元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(6)

9月1日は、関東大震災が起こった日である。大岡昇平は1923年のこの日、東京にいた。14歳だった。
 
大震災を直接体験した人の声を聞こう。

「災害は無論なるも、関東一帯にて在日朝鮮人七千―二万を殺せし日々にして、……」(9月1日)
 
こういうことが事実として起こったのだ。この歴史的事実が、中学の日本史教科書に載っていないことが、高校教科書問題をきっかけに判明したのだ、と大岡はいう。
 
続いてこういう記述がある。朝鮮の人と間違えられた、日本人の話である。

「筆者の大向小学校の先生、丈高く、目大きく、縮れ毛なりしために、自警団にバビブベボといえといわれいるところへ通りかかり、『たしかに、大向の先生だよ』と証言せしもきかず、発音を強要し続けるを見て、大人はなんてばかなんだろう、と呆れ返る。」(9月1日)
 
このあとも大人の醜さが、露骨に吹き上げるのを見た大岡の結論は、「あれだけの大事件を教えないのはよくない」、というものだ。
 
で、話は飛ぶが、これがいまの東京都知事選につながる。

目下、選挙戦まっ盛りで、2,3日前に選挙公報が配られたが、これが異様なものだった。50人以上いる候補者のうち8割以上は、都知事候補というよりは、どちらかといえば早く病院へ行った方がいい、という類いだった。あるいは相対的なものだとすれば、私の方が近々病院送りかもしれない。
 
その結果、現都知事の小池百合子が、えらくまともに見えた。

その小池が、大震災の日に殺された朝鮮人の追悼式に、これまでのところ追悼文を送っていない。
 
それまでの都知事はすべて、9月1日に追悼文を送っていた。小池の言い分は、個々の追悼はやらない、というものだ。
 
これ、違うでしょうが。朝鮮人が殺されたのは、大震災で死んだのではなく、民族差別によって殺されたのである。つまり個別の追悼式は、やる必要があって、やっているのだ。
 
しかしまあ、そういう趣旨の追悼文が書けなければしょうがない。そのために、かえって厄介な問題が起こりそうだ。

しかし、だから小池百合子は、都知事候補としては許容できない。だって大岡の言うとおり、「あれだけの大事件を教えないのはよくない」からだ。
 
これまで田中晶子と結婚してからは、選挙があるたびに、投票に行ってきた。一度も棄権したことはないのだが、今度ばかりはやむを得ない。
 
筋を通すということについては、大岡昇平は、NHKとの間で、ドラマ化を巡って、原作料をはっきりさせようとする。権利としてもらうのではなくて、辞退するのだ。

「一〇時すぎ、『新・事件』の演出者深町幸男氏の自宅に電話。『大岡昇平案』の呼称とギャラ(一昨年『原作』と同額なりしも、『成城だより』にて申訳なし、と書きてより、半額となる)の辞退申し出る。弁護士その他の人物を貸しただけにて、悉く脚本家早坂暁の工夫による。〔中略〕『事件』は小生のもの、『新・事件』は早坂氏のものなり、と主張す。」(9月15日)
 
ここでも、話の筋道ははっきりしている。なによりも『成城だより Ⅱ』に書いておくことで、はっきりさせている。
 
しかし一方、世界の政治を見渡せば、どん詰まりに向かって、加速していることは間違いない。

「米のMX配備集中計画(地下移動)に対して、ソ連同じような新型ICBMの配置計画を発表す。現代が人類学上の危機にて北半球人類、絶滅の道を歩みあること確実なり。」(12月7日)
 
そういうことだ。
 
しかしなお個人的には、希望の一瞬が訪れることもある。

「六十五年を読書にすごせし、わが一生、本の終焉と共に終わらんとす。〔中略〕本は思想を活字に固定して、繰返し検討に堪ゆ。あまり悪くない一生を送ったような気がして来た。ふしぎな歓喜の一瞬だった。」(12月10日)
 
