んだくれだ」、という書き出しで始まる「ぼくが電話をかけている場所」は、村上春樹が、この短篇集でも白眉として推すものだ。

「ヘミングウェイやフィッツジェラルドのいくつかの短篇が時代を超えた古典として長く読みつがれているのと同じように、これから読みつがれていく作品のひとつになるだろうと思う。」
 
村上さんはそういう。
 
僕はこの意見に、あまり賛成できない。

ここには、アルコール中毒患者としては模範的な人々、というのは変な気がするが、しかしそういう人々が、主人公をはじめとして何人かいる。それが僕には、大して面白くないのだ。

「僕」が仲良くしているJPは、本名は「ジョー・ペニー」だが、JPと呼んでくれと言う。そのJPが語る話が素晴らしい、と村上さんは言う。
 
あるとき一人ぼっちのJPは、煙突掃除の娘に恋をして、結婚する。しかしほとんど理不尽に、酒に取りつかれてしまう。JPが訥々と、そう語る。

「この語り口は実に見事である。そして主人公の『僕』はじっとそれに耳を傾けている。『僕』にも同じような暗い過去がある。でもJPの話す奇妙に純粋な愛のかたちが『僕』の心を打つ。この療養所はまさに魂の暗い辺境である。そこでは愛はただ語られるしかない。記憶として、あるいは失われた楽園として。」
 
そういうものは、いかにも予定調和としてあった。すでに失われたものとして、かつてはそこにあったのだ。

「『僕』は最後にもう一度やりなおすためにガールフレンドに電話をかけようとする。ここには――それがうまく機能するにせよしないにせよ――回復の予感がある。まさに暗雲が裂けて光がこぼれ落ちようとするかのような。
『彼女が出たら言おう。「僕だよ」』という最後のシンプルな一行が見事に印象的である。」
 
たしかに、村上春樹の短篇ならいいかもしれない。しかしこれは、カーヴァーの作品なのだ。
 
カーヴァーの作品には、どこか破調がある。あるいはその一点で、不調和を突き抜けるところがある。

「羽根」の、見るも無残な醜い子供。「シェフの家」の、救いのないアル中男。「コンパートメント」における、息子と金輪際会いたくない、ひったくりに遭った男。「ささやかだけれど、役にたつこと」の、息子を亡くして絶望する夫婦と、絶望を胸にパンを焼く男。
 
カーヴァーなら、だから最後は、次のようになる。

「彼女が出たら言おう、と思うけれども、出ない。だから『僕だよ』とは、ついに言葉にできない。」
 
そういう意味では、次の「列車」は、カーヴァーにしか書けないものだ。村上さんに言わせれば、「奇妙な味の一篇」。
 
辺境の町から、3人が夜遅い列車に乗ってくる。それも奇妙であるが、筋書きらしきものは一切ない。3人は1人と2人連れである。
 
それよりも、列車に乗る前、小説冒頭が素晴らしい。

「女はミス・デントと呼ばれていた。彼女は一人の男に向かって銃を突き付けていた。その夜のまだ早い時刻のことだった。彼女は男を地面にはいつくばらせ、命乞いをさせた。男の目に涙が溢れて、その手が落ち葉をかきむしっているあいだ、彼女はリヴォルヴァーの銃口をぴたりと向けて、相手を責めた。」
 
ミス・デントは、相手を責めるだけ責めて、殺しはせずに、鉄道の駅に戻っていった。
 
これだけだけれど、書き出しの一段で、僕は鷲づかみにされる。しかもこの後、何の説明もない。
 
そうなると、この一篇は一生忘れられなくなる。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(6)

「ビタミン」は、仕事として複合ビタミン剤の個別訪問販売を進めているパティーと、夫である「僕」の話だ。

「僕」は夜中に2,3時間、病院で仕事をしている。といっても大した仕事じゃない。適当に片づけて、8時間分の就業カードにサインし、それから看護婦たちと飲みに行く(ここは「看護師たち」ではいけないんだろうな)。
 
