どこかちぐはぐではないか――『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ、千野栄一・訳)(2)

本文を読んでみよう。

「人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。」
 
クンデラは、そうとうユニークな人生観を持っている。複数の人生を比べられないのだから、今生では何を選んだらいいのか、そんなことは考えられない、と考える人がいるんだ。一度だけの人生では、あまりの軽さゆえに耐えられない、ということだ。

「『一度は数のうちに入らない』と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。」
 
実にユニークな人生観だ。ふつう、人生はただ一度のものだから、大事に生きよう、となる。それを、ただ一度の人生だから、「それはまったくまったく生きなかったようなもの」だとは。
 
これはなかなか納得しづらいが、そこを無理にも納得し、大前提にしないと、あとの話が進まない。
 
第Ⅰはやくも「プラハの春」が前面に出てくる。

「妥協により、処刑と多くの人のシベリア送りという誰もが恐れていた最悪の事態は避けることができた。ただ一つのことだけは明白であった。チェコは占領者の前で頭を下げなければならず、永遠にアレクサンドル・ドゥプチェクがしたように、声をつまらせ、どもり、肩で息をしなければならなくなったのである。祭りは終わり、屈辱の日が来た。」
 
そこで問題は、そういうのっぴきならない社会状況と、トマーシュの女漁りが、どういうふうに関係するかである。これが実は、よくわからない。
 
それで言うと、ソ連軍のチェコ占領も、圧政一色ではない。

「かわいそうなロシアの兵隊たちの感情を刺激する信じがたいほどの短いスカートをはいていた若い女たちがいて、彼らの前で誰かれとなくあたりを通る人とキスしていた。私がかつていったように、ロシアの侵入は単に悲劇であったばかりでなく、不思議な(そして、けっして誰にももう説明できないような)幸福感に満ちた憎悪の祭典でもあった。」
 
このあたりは分かりそうな気がする。日本でも戦後すぐの混乱期、米軍の占領政策のころを思い浮かべれば、そういうことがあっても、おかしくはないと思う。
 
それでも最後の1行、「不思議な幸福感に満ちた憎悪の祭典」とは、どういう光景を思い浮かべればよいのか、想像するのに苦しむ。
 
それともう一つ、今引用した部分に「私」、つまりクンデラ自身が登場している。登場する回数は少ないけれど、作者は登場人物の1人として、はっきり数えられている。
 
これは司馬遼太郎の、講談調歴史小説モドキではない。作者がヒチコック張りに登場するのは、最先端の文学としてはたいへん珍しい。そしてここには、たぶん意味がある。
 
それにしても、ソ連の占領は執拗に描かれる。

「テレザはけっしてドゥプチェクの一つ一つのセンテンスのあいだのあのすさまじい間〔ま〕を忘れないであろう。〔中略〕たとえドゥプチェクのあとに何も残らないとしても、ラジオの前に釘づけになっていた全国民の前で、息ができずに、口をパクパクやっていたあの長いすさまじい間、その間はあとに残るであろう。それらの間の中に、彼らの国にふりかかったありとあらゆる恐怖があったのである。」
 
ここは実に迫力がある。
 
結局、中部ヨーロッパの共産主義体制は、ソ連などの「犯罪者」によって作り上げられたもの、というのは真実を見逃している。

「犯罪的体制を作ったのは犯罪者ではなく、天国に通ずる唯一の道を見出したと確信する熱狂的な人びとである。その人たちは勇敢にその道を守り、それがために多くの人びとを処刑した。後になって、そんな天国は存在せず、熱狂的であった人びとはすなわち殺人者であることが誰の目にも明らかになった。」
 
いわゆるスターリン批判である。小説中では、このことを巡って延々議論が続く。スターリンあるいは、その類の権力者に命令されたものは、殺人の罪を負う必要はないのか、というハンナ・アーレントの議論でおなじみのやつだ。
 
こういう議論を突き詰めていくと、この1回の人生は、「存在の耐えられない軽さ」というには、あまりに重すぎないだろうか。

どこかちぐはぐではないか――『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ、千野栄一・訳)(1)

柴田元幸のポール・オースター追悼文に触発されて、『幽霊たち』を読んだら面白かった。
 
考えてみると、40代後半からは仕事に追われて、外国文学はほとんど読んでいない。自分の仕事に直接の関係はない、と思っていたからだ。考えてみると、もったいないことをした。
 
中でも読みたいなと思ったものが3つあって、いつも気にかかっていた。『幽霊たち』はその中の1つだ。
 
他は、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』と、村上春樹が訳したレイモンド・カーヴァーの短篇のいくつか、たとえば『ぼくが電話をかけている場所』などである。
 