私の読書は、10年前の脳出血のリハビリで、大した本も読んでない。だから一生の終りに、大岡のような一瞬は、たぶんやって来ない。
 
それでも大岡昇平に、「ふしぎな歓喜の一瞬」が訪れたことは、なにか胸が一杯になるような話だ。

(『成城だより Ⅱ』大岡昇平、中公文庫、2019年9月25日初刷)

元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(5)

丸山圭三郎の『ソシュールの思想』は、まだ尾を引いている。柄谷行人の書評を読み、家庭教師をつけてゲーデルを勉強したが、ますます分からない。
 
大岡昇平の読解力が減退しているのか、柄谷行人が、「へんな数学用語で話をこんぐらかしているのか」、あるいはその両方のためか。
 
大岡の若い頃に、小林英夫訳でソシュールの『一般言語学講義』が出たが、当時はランボー、ボードレールの言葉の魔力にやられて、ソシュールは「形式的に見えたので」、関わることを良しとしなかったのだ。

「それにしても『ソシュールの思想』を読むに、その思想の柔軟性と共に、生涯本を書かなかった潔癖、簡素なる生活に感服す。おれもこんな風にやれなかったものか、と反省してみたが、もうだめだ、との絶望のみなり。なぜおれはこう柄が悪いのか。」(5月2日)
 
まあ「成城だより」という、日記まで出版しているのだから、そういう気持ちも分かる気がする。でもおかげで、私はこの本を読んで、にたりとしているのだ。

「日記」というには重すぎる話もある。

「小生の母は芸者なれど、その業を嫌い、自殺をかけて、父と結婚す。前歴たたりて終身苦労す。ところで昭和五年四十七歳にて死せしが、末弟保九歳にして、父には愛人あり。死の二日前、言葉を改めて医師に懇願す。
『私、いま死ぬわけにいかないんですが、なんとか助かることはできないでしょうか』」(6月7日)
 
さらりと書いているが、大岡昇平はこの両親と、それを取り巻く環境から出てきたのだ。
 
この段は初めに、三枝和子の『隅田川原』を読んでいて、つい母のことが思い出されたのである。三枝の本は、もう1篇「江口水駅」というのが入っていて、大岡はこれに痛く感心している。

「戦争と子捨て、子殺し、強姦、慰安婦のモチーフありて、ひとごとに非ず。連続的に眼うるむ。」(6月7日)

大岡昇平には、「反戦なくして女性解放なきはたしかなことなり」、という信念があった。

三枝和子さんは懐かしい。新宿御苑前に、「エイジ」というバーがあって、そこに三枝さんと重兼芳子さんが、いつも連れ立って飲んでいた。

「エイジ」のママの清水弘子さんが、あけっぴろげな性格で、たちまち私も、お2人と仲良くなった。

いまはもう、三枝さんも重兼さんも、清水弘子さんも、皆いなくなってしまった。
 
現在のイスラエルのガザにおける殺戮と、同じようなことも起こっている。

「ベイルート包囲のイスラエル軍、市の南部のPLO本部を目指して、十二日の停戦協定に反して進撃を続く。このアメリカの手先なる武装国家、アメリカのコントロール利かずとせば、危険この上なし。〔中略〕イ〔=イスラエル〕軍ベイルートを占領しても、レバノン新政府出現しても、問題は解決するはずなし。イスラエルまた破産すべし。」(6月15日)
 
中東のこの辺りは、どこをどう解きほぐしたらいいのか、まったく見当もつかない。むろん大国が絡んでいる。ということは、日本のような国も絡めとられている。
 
それなら何とか、態度だけでも決めなければなるまい。そういうつもりでニュースを見るが、どうしていいかわからない。
 
大岡昇平は最後に、こんなセリフを投げつけている。

「人間は神の失敗作なり、との誰かの言、立証されつつあり。」
 
言い換えれば、人間の条件は超えられないものだ。私も時々そういうふうに思う。

だがしかし、「人間の条件は超えられない」ということを、徹底して肝に銘じれば、その段階でよけいな殺戮が、一つは減るのではないか。そういうことを、まだ考えている。実に甘いということは、分かっているのだけど。