なるほど、たいした仕事ではない、というか、ろくな仕事じゃない、と僕は思う。
 
そのうちビタミン剤も、売れなくなってくる。

「『私自身が唯一の私のお客なのよ』と彼女は言った。『ビタミンばかり飲んでいるせいで、肌がおかしくなってきたみたい。私の肌の具合どう? ビタミンの飲みすぎ〔オーバードース〕なんてあると思う? このごろ人並みにうんこだって出やしないのよ、私』
『おいおい〔ハニー〕』と僕は言った。
 パティーは言った。『私がビタミン飲もうが何飲もうが、あんたどうだっていいんでしょ? それが問題なのよ。あんたは何がどうなったってかまわないんだから』」
 
夫婦は、これが日常である。底辺にとどまって、出口はない。

あるとき「僕」は、パティーのビタミン販売の相棒のドナを誘って、飲みに行く。ドナは、パティーと親しいけれどもいい、と聞いてついてくる。
 
その店で2人は、ヴェトナム帰りの黒人に絡まれる。

「ちょいと聞きてえんだけどさ、おたくのかあちゃんが今何やってるか知ってるかい? きっと今頃はどっかの野郎としけこんで、相手のおっぱいつまんだり、ちんぽこ引っぱったりして遊んでんだぜ。あんたがこうしてお友だちとしっぽりとよろしくやってるあいだにさ。かあちゃんにだってきっと良いお友だちがいるんだぜ、きっと」
 
こういう調子で延々絡まれる。ヴェトナム帰りの黒人に、その下心を暴力的に告発される。もう飲みに行くどころではない。

「僕」は家に帰り、寝ぼけた妻と少し言い合いをし、最後に洗面所に行く。

「僕は薬品棚からいろんなものをばらばらと下に落とした。それらは流しの中を転がった。『アスピリンどこだよ?』と僕は言った。僕はまたいくつか下に払い落とした。なんだってかまうもんか。いろんなものが下に転げ落ちていった。」
 
もちろん「僕」と妻もまた、転げ落ちていくだろう。
 
ここで村上春樹は、カーヴァーの小説について、ある傾向を指摘する。

「failure(失敗者)はカーヴァーが好んで描く題材だが、この短篇に登場する人物はひとり残らず見事にフェイリャである。とくに貧乏というのでもない。人生の敗残者というのでもない。ただ彼らには未来に希望というものが持てないのだ。彼らは自分たちがかつて思い描いていた人生とはまったく違った人生の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができないのだ。」
 
こういう人は日本でも、かなりの数いそうな気がするが、安易な比較はやめておこう。
 
ただ村上さんは、そのあとにこう付け加えている。

「〔failure(失敗者)の〕全員が町を出てどこか別のところに行って、別の人生を試してみたいと思っている。」
 
とにかく町を出ていかなければ、というところで僕は、半世紀前の『ワインズバーグ、オハイオ』を思い出す。思えばこのときから、アメリカ人の何割かは、「人生の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことが」できないでいたのだ。
 
次の「注意深く」においても、妻と別居したロイドが、一人暮らしをしながら、酒浸りの日々を送っている。
 
妻のアイネズがやって来たとき、ロイドは、何が重大な話があるはずだと分かったが、耳の調子が悪くて、耳垢が詰まって、よく聞き取れない。

「『あなた、何か手は打ってみたの?』
『え、何だって?』彼は自分の頭の左側を彼女に向けた。『なあアイネズ、俺はおおげさに言ってるんじゃないんだ。本当に気が狂いそうなんだよ。こうして話していてもまるで樽の中で話しているような気がする。頭はぐらぐらするし、耳だってよく聞こえない。お前の声だってパイプの先から聞こえてくるような感じなんだ』」
 
こうして耳垢を取るために、ロイドと、別居中の妻のアイネズは悪戦苦闘し、ついに耳垢は取れる。
 
しかしアイネズは時間が無くなってしまい、肝心の夫婦の問題を話せないまま、去っていく。
 
まるで「奇妙な味の一幕物」(解題)のようだ。
 
ところで耳垢が塊になって、良く聞こえない、それがぼろっと取れる、などということは、日本人では聞いたことがない。でもアメリカ人には、耳にありがちなトラブルなのかもしれない。村上春樹はそう言う。
 