初めに『存在の耐えられない軽さ』を読んでみる。
 
これは1968年に、ソヴィエト軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が、チェコスロヴァキアへ侵攻し、そのころ自由の風が吹いていたチェコスロヴァキアを、一瞬で制圧したころのことだ。
 
僕は中学3年、そろそろ目が海外に向くころで、インターネットはないので、新聞と週刊誌、プレイボーイや朝日ジャーナルなどを読んでいた。
 
自由主義陣営の日本としては、ソ連の社会主義はこんなにひどいものだというので、「プラハの春」は、リキを入れて書くのにぴったりだったろう。
 
チェコスロヴァキアを制圧後、ソ連共産党のブレジネフ書記長の命を受けて、フサーク大統領による、いわゆる「正常化」の時代、暗黒の時代が来る。
 
このとき迫害を受けたクンデラは、1975年、フランスに出国した。79年にチェコスロヴァキア国籍を剝奪され、81年にはフランスの市民権を得る。このころからチェコ語ではなく、フランス語で原稿を書くようになる。
 
84年、『存在の耐えられない軽さ』を発表、世界的なベストセラーとなり、映画化もされた。
 
2023年、パリで死去。享年94。
 
ではさっそく読んでいこう、と思うが、これがどうも、日本語訳がしっくりこない。
 
僕の方が鈍感で、この名作を甘受できないか、あるいは千野栄一の訳文に難があって、十全に面白がれないか、どちらかに原因がある。それともクンデラが、長編の構成を分かっていないかだ。
 
僕としては、ともかく自分の主張をするよりほかない。
 
外科医のトマーシュは優秀な医者だが、女と見れば寝て、自分のものにせずにはおかない。そこへ田舎娘のテレザが押し掛け、結婚することになるが、トマーシュは女漁りをやめない。

そこには、「存在の耐えられない軽さ」に基づく、トマーシュの理屈があるようだ。しかし僕には、その理屈がよく分からない。訳者も分かっていないのではないか。
 
画家のサビナは、そういうトマーシュを理解し、愛人であることを続けるが、一方サビナにとって、フランツというセックスをする男もいる。
 
カバー裏の惹句には、「『プラハの春』とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇」とある。

はたしてそうだろうか。
 
確かにトマーシュは、プラハに帰ってからは秘密警察に狙われ、ついには医師もできなくなる。それは、トマーシュの誇りがそうさせたのだ。

トマーシュとテレザは、田舎に逃げ延び、そこで静かに暮らす。結局は2人とも事故で死ぬが、そこに至る過程が「愛の悲劇」とは、どうしても思えない。
 
サビナはアメリカに渡り、画家として暮らしていく。これも悲劇とは呼べない、というか悲劇とは関係がない。
 
カバー裏の惹句で、問題は「『プラハの春』とその凋落の時代を背景に」の、「背景に」のところである。これは背景ではなく、主題として前面にせり上がってくる話ではないか。僕はそう思う。

文章の傾斜とは――『庭』(小山田浩子)

この本は荒川洋治『霧中の読書』の、「平成期の五冊」の中で取り挙げられていた。
 
その五冊は次の通り。

  吉行淳之介『目玉』(新潮社、平成元年)

  荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書、平成12年)

  耕治人『一条の光・天井から降る哀しい音』(講談社文芸文庫、平成3年)

  小山田浩子『庭』(新潮社、平成30年)

  マーサ・ナカムラ『狸の匣〔はこ〕』(思潮社、平成29年)

平成期30年から、たった5冊を選ぶだけでもすごいが、その中に小山田浩子の名があるのが、気になった。というのは、僕は全然知らないからである。田中晶子に聞いても、そんな人は知らないと言う。
 
マーサ・ナカムラという名も知らないが、『狸の匣』は中原中也賞受賞作の詩集である。これは知らなくてもしょうがない。詩はもう30年くらい読んでない。
 
小山田浩子について、荒川洋治はこう書く。

「『庭声』『名犬』『蟹』『緑菓子』などを収めた近作集。世代、時代、個人の間の距離と時間が消えうせる、不思議な世界を映し出す。文章の傾斜と、速度が印象的。」
 
こんなこと書かれたら、見てみるか、とならざるを得ない。それにしても「文章の傾斜」とはどんな意味か。

『庭』は3年前に文庫になっている。
 
カバー裏の惹句の一部を引く。

「彼岸花。どじょう。クモ。娘。蟹。ささやかな日常が不条理をまといながら変形するとき、私の輪郭もまた揺らぎ始める。自然と人間の不可思議が混然一体となって現れる15編。」
 