元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(4)

『成城だより』は、もともと山田太一の『月日の残像』に、印象的な場面が引用されていたので、それに惹かれて読んだのだ。
 
それはこういうシーン。蕎麦屋に入り、ショルダーバッグとステッキを持っていたので、4人掛けのテーブルに坐ろうとすると、「お一人ですか、そんならこっちへ」と、カウンター席に案内される。
 
大岡昇平は「むっとして『客に坐るところ指図する奴があるか、どこへ坐ろうとおれの勝手だ』」と、席を蹴って出る。
 
山田太一は、浅草の大衆食堂のせがれだから、敬愛する大岡昇平が、こんなことをするんだ、と大変なショックを受ける。
 
この場面が、その後の成り行きも含めて、興味を掻き立てられたので、『成城だより』を読むことにしたのだ。それが『Ⅱ』に出てくる。
 
大岡は店を出た後で、たちまち後悔する。

「そば屋の『お一人ですか、そんならこっちへ』『客に坐るところ指図する奴があるか、どこへ坐ろうとおれの勝手だ』の問答、タクシーの列に並ぶ間も、ワグナーの主調低音の如く、脳低にひびきて、不愉快。少し頭が変になって来たのではないかの不安あり。」(3月13日)
 
大岡はちゃんと反省しているのだけど、そしてそれは山田太一も認めるが、前段の席を蹴って立つところが、山田にはショックだったらしい。
 
私はもちろん後段の、自分の頭を疑うところが可笑しいし、また著者とほぼ同年齢であることを考えると、わが頭を顧みてヒヤッとする。
 
しかし自分の頭を疑っても、どうにもならない。とにかく足搔くしかない、次のように。

『中央公論』で柄谷行人が、丸山圭三郎『ソシュールの思想』を書評していて、その中に「不完全性定理」なる言葉が、アナロジーとして頻発する。たとえばこんなふうに。

「数学基礎論の領域にて、体系化された知識に限界あり。『自分自身がおかしくないことは、自分自身では証明出来ない』とあり。」(3月21日)
 
そこで竹内外史『数学的世界観』を注文したのだが、これがなかなか難しい。どうすればいいか。

「冨永氏に電話して、月二回、これをテキストにして、数学を教えて下さい、月謝払います、と懇願す。〔中略〕月末開講ときめたれど、おれは老先短き身にいまさら数学をやって、どうしようというのだろう。頭がすっきりするからだが、それだけ頭が変になってるんとちゃうか。」(3月21日)
 
ここでも最後は、頭が変ではないか、の思いが押し寄せてくる。
 
大岡昇平が73歳にして、突然その思いに駆られたとすれば、私はそういうふうになったことはないが、そろそろその心積もりをしておいた方がいい。
 
それとは別に、大岡は柄谷行人を、高く買っていることが分かる。書けばいちいち批判的だが、これは見ようによっては、対抗心の現れともいえる。柄谷行人の数学がどんなものか、先生に習っても、見てやろうというところ、見方を変えれば、大いに柄谷を買っているのだ。
 
しかし相変わらず、あちこち体はよくない。

「われここ数年、病弱にて、書くか読むかしかすることなし。仕事量却って増加しあり。ところが、自分では使うことなければ、遺族のために働きあるようなものなり。こんな汚ねえ財布持ってることねえ、春向きスウェーター買いちらかしてやる、と突然、躁を発す。」(4月15日)

「こんな汚ねえ財布」というのは、大岡はあるとき、恥ずかしいほど汚い財布を持っていることに、気づいたというのだ。
 
だいたい70過ぎの爺さまに、財布は不要だ。この辺は、私の方が悟っている。大岡昇平は私に比べると、ヨタヨタしてても、まだ自由が利く。それでこんなふうに、「躁を発す」ることがあるのだ。
 
私の方は、もう財布も持たない。外へ出るときは、ケータイも時計も持たない。すでに半分、この世を抜け出している、といえるか。

元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(3)