「後日アメリカに行ったときに、ひょっとしてと思ってドラッグストアを見てみたら、たしかに耳垢取りの薬というのがけっこう沢山棚に並んでいた。興味があったのでひとつ買ってきたのだが、今のところは使いみちがないままに放ってある。きっと『目からうろこが落ちる』という感じで耳からぼろっと耳垢が落ちるのだろう。気持ちよさそうと言えなくもない。」
 
ふふ。この解題を含めて、一篇のショートストーリーと言えなくもない。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(5)

「ささやかだけれど、役にたつこと」は、「レイモンド・カーヴァーの残したマスターピースとして衆目の一致する作品のひとつである」、と村上春樹は言う。
 
僕には何とも言えない。むろん高度に書かれた緻密な短篇であり、読み終わって、感嘆のため息が出るような作品だ。
 
それなら村上さんの言うように、「マスターピースとして衆目の一致する作品」、と言ってよいではないか。
 
ところが僕は、これがあまりに高度で緻密なために、傑作と手放しで拍手するには、ためらいがあるのだ。つまり、あまりに傑作すぎて、僕には十全に味わえないのだ、という言い方で、分かってもらえるだろうか。
 
話の筋は、カーヴァーの短篇にしては、比較的長い。
 
来週の月曜日、子供の誕生日に、母親のアンはパン屋に予約して、チョコレート・ケ―キを選んでおいた。パン屋の主は猪首の年輩の男で、不愛想である。
 
月曜日、8つになるスコッティ―は、学校へ行く途中で交通事故に遭う。最初は立ち上がって、何でもないようだったから、車で接触した方も、たいしたことはないとそのまま去って行く。しかしそのあと、スコッティ―は再び倒れ、病院に運ばれる。
 
アンが呼ばれ、会社から父親のハワードが車で駆けつける。最初は2人とも動転するが、医者は、ぐっすり眠っているので心配ないと言う。起きれば問題ない、と。
 
しかし子供は、こんこんと眠り続ける。

そして起きることなく、そのまま亡くなってしまう。
 
そこまでの夫婦の追い詰められ方と、子供がいったん覚醒して、大きな息を吐いて死んでいくところは、ただもう圧倒的である。それ以外のどんな形容もふさわしくない。
 
ここまでが前半で、実はこれは、「風呂」という短篇になっている。しかしこの話をするとややこしいので、今は省略する。村上さんも、ここは駆け足だ。
 
後半は、夫婦とパン屋の話である。
 
夫婦ははじめ、子供のことでパニックになり、パン屋にケーキを頼んだことを忘れてしまう。パン屋は事情が分からず、ケーキを受け取りに来ないから、つっけんどんになる。

「子供を失った夫婦は不気味な電話をかけてきたパン屋を追い詰めていく。まるで死んだ子供の魂を追って暗い冥界に彷徨いこむように、夜更けのパン屋へと彼らは車を走らせる。そこは世界の果てであり、愛の辺境である。そこでは愛が失われ、損なわれている。パン屋は人を愛することをやめ、人に愛されることをやめている。」
 
この辺りが僕には、はっきりこうであるとは言えないのだ。とくにパン屋についての最後の一文は、とてもこうは言えない。この村上春樹には、ただただ圧倒される。
 
続く文章はこうである。

「夫婦の方は愛をおしみなく与えたにもかかわらず、その対象は理不尽に唐突に抹殺されてしまった。パン屋にできることは二人のためにパンを焼くことだけだ。それは世界のはしっこにあって『ささやかだけれど、役にたつこと(a small,good thing)』なのだ。どれほど役にたつのかは誰にもわからない。でも彼らはそれにかわる何ものをももたないのだ。」
 
絶望しかない夫婦に、パン屋はパンを焼いてやる。
 
そして最後の一段。

「悲しい話だ。本当にヘビーな話だと思う。しかし最後にふっとパン屋の温かみが手の中に残るのだ。これは本当に素晴らしいことだと私は思う。」
 
手に残るパン屋の温かみ。こんなことが書けるだろうか。翻訳をしていて、ここまでやらなければ、到達できない地点があるのだ。
 
僕が、村上さんの尻馬に乗って、いや傑作ですね、と言えない理由がここにある。「最後にふっとパン屋の温かみが手の中に残るのだ」、そんなこと書けるわけがない。書いたら涙が出る。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(4)