これでも分からないので、読んでみる。
 
巻頭の作は「うらぎゅう」。「私」は、夫と離婚することを親に言うために、実家に帰ってくる。帰る途中、子供を持たなかった「私」に、バスの中で、老人が聞く。

「『ねえさん。ねえさんは子供が欲しいんか』『え?』私は目を見開いた。『それで来たんか』口の中が渇いた。」
 
年寄りは「うらぎゅう」のことを言っているのだ。「私」には、何のことだか分からない。実家に帰ると親も祖父も、「うらぎゅう」のことを知っている。

「私」は祖父と自転車をこいで、「うらぎゅう」の場所に駆けつける。それは真ん中に火を焚く、土俗的な風習らしい。しかしこの一篇は、即物的な描写だけで、「うらぎゅう」についての説明はない。これでは何も分からない。
 
ただ文章を読んでいるときは、夢中である。これがつまり小山田浩子の文体か。そこには明らかに独自なものがあり、これを「文章の傾斜」と言い、「速度」と言い、「距離と時間が消えうせる」と言ってもいいということか。
 
ただそういう言葉の問題は、どちらかと言えば、詩の領域のことではないかと思う。

「解説」を吉田知子が書いている。上手な解説だが、それをネタにして、作品の絵解きはしたくない。ただ小山田浩子の作品は、こういうものだ。

「世間にも読者にも何ら迎合していない。中途半端でない。こんな小説を書く人はいない。世界中にいない。誰の人生にもなんの役にも立ちはしない。何も教えてくれない。愉快、爽快、充実、人生の機微、全然無関係。現実と同じ、日常と同じ。筋など、話などないのだ。」
 
よくできた解説である。そうも言えるが、しかし筋はある。それでなければ、読み進められない。
 
ただそれが、どこにも飛翔しないのだ。それが多分、荒川洋治の批評の意味だ。
 
小山田浩子は『工場』で織田作之助賞を受賞している。これは詩の言葉では受賞できない。ぜひそれを読んでみたい。

(『庭』小山田浩子、新潮文庫、2021年1月1日初刷)

つぎは国政か――『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』(泉房穂)(4)

泉房穂が国政に挑むにしても、当面の敵はかなり手ごわい。日本の政治を動かしているのは、与党の政治家ではなく、中央省庁の官僚たちだからである。

「日本は民主主義国家ではなく、官僚主義国家です。さらにその官僚たちと大手マスコミ(大新聞、大テレビ局など)が結託して政府、官邸に有利な情報しか流しません。官僚主義をマスコミが補完し、決断すべき政治家たちはいいように扱われています。」
 
これはきわめて厄介である。泉さんが、かりに市民のための「市民党」を名乗って、辛くも当選したとしても、それはスタートラインについたに過ぎない。
 
官僚の壁は、簡単に打ち破れるものではない。彼らは自分の省庁のことしか、考えてないのだ。

「中央省庁の中でも一番の力を持っているのは、国の財布の紐を握っている財務省です。しかし、財務省の官僚たちは驚くほど賢くありません。本当に賢いのであれば、国民に負担を転嫁するような増税ではなく、予算のやりくりだけで新たな政策を実現できるはずです。財務省の官僚たちが考えているのは自分たちの保身であって、国民のことを中心に考えているのではないように思います。」
 
これはよくある財務省批判である。これが本当に正しいとすれば、財務省以下、官僚の主流は東大なのだから、そこで教えることを正しく変えれば、いいことではないか。
 
それとも東大文Ⅰに入ったときから、役所に入るにあたっては、まず省益を考えろ、という教育をしているのか。それなら全共闘の東大粉砕は、実によくわかる。そして最終的には、東大を粉砕しないのも。
 
僕が東大の情報学環で、非常勤で「編集の基礎」を教えているとき、T君が授業の後で、悩みがあると言ってきた。
 
聞いてみると、上級公務員試験を一桁の順位で通ったという。そこで卒業してから、財務省に行くか、日本銀行に入るかで、非常に迷っている、ということだった。
 
そんなこと、文学部を出た人間にきくなよ、と思ったけれど、いやあ分かりません、とは言えない。情報学環で、編集論を講じる僕に聞いたのだ。外からの意見を求めている、と思うでしょう。
 
僕は、財務省と日銀のどちらが、自分を生かせると思うか、それとどちらが人の役に立てるか、それで決めるしかないんじゃないか、と答えた。
 
T君は、人の役に立てるか、そうか、そういうことですね、と言って話は終わった。
 
僕がT君の進路を左右するなんて、どの面下げて言うとるんね、とは思うが、これも役割である。T君は僕なんかじゃなく、親しい人の考えを聞き、また自分の考えを聞いてもらった、と思う。
 
