第二章はそれから10年。その間、何も起こらない。もちろん細々したことは起こる。起こって、そして、落ち着くところに落ち着く。ちょうどNHKの朝の連続テレビ小説と、同じことだ。
陰のある、わけありの男が流れてくるが、そういうものとして配置されているだけ。理佐はこの男と縁ができる。そして第三章では、その男と結婚している。
そういう安易な成り行きはやめてくれよ、と思いながら読んでいくと、そういうことになっている。
仮にそうであるにしても、理佐がその男と結婚するまでが、人生の本体ではないかと思うが、そこは省略される。
いろんな出来事があり、それを記述する文章の張りもあって、ついつい読まされてしまうが、終わりまで読むと、何にも残らなかったなあ、とつくづく阿保らしくなる。
オビの文句に、「誰かに親切にしなきゃ、/人生は長く退屈なものですよ」とあるが、これは次のように変えたい。
「よってたかって親切にする場面だけでは、/読書も長く退屈なものですよ」
人生が描けてない、つまり文学作品でないことについては、端的に2つのことを指摘すればよい。
1つは、金の話を徹底的に避けていること。第一章で、高校を出たばかりの理佐の心配の大半は、金のことに尽きている。そう言うことが露骨に書いてある。
ところが、蕎麦屋に雇われるときの給与は、なぜか伏せられているのだ。これでは「第一話 一九八一年」にした意味がない。時はバブルの前兆期、そういう世間に背を向けて、つましく生きてゆく姉妹。そこを際立たせないと、「一九八一年」に設定した意味が、まったくない。
そういう細部を押さえないで、蕎麦屋のおじさんもおばさんも、いいひとだ、いいひとだと、ただ礼賛されている。バカにするんじゃないよ!
ちなみに金の話は、50年にわたる五章の中で、ただ一カ所だけ。理佐と結婚することになる男に向かって、蕎麦屋のおばさんが、ネネの世話は時給900円、というところだけ。
もう1つは、水車小屋のネネだ。ネネの創作は実に見事で、もしこれがなかったら、本当にのんべんだらりとした、NHKの朝ドラと変わりがなくなる。
そういう魅力的なネネだが、肝心なことが抜けている。
最初に世話をする理佐や律が、ネネにエサを一度も与えず、フンの世話を、ただの一度もしないのだ。大きな鳥であれば、まず第一にフンの世話があるだろうに。
登場人物も、すべてこのありさま、人物に陰翳を与えるところは、すべてカットしてある。その結果、登場人物はすべていい人になり、いいこともすれば悪いこともする、といった濃淡や影は、みごとになくなり、譬えてみれば、みな極楽浄土の人のようだ。
その結果、オビには、「人々の親切」以外に書くことがなくなる。
「キノべス!2024」や「本屋大賞」は、それで仕方がない。追い詰められている書店にとっては、売れているものが「正義」なのだ。たとえそれが、どんなに安っぽい、いずれ読者が離れていく「正義」であったとしても。
問題は谷崎潤一郎賞だ。そう思って見てみると、『万延元年のフットボール』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『夢の木坂分岐点』は遥か昔のこと。だったら谷崎賞は、受賞作なしで通せばいいのに、ここでも追い詰められた出版界は、どうしようもなく『水車小屋のネネ』を選んでしまったのだ。
付け加えておけば、「キノべス!2024」や「本屋大賞」が、全部クビを傾げるものだというのではない。この間の最大の収穫、川上未映子『黄色い家』は、どちらにもちゃんと入っている。
要は売れているという以外に、基準がないので、つまり批評がないので、ミソもクソもごった煮になるということだ。
とはいえ津村記久子の小説は、これからも読むだろう。これだけはっきりとした文体を持った人なのだ、失敗したものもあれば、成功するものもある。次は期待している。
(『水車小屋のネネ』津村記久子、
毎日新聞出版、2023年3月5日初刷、2024年1月20日第9刷)