「保存されたもの」の、底のテーマをなすのは失業。サンディーの夫は、3か月前に解雇され、以来無気力になり、ソファーの上から離れなくなってしまった。

「時折夫は職探しのために誰かと会って話さなくてはならなかった。二週間に一度は失業保険を受け取るために、何かに署名しに出かけなくてはならなかった。しかしそれ以外の時間を、彼はべったりとソファーの上で過ごした。まるでそこに住みついてしまったみたいだった。居間が彼の住みかなのだ。」
 
サンディーはこれではいけないと、家具を買うことにかこつけて、夫を家から連れ出そうとする。でも、うまくいかない。

「彼女は夫の両足から視線をそらせることができなかった。彼女はテーブルに皿を置き、じっとそれを見つめていた。やがてその裸足の両足は台所を離れ、また居間へともどっていった。」
 
これが最後の一段だ。短篇はどうしても、最後のフィニッシュが問題になる。オリンピックの体操競技のようだ。ここも、最後の切れ味が見事だ。
 
しかし村上さんは、やや不満そうだ。

「もっとも残念ながら、この作品ではそのあとの広がり方がいささか並列的にすぎる。納屋競売や、競売問題から派生した妻の父親の事故死の話は、話としては面白いのだけれど、小説全体の流れからは少しはみ出ているように私には感じられる。うまく話に溶け切らず、それ自体が塊として残ってしまう部分がある。」
 
そういうものなのだ。カレーを溶かすときに、ちょっと失敗して、ダマになって残ってしまうようなものか。
 
しかし僕には分からない。いくつかのエピソードが効果的に入ってきて、話しの膨らみも十分な気がするが、これでは村上春樹としては、不満なのだろう。

「最後の部分へのもっていきかたは、カーヴァーの力からすればもう少しスリリングに書けたはずだという気がする。」
 
カーヴァーには、より高いところを求めたい、ということだろう。これは村上さんとカーヴァーだけに分かることだろう。

次は「コンパートメント」。マイヤーズは列車に乗って、フランスを旅している。

大学生の息子がストラスブールにいて、会う予定だが、実はこの8年、音信不通である。妻とも、同じだけ会っていない。
 
コンパートメントからうっかり出たマイヤーズは、その間に盗みに会う。突然、列車の旅の様相が一変する。

「彼は頭を振った。馬鹿げた行為をつみかさねてきた人生だったが、その中でもこの旅行こそがおそらく最大の愚行だった。しかし何はともあれ、息子に会いたいという思いはマイヤーズの中にまったく湧きあがってはこなかった。」
 
自分の心を偽っていたのが、突然すっかり嫌になったのだ。

「マイヤーズの脳裏に、彼に向かって飛びかかってきたときの息子の顔がありありと浮かんだ。そして苦い思いがマイヤーズの心を浸した。この子供がマイヤーズの若き日々を貪り食い、彼が求愛し結婚した娘を、神経の歪んだアルコール中毒の女に変貌させてしまったのだ。そして子供は母親に対して、あるときは同情したりあるときは横暴に振る舞ったり、ころころと態度を変えていたのだ。好きでもない相手に会うために、なんではるばるこんなところまで来てしまったんだろう、とマイヤーズは思った。」
 
こうしてマイヤーズは、ストラスブールで降りることなく、行方も知れぬ列車の旅を続ける。
 
村上さんの解題は、こんなふうである。

「スピードのある作品である。ひとりの男が徹底して疎外された世界に放り込まれた雰囲気もよく出ている。ここに描かれているのは、他人を十全に愛することができなくなった男の壮絶な孤独感である。愛することができず、それ故に愛されることもなくなってしまった人間の、見事なほどの不毛。」
 