T君は卒業して財務省に入った。
 
もし財務省の官僚が、省益だけを考えてるとすれば、T君は悩んだろうな。あるいはもう辞めてるかもしれない。
 
いずれにしても、泉房穂の国政への挑戦は、道は険しそうだ。
 
都知事選で、小池と蓮舫を割って入った石丸伸二・元安芸高田市長、この人は何者か。
 
元文科省次官の前川喜平が、東京新聞のコラムに書いていた(2024年7月14日)。

「その選挙戦は『選挙の神様』と呼ばれ、東京維新の会の事務局長も務めた藤川晋之助が仕切った。選対本部長は自民党東京都連が運営する『TOKYO自民党政経塾』塾長代行の小田全宏氏。同じく石丸陣営の田村重信氏は、自民党政務調査会の会長室長や調査役を歴任した人。『統一教会』系の日刊紙『世界日報』関連のインターネット番組『パトリオットTV』のキャスターだそうだ。」
 
元次官の書いた文章だから、漢字が多くて読みづらい。しかし石丸氏が、突然現われた、政治における救世主でないことは、ようく分かる。
 
もちろん、一陣の風に乗ってやってきた爽やかな男、という演出でかまわないわけだが、都知事選挙で計3億、石丸陣営に献金した都民は、このことを知ってほしいなと思う。

(『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』
 泉房穂、集英社新書、2023年9月20日初刷)

つぎは国政か――『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』(泉房穂)(3)

この本は、前に読んだ泉房穂の『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』と、半分以上は重複している。それは仕方がない。明石市長・泉房穂がどういう人なのかを分かってもらわないと、その先の話が通じないからだ。
 
この本の独自なところは、「第5章 日本が滅びる前に」にある。
 
たとえば少子化に関連して、子どもの予算を日本全体でどうするか、という場合。

「もし私が今、総理大臣になったら『子ども予算を倍にするので財務省、各省庁で調整してください』と言って終わりです。総理大臣には閣僚を任命できる権利があり、さらに各大臣は事務次官を任命できるため、実質総理大臣が内閣の人事権を握っています。この権限をうまく使って各省庁を動かせばいいだけです。」
 
とはいうものの、これは「命懸け」のことになるだろう。明石市という自治体でさえも、泉さんは複数の人間に、殺してやると言われて、警察が警備、捜査している。

明石市という自治体の小さな利権だから、実際に命を懸ける人間はいなかったようだが、国家予算となれば、本当に鉄砲玉を撃ってくる人間もいるだろう。
 
泉さんはこれに関連して、国会議員が総理大臣を選ぶ、議院内閣制をやめて、「大統領制」を導入したいという。
 
総理大臣は議員に選ばれるので、国民の顔を見ないで、与党議員ばかり見て政治をする。その点、国民の方を見て政治をする大統領制は理想である。しかし国会議員は、首相を選ぶ権利を持っていることが、力の源泉なので、簡単に手放すことはあり得ないだろう、という。
 
さあ、これはどうだろう。いまアメリカでは共和党の大統領候補に、ドナルド・トランプが指名されたばかりだ。ほとんど小学校4年の語彙しか使えない男(©中林美恵子)が、しかも犯罪者(©北丸雄二)が、大統領候補に指名されたのだ。
 
大統領制が理想の体制とは、とても言えないと思うが、泉さん、どうですか。
 
なお省庁の予算は、ため息が出るほど莫大な税金が、ムダに投入されている。たとえば国土交通省の予算は、半減したところで、国民のほとんどは困らない。困るのは利権に群がっている業界団体や建設会社だけである。
 
しかしこれが、さっきも言った通り、本当に予算半額となれば、冗談ではなく死人が出るだろう。
 
国土交通省だけではない、と泉さんは言う。「経済産業省などもなくてもいい組織だと思う。」「ムダの権化ともいえる財務省も一度解体、再編してみるべきです。」
 
財務省は本当に評判が悪い。森永卓郎の『ザイム真理教』でも、このブログに書いたように、撲滅すべき第一の役所に上げていた。
 
しかし省庁を潰して立て直すとなれば、生半可なことではどうしようもない。これは結局、ある種の「革命」を起こさなければ、無理なのではないか。
 
泉さんは、少子化に関連するところを、もう少し詳しく述べる。

「『子ども予算倍増』を増税することなくできるかといえば、制度上は十分可能です。総理大臣が覚悟を決めればいいだけなのです。
 子ども予算を倍増したところで、国家予算全体から見ればその額は微々たるものです。私なら子ども予算を倍増したあとも矢継ぎ早に子育て支援、教育支援などに予算をまわします。最初は『大学の学費を半分補助します』と打ち出して、段階的に補助額を増やしていけば『子どもを産みたい』と思える人も出てくるでしょう。」
 