大岡は文芸の最前線でも、果敢に発言している。文芸誌の中でも、『群像』の合評会に対しては容赦がない。

「柄谷行人の戦略らしき節はあるも、作家中上健次、意味のない相槌を打つはふがいなし。六年前の『枯木灘』のホープを対談や合評会でおだてごろしにしてしまった文壇の毒気おそるべし。」(2月6日)
 
これは『群像』の合評会で、批評作品のみ3編を取り上げ、小説は全部無視したことが発端になっている。
 
大岡はこれに怒った。

「これは現役作家には侮辱ではないか。七誌数十篇ありて、合評するに価する作品、なきはずはありや。作家大いに怒れ、立ち上がれ。」(2月6日)
 
相変わらず勇ましいが、柄谷行人はどうしていたのだろう。
 
私は筑摩書房から、法蔵館に変わったばかりの頃で、文芸は遠いところにあった。
 
大岡は続けて、合評会で取り上げた3点のうち、及第点を得たのは蓮實重彥『物語批判序説』のみであるのは、実にナンセンスだと言い切る。これではたんに仲間誉めではないか、と。

「七誌数十篇」あって褒められるのは、蓮實重彥の批評作品みだとするのは、要するに怠けて全部を読んでいないか、その手前で文芸全般に絶望しているからに違いない。
 
大岡は、それでは合評する意味がない、批評家としての責任が果たせない、と言ったのだ。
 
もっともその蓮實重彥は、自身の著作物である「高価なる映画の本」を、いつも大岡に贈ってくれる。このたびはトリュフォーによる、ヒチコックのインタヴュー、『映画術』で、翻訳ではあるが特に面白かった。

「『裏窓』の唯一つの遠景の入れ方、『めまい』の高所恐怖症的俯瞰景、ミニセットでカメラを引きながら、アップにする、などなど、これだけ互いに手の内を明かし合って話し合うこと、小説家同士にはない。好意的に解釈すれば技術が内在していて、言葉になりにくいからだろう。合評会の興味は、こういう細部についての技術批評の行われること」にあると言える。(2月9日)
 
大岡は、個々の映画についても論評している。

「『鳥』が恐らくヒチコックの最上の作品なれど後半四分の三ぐらいのところで、突然鳥の視覚となって、ガソリンタンクに急降下するクライマックスの効果を出すために、我慢するテクニック談面白し。最後に近く、渚に小鳥無数にたむろしあるシーンの啼き声は、電子音楽なりし由。」(2月9日)
 
蓮實先生が大岡昇平に本を贈るのは、大岡と小林秀雄の関係、そして東大仏文の小林と蓮実先生の関係を考えれば、まあ当たり前のことだ。
 
ところで、最高傑作が『鳥』であるとは、ヒチコックも見くびられたものだ。『レベッカ』とか『裏窓』とか『サイコ』とか、いろいろあるだろうに。
 
なお文学批評については、こんなことも述べている。

「数学を知っているものは、あまり数学用語を使わない。吉本〔隆明〕氏はその理論に数学的操作の痕跡を残しているが、工学的精神の文学への侵入をよいこととは思っていない。私はベクトルとか位相とかいう字はこわくて使えない。半端な数学用語を使う批評家は信用できない。」(2月14日)
 
さて、誰のことであるか。

元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(2)

雑本の感想もあるが、これも一筋縄では行かない。

「タクシー運転手に行き先を告げても、『承知しました』とも『わかりました』ともいわず、麻薬常習者ではないか、とこわくなることがあるが、さにあらず、『方言』を使うのが、嫌な場合が多いとのこと、など教訓的な本なり。」(1月12日)
 
これは夜ベッドで、『東京人考』を読んでいて。

そこから甲子園の高校野球の、贔屓と嫌いの話になる。

「東海大相模は最も嫌いなり、というのは、昔ゴルフをやっていた頃、相模カントリー七番右側が運動場にて、一年中どら声を出して応援の練習やってる。うるさくて、プレイできず。」
 