初めて村上春樹と、読後感が一致したような気がする。しかしこんなふうに、鮮やかに言い切ってしまえるほどではない。「孤独感」に「壮絶な」とは、なかなか付けられない。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(3)

村上春樹の「羽根」の解題は、次のようなものだ。

「主人公の『私』と妻とが、同僚夫婦の家を訪れ、醜い赤ん坊と奇妙な孔雀を見せられて啞然とする。しかし彼らの大地に足をつけたイノセントで幸せそうな家庭のありように打たれて、自分たちも自分たちなりの家庭を作ろうと決意する。」
 
ここまでは何の問題もない。「醜い赤ん坊と奇妙な孔雀」というのが、強烈で奇妙な点景として、実によく効いている。
 
問題は、この次の文章だ。

「しかしその結果ははかばかしいものではなかった。彼らの人生の過程のどこかで、その本来的なイノセンスが破壊されてしまっていたのだ。」
 
うーむ、そういうことなのか。「その本来的なイノセンスが破壊されてしまっていた」のか。
 
でも、破壊されていた「本来的なイノセンス」って、いったい何なんだ。
 
さらにこの後、謎が積み重なってくる。

「しかし主人公にはその原因をはっきりとつきつめることができない。最後に主人公の家庭の無残な崩壊ぶりが示唆されている。夜の闇の中に消えてしまった孔雀の姿が暗示的である。」
 
短篇の最後は、実はこうなっていない。

「それから私の友だちとその奥さんがポーチに立って我々を見送ってくれたことも覚えている。オーラはフランにおみやげに孔雀の羽根を何本かくれた。我々はみんな握手して、抱きあって、なんのかのと言った。帰りの車の中でフランはしっかりと私に身を寄せていた。私の膝にずっと手をのせていた。そんな風にして、我々は友だちの家をあとにしたのだ。」
 
明らかに違っているでしょう。眼光紙背に徹すれば、村上さんのような読み方ができるのだろうか。まさか!
 
こういうときふつう僕は、いい加減にしなさい、と読み手の権利を全面的に主張するのだが、しかし村上春樹の読みが自信に満ちていて、思わず、そういうふうに読めるのかもしれない、と途方に暮れることになる。
 
つまりレイモンド・カーヴァーのテキストと、それに対する村上さんの読み、そしてまるで一致しない僕の読みがあって、読みが三方定立という状態なのだ。
 
こんな事態は初めてで、60年以上読書をしてきて、まったく経験がない。あまりにもスリリングで、書いていて、コロナも吹き飛んでしまう。

この調子でどんどん読んで行こう。

「シェフの家」はさらに短い。ウェスは、シェフの持ちものである家具付きの家を借りて、アル中を治そうとする。別居しているエドナに、もう一度一緒に住もうと言ってみる。エドナはその申し出を、拒否することができない。
 
というよりも、これは希望に満ちた、新しい生活の予感がする。
 
けれども夏が過ぎれば、シェフは娘を住まわせたいので、ウェスに出て行ってくれと言う。
 
削ぎ落とされた文体、象徴的な書き方。最後の場面はこうだ。

「ウェスは立ち上がって厚手のカーテンを引いた。海がさっと見えなくなってしまった。私〔=エドナ〕は夕食の支度をしに台所に行った。冷蔵庫にはまだ魚が何匹か入っていた。そのほかにはたいしたものはなかった。今夜はあるものをたいらげてしまおう、と私は思う。それでもうおしまいなのだ。」
 
最後の1行が、あまりにも鮮やかで、救いがなくて、きっぱりしていて、素晴らしい。
 
いや、こういうときは、救いがないことが徹底しているせいで、最後の1行に、「素晴らしい」とは使わないのだろうか。

ところで、「シェフの家」の解題はこうだ。

「ギリシャ悲劇を思わせるような淡々とした暗い宿命観がこの作品の底に流れている。最後の何行かに漂う静かな絶望感は、まさにこの人ならではのものである。」
 
参りました。「ギリシャ悲劇を思わせるような」は、カーヴァーをとことん読み込んでいないと、書けない。というか僕には、それは書けない。
 
しかし「静かな絶望感」は、なるほどそうだな、と目が吸い付いて離れなくなる。

村上春樹の読みを読む――『大聖堂―村上春樹 翻訳ライブラリー―』(レイモンド・カーヴァー)(2)