そうやって、国民に安心感を与えるメッセージを、出し続けることが何より大事だという。
 
結局、日本の内向きの課題は、あと4,50年すれば出生率がゼロになること、つまり日本人が生まれなくなることと、世界的なことでは、温暖化に象徴される環境問題、この2つに尽きている、と僕は思う。
 
他は二次的なことで、特に戦争などは即座にやめるべきだが、ここが、人間が生き延びるかどうかの境目だという気もする。

つぎは国政か――『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』(泉房穂)(2)

しかし、ではなぜ子どもを育てる親に、これまでスポットライトが当たらなかったのだろうか。
 
一方の泉房穂の考え方は、理路整然としている。明石市にマンションを買って、移り住んでくる共働き世代は、総じて収入源が2つあるダブルインカムが多い。これは言い換えれば「ダブル納税者世帯」である。

「中間層世帯は教育にも熱心で、子どもにお金をかけます。子どもに光を当てると、子どもを育てている親たちがお金を使えて、地域経済もまわるようになるわけです。」
 
これはいかにも理に適っているが、その奥には、「冷たい社会をやさしい社会に変えたい」という、泉さん独特の倫理観がある。そのおおもとは、肢体の不自由な弟の存在である。それが、泉さんの政治の出発点である。
 
経済に関しても、これまでの政治家とは出発点が逆である。
 
経済をまわすには、大きく分けて2通りのやり方がある。「物を売る側」(サプライサイド)に焦点を当てるか、「物を買う側」(デマンドサイド)に光を当てるか。
 
日本の政府はこれまでは、サプライサイドに焦点を当ててきた。しかし法人税を軽減しても、企業の内部留保にまわるだけで、今ある経済の形は変わらない。
 
泉さんは政府とは逆に、デマンドサイドに光を当てることにした。まず消費者である市民に、市のさまざまな無料化、つまり負担軽減政策によって浮いたお金を、地元の商店街などで使ってもらう。これで明石市の経済がまわるようになった。
 
発想の転換は、その先まで続く。

「子育て支援の財源を捻出するために、市の公共事業もかなり削りました。でも今、明石市の人口は過去最多を更新中で、マンションの建設ラッシュとなって建設業界は潤っています。このように、子育て支援、とくに『所得制限なし』の『5つの無料化』はさまざまな経済効果を生んでいます。」
 
ここらあたりは、新進気鋭の経済学者と組んで、ぜひモデルを明石に限らず、普遍的なものとして、『まったく新しい、デマンドサイドの経済学―日本政府に抗して―』(仮)という本を著してほしい。
 
泉さんが市長になってみると、その仕事は極論すれば、次の3つに絞られる。

  1 「方針」をたてる。
  2 「予算」の最終決定をする。
  3 「人事」の適正な異動をする。

これは集団の長だけに与えられている権限で、やる気になれば、どうとでもやれるものだが、それを削いでいく巨大な力があるという。それが次の3つに代表されるものだ。

  1 お上意識に反する…国からの指示ではないから。
  2 横並び意識に反する…他ではやっていないから。
  3 前例主義に反する…過去の通りやっていくのが一番だから。

結局うんざりさせる局面は、これに尽きている。どんな政策を掲げようとも、この3つをはびこらせたままでは、自治体は市民にとって、使い勝手が悪いものになるほかはない。
 
泉さんは、「予算」と「人事」の2つの権限を行使しようとして、職員から猛烈な反発、抵抗を受けた。

それはどこの自治体も同じで、実際にこの権限を行使したことのある市長は、全国でもほとんどいないはずだという。そういうことなのだ。

「でも私は12年の任期の中で、関係部署に抵抗を受けても市民の望むことを実現すべく働いてきました。抵抗を受けようが、脅されようが、嫌がらせを受けようが、『やさしい街をつくる』という志を貫く一心で、誰にも屈することはありませんでした。私にできたのですから、他の市町村の首長にも2つの権限を行使することは必ずできるはずです。」
 
残念ながら、これはいまのところ泉房穂以外に、ほとんどやれていないと思う。泉さんも「実際にこの権限を行使した市長は、全国でもほとんどいないはずだ」、と言っているではないか。
 
しかしそうは言いつつも、究極「やる気になればできる」ことも、事実なのである。

つぎは国政か――『日本が滅びる前に―明石モデルがひらく国家の未来―』(泉房穂)(1)

東京都知事選挙が終わった。

  小池百合子 291万8015票

  石丸伸二 165万8363票

  蓮舫 128万3262票

現職の小池百合子が、2位と3位の票を合わせたくらいある。どうしてこんなに差がついたのか。そのことを考えてみたい。
 
僕はデイサービスに通っていて、そこで風呂に入れてもらう。介助ヘルパーのWさんは50歳を超えたくらいで、高校生と中学生の2人の娘さんがいる。旦那さんは去年60歳で会社を定年になり、今年から同じところで嘱託として働いている。月給は手取り20万。
 
