このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(4)

『凶区』は1964年に創刊し、1971年に「廃刊宣言号」を出して活動を終了した。天沢退二郎、渡辺武信、鈴木志郎康たち詩人が中心になり、ほかに金井美恵子、菅谷規矩雄らがいた。
 
私は学生時代、下北沢の古書店で、『凶区』のバックナンバーを見たことがある。当時はまったくの貧乏だったので、1冊も買うことはなかった。『凶区』という名にインパクトがあり、装幀も金をかけずに主張があった。
 
寺山修司は『凶区』を論じる中で、作品の引用はほとんどせずに、同人たちの日々の記録の抜粋を挙げる。

「×月×日 渡辺、大岡信に天沢の病気を報告。凶区はユニコンが満員でふられてアボニを発見。ホットドッグとミルク一〇〇円にカンゲキ。そのあと出て来たコブ茶のサービスに感泣。
 ×月×日 とうとうアメリカ原子力潜水艦シードラゴン佐世保へ入港。
 ×月×日 渡辺『ウェストサイドストーリー』を観る。
 ×月×日 野沢、藤田と下北沢で会い、北海道行きを引きとめムード。あとから来た彦坂と3時間話す。
 ×月×日 藤田、北海道へ出発。なお謎のある旅!」

これは『凶区』に毎号、4,5ページを取って公表される「凶区日録」の抜粋である。

「『凶区』は、私と同年代の詩人たちによる、のびのびとしたリトルマガジンで、詩のほかに作家論や映画のベストテン、ノンセクションのベストテンまでも載せている。いわば書斎派六本木族の機関誌といった感じのタイプ印刷誌である。」
 
だから詩人が多いとはいっても、どこかサロンふう雑誌のところがある。
 
それでも『凶区』の読者は、同人の知り合いばかりで、近況報告の葉書でも読むようなつもりで、この雑誌を読むのではあるまい。

「私が、この〈日録〉にこだわるのは、ここに戦後同人誌活動の一つの典型を見る思いがするからである。ここには『映画を観た』『本を読んだ』『万年筆を買った』という事柄はあるが、『怒った』『笑った』『泣いた』という感情の記録はない。なぜなら、事柄は連帯できるが、感情や欲望は連帯できがたいからである。」
 
私は先の「日録」を読むや、ただもう気恥ずかしさでいっぱいになり、身の置きどころが無くなる。それを公表して堂々としておられたのは、各人が自信を、今となってはよくわからない故ない自信を、持っていたからだろう。
 
しかし寺山は、どこまでも冷静である。

「私は、このできがたい感情の連帯、欲望の公約数といった広場へふみこもうとしている〈日録〉ならば、そこにこそ同人誌の本当の意味を認めるだろう。だが、それぞれが各自の性的問題にも(政治的関心の方向の差にも)踏みこまず、不可侵のドアをへだてて夏休みの宿題の日記帳を書いているのでは、いかにも『慰戯』の域を出ないと考える。〔中略〕自慰やエゴイスティックな個人的感情のことなどまで報告しなければ、こうした〈日録〉の意味はないのではなかろうか。」
 
書き写していると、寺山修司も、どこまでも冷静というわけでもない、と思い直す。