このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(6)

後の4人は、谷川俊太郎、岩田宏、黒田善夫、吉岡実である。寺山は、谷川俊太郎、黒田善夫、吉岡実はすんなり選んだが、岩田宏を選ぶときに、田村隆一、長谷川龍生、北村太郎を思い浮かべて迷ってしまう。
 
つまりベストセブンはシャレであるとして、それ以外にも何人かの詩人が、同列、同ランクに入ってくるのだ(そういえばこのブログの最初に、長谷川龍生の「恐山」を引いている)。

そういう詩人たちのいちいちを述べるのは、骨である。ここでは寺山の、「実証不能のいいまわし」という、田村隆一のこんな詩句を挙げておこう。

 「ウイスキーを水でわるように
  言葉を意味でわるわけにはいかない」

谷川俊太郎と岩田宏については、詩を1篇ずつ引用しているだけだ。谷川については、もう十分すぎるほど書いた、と寺山が言っている。
 
岩田宏については、この本の別のところで、「神田神保町」という詩を引用している。私はこの詩が好きだ。

 「神保町の
  交差点の北五百メートル
  五十二段の階段を
  二十五才の失業者が
  思い出の重みにひかれて
  ゆるゆる降りて行く
  風はタバコの火の粉をとばし
  いちどきにオーバーの襟を焼く
  風邪や恋の思い出に目がくらみ
  手をひろげて失業者はつぶやく
  ここ 九段まで見える子の石段で
  魔法を待ちわび 魔法はこわれた
  あのひとはこなごなにころげおち
  街いつぱいに散らばつたかけらを調べに
  おれは降りて行く」(抜粋)

これは大学時代に、同級生のFが教えてくれたものだ。Fは今でも詩人である。
 
私は岩田宏というと、すぐに本名の小笠原豊樹を思い出す。その名前で厖大な翻訳がある。『ウィチャリー家の女』や『さむけ』のリュウ・アーチャーもの、つまりロス・マクドナルドの作品は、この人の翻訳なしには考えられない。小説などもたくさんある。
 
というふうに、岩田宏論を書こうとすれば、このブログの倍では効かないスペースがいる。
 
吉岡実は、ここにも引かれている「僧侶」を、学生のころから知っていた。

 「四人の僧侶
  庭園をそぞろ歩き
  ときに黒い布を巻きあげる
  棒の形
  憎しみもなしに
  若い女を叩く
  こうもりが叫ぶまで
  一人は食事をつくる
  一人は罪人を探しにゆく
  一人は自瀆
  一人は女に殺される」(抜粋)

吉岡実は筑摩書房で、少しの間だけ一緒だった。私が入って、筑摩は4か月で倒産し、吉岡さんはすぐに辞められた。考えてみれば、挨拶しかしたことはない。部署が違ったから。もう少し同じ会社にいれば、と思わずにはおられない。
 
黒田善夫については、暗唱できる詩もなく、思い浮かぶ詩句もない。
 
さてそこで、このサブタイトルは是か非か、という最初の問いに戻ってくる。

荒川洋治はこう述べる。

「『ユリシーズの不在』とはいったい何だろう。日本人の大多数はギリシア神話に暗い『風土』だから、これは無理。副題の失敗例かと思われる。『ユリシーズ』もわからないうえに『不在』がくると、よりわからないという、ぼくのような人は他にもいるだろう。」

だからサブタイトルとしては、失敗だというのだ。
 
寺山が一カ所、副題に関連して書いている。

「思えばホーマーの『オデッセウス』は、遠大な記号の世界への冒険を果したものである。彼は直径五〇センチにも足りない書斎のテーブルを無量の大洋と見なすことによって、自分をオデッセウスに化けさせたのだ。」
 
まあ、なんだか結局は分からない。本文では「オデッセウス」なのに、副題としては英語の「ユリシーズ」になっているのも、なんだかよく分からない。彼の頭の中には、ジェームズ・ジョイスが浮かんでいたのか。
 
寺山のサブタイトルを、そのまま読めば、「書斎のテーブルを無量の大洋と見なすことによって、自分をオデッセウスに化けさせた」戦後詩人はいない、ということになる。
 
たしかに『荒地』から『凶区』まで、寺山は集団の戦後詩を、全般的に否定している。
 
しかしそれなら、谷川俊太郎や吉岡実を称揚したのは、何だったのか。
 
結局、このサブタイトルはない方がよいか、と問われれば、そんなことはない、と私は思う。『戦後詩』というタイトルだけでは、まったくニュートラルで、どこにも引っ掛かりようがないのだ。
 
寺山修司は、「ユリシーズの不在」と付けても、誰にも分からないことを、分かっていたのではないか。その上で、渦巻く内面の気持ちを、なんとか伝えたかったのではないか。

(『戦後詩―ユリシーズの不在―』寺山修司、講談社文芸文庫、2013年8月9日初刷)