Wさんは、デイサービスで週に5日働き、土日はケータイで登録した介護派遣で、割のいいところに行く。

土日のうち、月に2日は休みを取ることにしている。去年ぶっ続けで3カ月間働き、倒れたのだ。
 
Wさんの家は、そのデイサービスの近くにあり、Wさんは朝晩の食事と、娘たちの弁当を作ってから来る。
 
Wさん一家の年収は、それだけ目いっぱい働いて、手取り600万に届かない。
 
東京都知事選が始まったとき、Wさんは言った。

「選挙は行くときもあれば、行かないときもあるけど、今度の東京都知事選挙だけは、小池さんに勝ってもらいたいわ。だって18歳以下の学費と医療費が、ほぼタダになるんだよ。」
 
Wさんの世帯年収を見れば、それは必死の願いであった。

長女は私立の名門女子高校に通い、学費は年に100万円ほど。まだ高2で、塾代も今年から来年にかけて、さらにかかる。次女は中2で、今は公立中学に通うが、高校は私立も視野に入れて、どこへ行くか分からない。
 
そういうとき、小池百合子・東京都知事は、18歳以下の学費と医療費は、東京都が持つといったのである。
 
僕は、蓮舫がどういう公約を掲げてくるか、楽しみにしていた。

18歳以下の学費と医療費は、同じく東京都に任せてください(ここは小池と重なる)、さらにその上に……。当然、そういうことを考えるじゃないですか。
 
蓋を開けてみると、いやあ、ビックリしたなあ。若者の手取りを増やすことと、都庁の行革は自分に任せろ、の2つの公約のみ。これ、選挙で多数を獲るべきものじゃないでしょう。あとは7つの約束だから、ほかに5つあったけど、みな空疎なスローガンだけ。
 
お互いが公約を発表した段階で、勝負はついた。これは子どもでも分かる。
 
僕は大岡昇平の言に従って、ブログに書いたように、小池百合子を非とするので、投票には行かなかったが、Wさんの願い通りになってよかったな、と思った。
 
小池百合子の「18歳以下の学費と医療費はタダ」というのは、それを最初にやったところがある。それが明石市で、その自治体の長こそ、泉房穂なのである。
 
これは絶対に勝てると踏んだから、小池百合子は選挙の年に、この政策をぶつけてきたのである。
 
この本の第1章は「シルバー民主主義から子育て民主主義へ」とある。そこで泉さんはこういうことを言う。

「永田町の国会議員や霞が関の官僚にとって、税金は『年貢』のようなものかもしれませんが、明石市長だった私にとって税金は『市民からの大切な預かりもの』です。この預かりものをいかに有効に使わせていただくか。税金で雇われている者が知恵と汗を出し、付加価値をつけて市民に戻すのが行政の仕事。これが私の信念です。」
 
つまり小池百合子の「18歳以下の学費と医療費はタダ」は、我々の税金の使い道を、都民のマジョリティが、こういうふうに使ってほしいなあ、と望んだことなのだ。

冒険また冒険――『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(山舩晃太郎)(3)

山舩晃太郎の武器は、実はもう一つある。そしてこの武器は、今のところ彼一人しか使うことができない。それが「フォトグラメトリ」と呼ばれるものだ。
 
これは簡単に言うと、画像データをスキャンデータとして応用し、デジタルの3Dモデルを作り上げることだ。
 
ただ著者が教授から、フォトグラメトリを使って、沈没船の3Dモデルを作成してほしい、と言われた2014年ころは、まだソフトウェアの精度が低く、研究の主流にはなりえなかった。
 
そこで著者の試行錯誤が始まり、やがて一つの結論にたどり着く。ここは詳しく書かれているが、細かいところはかなり面倒でもある。およその概略は次のようになる。

「フォトグラメトリを、水中発掘中の現場の記録作業にもっと活用できないだろうか? それに、観察用だけではなく、精度の良い研究分析用のデータもフォトグラメトリから生成してしまおうではないか。」
 
これまでのフォトグラメトリは、水中遺跡をパソコンで観察するためだけに使われてきたが、もう一歩踏み込んだ活用法はないか、と考えたのだ。
 
そして2014年のグナリッチ沈没船プロジェクトで、新しいやり方をやってみたのである。著者は続いて博士論文でも、この新しいフォトグラメトリを発表した。

2015年に大きな国際学会が、ポーランドで開催される。このとき、最新のフォトグラメトリについて発表した著者は、これまで経験したことのない大きな拍手を浴びる。

「学会の最終日には閉会の総括として、代表者が私を名指しで『彼の発表を聞いて、水中考古学の新たな時代が始まったという確信を得た』と言ってくれた。そして、まだ大学院生だった私のもとに世界の研究機関から共同での発掘研究の依頼が来るようになった。一気に1年先までの予定が埋まってしまった。」
 