ここまでで、突然コロナになった。いや、正確な検査はしていないので、ただ家で寝ているだけだ。コロナであってもなくても、安静にしているだけなので、それ以外にどうしようもない。

きつい症状で、熱はたいして出ないが、目を開いてても悪夢を見ているようだ。食べ物の味は全くしない。

しかしそれでも、1週間で何とか起き上がれるくらいになった。
 
というわけで、『大聖堂』を読んでいこう。最初の短篇のタイトルは「羽根」。

「私」ことジャックと、妻のフランは一夕、同僚のバドと妻のオーラに招かれて、食事を共にする。妻のフランは、ジャックと同僚の付き合いだから渋々参加する。
 
この同僚宅では、なんと女房の願いにより、クジャクを飼っている。そのクジャクのジョーイが、「メイオー、メイオー!」と鳴きながら、家の中を縦横に歩く。ときどき羽根が抜けるので、タイトルは「羽根」。

この舞台設定は、肉体労働者の男女4人が集まって、倦んだ中で、番犬代わりのクジャクはちょっと異様だが、食事会をする。その顚末を事細かに描いたものだ、と思うじゃないですか。

ところがさにあらず。

「私」とフランは、8カ月の赤ん坊を見せられるが、これが一目見て、思わず息をのむほど異様なものだった。

「私はこの子供が病気にかかっているとか、どこかが変形しているとか言っているのではない。そういうのとは全然違う。ただ単に不細工なのだ。」
 
ここは思いきり転調している。カーヴァーは、このハロルドという名の赤ん坊を、克明に描写する。

「顔は赤くて大きく、目はとびだしていて、額はだだっ広く、唇がぶ厚い。首と呼べるほどのものはなく、顎は三重四重顎ときている。顎は段になって耳まで達し、耳ははげ頭からべろんとつき出していた。手首には垂れるくらいに脂肪がたまっている。腕も指もむくんでいる。不細工と呼ぶのももったいないという気がするほどだった。」
 
しかし母親のオーラは、赤ん坊に食べさせることに夢中で、「私」とフランは、そのとき眼中になかった。

「私」は「とても大きいじゃないか」と言い、フランは「かわいいわねえ」と言った。ジャックは、どうか子供のことで気を遣わんでくれ、と言った。
 
バドとオーラは、こんなふうに思ってたのかもしれない。

「不細工なら不細工でいいじゃないか、という程度のものだったかもしれない。これは俺たちの子供なんだ。それにこれはひとつの段階にすぎない。もうすぐまた次の段階がやってくる。先のことは先のことだ。いろんな段階をとおりすぎてしまえば、物事は結局、落ち着くべきところに落ち着くのだ。」
 
こうして夜の食事会は、終わりを告げる。
 
ところが僕と村上さんの問題は、そのあとのことなのだ。

「私」ことジャックは、この夜のことは忘れまい、ずっと覚えていようと思った。そしてそれは、今に至るまで忘れてはいない。
 
そうして、謎の文章がくる。

「願いごとがかなったなんてあとにも先にもこれっきりだが、私にとってそれは裏目に出てしまった。でももちろん、そのときの私にはそんなことわかるわけもなかった。」
 
この「裏目」って、どういう意味なんだ。それを後に解説しておかなければ、まったくの意味不明ではないか。
 
さらにこういう文章が続く。

「その後、まわりのものごとが変化したり、子供が生まれたり、そんな何やかやがあったあとで、フランはバドの家での出来事を思い返しては『あれが物事の変わりめだったわね』と言うようになった。でもそれは違う。変わったのはそのあとのことだ。その変化はまるで他人の身に振りかかったもののようにしか思えなかった。そんなことが自分たちの身に起こるなんて想像もしなかった。」
 
「その変化はまるで他人の身に振りかかったもののよう」とは何のことか、はっきり示してくれなければ、どうしようもないではないか。
 
ところが村上さんの「解題」は、驚くべきものだった。