水中考古学の第一線の研究者は、複数の依頼が入るので、5,6カ国を飛び回ることも多い。しかしそれでも、一生のうちに関わる沈没船は、10~20隻がいいところだ。

それは陸上の考古学を考えても、分かろうというものだ。いや、陸上の遺跡を考えれば、もっと少ないだろう。
 
すると著者の、1年先まで満杯というのが、どういうことかお分かりになるだろう。
 
この本は実は、水中考古学に若者をリクルートするためにも書かれている。だから水中考古学者のふところ具合、つまり報酬についても書かれている。
 
世界中から依頼がくると、現地の物価が問題になる。日本よりもはるかに物価高のフィンランドやデンマークからも、逆にかなり物価の低いコロンビアやクロアチアなどからも、依頼がくる。
 
そうなると著者には、不変の値段設定ができなくなる。

「日本やアメリカからの依頼を100とすると、フィンランドやデンマークからの依頼を150~200、クロアチアやコロンビアなどの国からは30~50で引き受け、コスタリカやミクロネシア連邦などからは場合によっては10~20で引き受けることもある。」
 
それなら、フィンランドやデンマークからの依頼を、受けていればよさそうなものだが、こういう国はすでに水中考古学が盛んで、学術的に新しい沈没船はなかなか出て来ない。
 
逆にクロアチアやコロンビアなどは、報酬こそ低いが、これからスタートする調査が満載であり、これをスルーするという手はない。
 
また通常、飛行機代と食事、宿泊施設は、依頼主が、報酬とは別に用意してくれる。
 
結局、気の持ちようで、著者の生活はいつも楽しい。「なぜなら、『少ない給料で働いている』でなく『無料で海外旅行をしつつ、さらに小遣いも貰っている』と考えているからだ。これほどラッキーな職業はないと思っている」からである。
 
この本は、読み終わるのを惜しいと思った。そのくらい面白いのだ。
 
しかし、と僕はまた『冒険者たち』に戻ってくる。映画では沈没船ではなく、飛行機が海中に落ちた場所を探し当て、宝を引き揚げる。その際に財宝の金庫が、白骨化したパイロットの手に結び付けられていて、それを切り離すのに時間がかかった。
 
この白骨化した人というのは、沈没船でも見るのだろうか。水中遺跡がそれほど見事なら、白骨化した乗組員たちも、そのままで存在するに違いない。
 
積み荷を守る白骨化した死者たち。そこのところは、どういうふうになっているのか、というのが最後の疑問として残った。

(『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』
 山舩晃太郎、新潮文庫、2024年2月1日初刷)

冒険また冒険――『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(山舩晃太郎)(2)

まず初めは、著者がヨーロッパで研究・発掘拠点にしている、クロアチアである。クロアチアは、長靴の形をしたイタリアのふくらはぎ側を挟んで、アドリア海の反対側に位置する国だ。
 
今回は最初なので、詳しく書こう。

このときは、船の名前は分からなかった。沈んでいる場所は、直径50センチほどの小島があり、地元の人は「グナリッチ(小さな岩)」と言っていたので、「グナリッチ沈没船」と呼び、その全体をグナリッチ・プロジェクトと呼ぶことにした。
 
じつはこの船は50年ほど前に一度、発掘調査が行われていて、水中考古学会ではかなり有名な船だ。シャンデリアやガラス製品など、さまざまな積み荷が引き上げられ、その構成比から、16,17世紀にベネチア共和国の積み荷を乗せた船だ、ということが分かっている。
 
今回(2012年)の調査は、本格的な調査の前の「試掘調査」だったため、「10日間の試掘調査、その前後に5日間の準備と1週間の予備調査があり、全部で約3週間の日程となった。」
 
陸上の考古学の発掘調査が、どの程度の予定で進められるかは知らないが、水中考古学も結構な準備をするものだと思う。
 
さてそこで、発掘調査が始まるのだが、水中ではいろいろと制約がある。体への負担を減らすために、細かいルールが決められているのだ。

「水中での作業の後は最低2時間、体内に過剰に溜まった窒素を放出するための時間を取らなければならない。水深27ⅿ地点で行われるグナリッチ沈没船の発掘プロジェクトでは一回の海底での作業時間は30分、1日でも作業できるのは、一人当たりトータルわずか1時間なのである。潜水中に身体に溜まる窒素の量を考慮すると、これが1日に作業できる時間の限界なのだ。」
 
むろん、より深いところでは、作業時間はより短くなり、浅いところでは、より長くなる。
 
それにしても沈没船が、そうそう浅いところにあるはずもないから、1人当たりのトータルが、わずか1時間ほどというのは、予定を立てる上では厳しい。
 
水中で発掘してみなければ、どれほどの量なのか分からないだろうから、場合によっては終わりの見通しが立たないことも、あるのではないか。
 
潜るにあたっては、「グリッド(格子)」と「ドレッジ」が用意できて初めて、発掘作業のスタートラインに立つことができる。
 
グリッドは、水中での足場となる鉄格子である。

「組み立てると一つが2ⅿ×2ⅿの正方形になる。海底遺跡上に番号をつけたグリッドをマス目状に張りめぐらせていき、その番号で作業ダイバーを振り分けたり、発掘された遺物がどこから発掘されたものか大まかに管理したりするのだ。」
 
これは水中における、地図作成の基礎作業といえる。
 
ドレッジは、排水用のポンプを改造した「水中掃除機」で、ガソリンによってエンジンが動く。

「水中考古学の世界では、海底を直接スコップなどで採掘することはしない。このドレッジを片手で持ち、海底の土砂を吸引して、発掘するのである。」
 
グリッドとドレッジ、これが水中考古学の基本で、とにかく何か発掘されないか、慎重に掘り進んでいく。

「慣れてくると陸上でスコップを使うよりも早いスピードで掘れるようになる。確かに地道な作業だけどプチプチをつぶすようにハマってしまう。」
 
僕は突然、『冒険者たち』を思い出す。アフリカのコンゴ沖で、リノ・ヴァンチュラとアラン・ドロンが海に潜って宝を捜す、あの映画だ。ジョアンナ・シムカスが、ヨットで留守番をしていたな。
 
あの水中の宝探しは、グリッドを立てることを知らなかったために、えらい苦労をしていたのだ。

冒険また冒険――『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(山舩晃太郎)(1)

水中考古学は、今から60年ほど前に誕生した。今ではヨーロッパや北米をはじめ、世界中で水中発掘がおこなわれている、と著者の山舩晃太郎は言う。
 
その水中考古学者には、そもそもどうしたらなれるのか。
 
著者紹介から部分的に引いておく。

「1984年生まれ。2006年、法政大学文学部卒業後、渡米。テキサスA&Ⅿ大学・大学院で船舶考古学を専攻。16年、船舶考古学博士。」
 
やはり日本では無理だったんだ。日本の大学に講座があるなんて、聞いたことがないからねえ。
 
で、山舩氏は、どんなことをしているか。

古代・中世・近代の西洋船を研究する、考古学と歴史学の他に、水中文化遺産の3次元測量と、沈没船の復元構築が専門である。
 
よくわからないが、すごく面白そう。
 
しかしなぜ、水中考古学や船舶考古学が成り立つのであろうか。

「船が沈んだ際、行き着いた海底が砂地だった場合、積み荷の重さや、沈没船自体が障害物になって起こった海流の変化によって、船体に砂が覆いかぶさる。これにより海底に埋まる無酸素状態になり、有機物でも何千年も綺麗なまま保存される環境ができ上がるのだ。いうなれば、真空パックに入れて冷蔵庫に保管しているようなものだ。」
 
こういうわけで、水中考古学が成り立つに至ったのだ。これはもちろん、潜水技術の格段の進歩も大きい。

「海底から発掘された船体の木材や積み荷は、まるで昨日沈んだかのような綺麗な状態だ。陸上で発掘される遺跡とは比べ物にならない良好な保存状態のおかげで、これまでの陸上の発掘からは分からなかったようなことまで知ることができる。〔中略〕そのため沈没船遺跡は考古学者の間でよく『タイムカプセル』と呼ばれる。」
 
水中考古学についての概略は、こんなところだ。
 
ただし陸上の考古学とは一点違うところがある。沈没船遺跡は、その前後で連続性を持っていない。つまりそれを、時代の中に置くことができないのだ。

「どこかからやってきて、何らかの理由で沈んでしまった水中沈没船遺跡はその土地との連続性はほぼ皆無である。『時間から切り離された遺跡』なのだ。
 沈没船遺跡を発掘すれば、その瞬間に切り取られた歴史が鮮明によみがえる。そういう意味で、水中沈没船遺跡というのは考古学で発掘研究される遺跡の中でも異質なのだ。」
 
おなじ考古学といい歴史といっても、「水中」ではまったく違う。これがわずか60年前のこと。やるんなら、「陸上」じゃなくて「水中」、とならないだろうか。僕ならそうする、もう無理だけど。
 
以下の章では、エーゲ海、カリブ海、ミクロネシアなど、007も顔負けの、海の冒険譚が始まる。