なんだ、逆恨みか。しかし私も、東海大や日大のチェーン展開している付属高校は、好きではない。
 
個人的に懐かしいところもある。

「日本の探偵小説にては、綺堂『半七捕物帳』戸板康二の『雅楽物』のほか認めず(他は赤毛物なりとす)、翻訳を信用せず、ハドリー・チェイスとパトリシア・ハイスミスの仏訳のみ全部取り寄せている人間あり。成城在住の仏文学者山田𣝣〔やまだじゃっく〕なり。」(1月13日)
 
山田𣝣先生は、仏文に入ったときの主任教授だった。授業は『狐物語』の講読だった。私は、講義にはろくに出なかったが、それでも出ていた回は面白かった。𣝣〔じゃっく〕という名は、森鷗外の孫であることを示す。先生は、今から30年くらい前に亡くなられた。
 
大岡昇平は、京大仏文の師匠筋であり、恩義ある生島遼一、桑原武夫の両先生に、スタンダールの『アンリ・ブリュラールの生涯』の誤訳を指摘している。

「両先生は昭和初年の『赤と黒』以来のコンビで、生涯のしめくくりとしての再コンビとの、感傷的理由はわからぬではない。私も最近ものを書くと、必ず二つか三つの勘違いか誤記があるくらいぼけてしまい、他人のことばかりいえないが、ほかに両先生として考えられぬ誤訳、脱落がある。後進に再検させることをおすすめする。」(1月30日)
 
大岡は生島・桑原先生に誤訳を指摘して、堂々たるものだが、これが学界の中にいれば、こうはいかない。岩波の編集者に聞いたことがあるが、生島遼一・桑原武夫・訳のスタンダール本の改訳を作ろうとして、杉本秀太郎に依頼したところ、しばらくして、改訳するところはありません、とまっさらの訂正原本を送り返されたという。自由闊達で聞こえた京大仏文科で、これなのである。
 
それはともかく、大岡昇平は、そこに至る3つの数学的誤訳を、理詰めで説いている。3番目の間違いなどは、2次方程式 ax2+bx+c=0 の、根を引き出す過程を問題にしている。
 
そしてそこから、こんな話になって行く。

「私も中学三年、この公式を学んだ頃までは数学少年であった。高校の微積分は怠けたが、後に『集合論』『群論』の美しさに感嘆し、数学は推理小説と共に、私の長続きした趣味になっている。妻の妹や、娘、息子の中学の教科書を通読した。」(1月30日)
 
私は「集合論」や「群論」はやらなかったが、高校生のとき、数学Ⅲの偏微分まではやった。これは、夢中になって問題を解いた記憶がある。また非ユークリッド幾何、つまりリーマンやボヤイの幾何学の初歩の初歩は、物理系の本を読むときに役に立った。
 
東大は2次試験に数学がある。この年は数学がやたらと難しく、あとで平均点を見てみると、なんと1桁だった。私は、完全に解いた問題は1つもなく、中学・高校で数学に使った時間を返してくれ、と逆恨みを言いたい気持ちになった。それ以来、まともな数学の本は読んでいない。

数学を「長続きした趣味」に挙げるとは、大岡昇平の面目躍如! という以外に言いようがない。

元気が湧いてくる――『成城だより Ⅱ』(大岡昇平)(1)

大岡昇平の『成城だより』は、個人的に元気の湧いてくる本だった。ちょうど今の私と同じ、70歳のときの日記なのだ。

これはその続編。
 
70を越えて、身体は心臓をはじめ、悪いところだらけ、もうだめだと弱音を吐きながら、それでも「富永太郎全集」をなんとか完結させることを考え、それ以外の仕事もこなしていく。
 
そういう日記だから、読んでいて思わず力が入る。

『成城だより』は1979年11月から80年10月まで。

『成城だより Ⅱ』は、1982年1月から12月の1年間を記す。
 
大岡昇平は犬を飼いたい。夫人も犬好きである。しかし犬は早く死ぬ。73歳の大岡昇平は、犬よりも早く死ぬとしても、10歳若い妻は、これから飼う犬を、看取ってやる公算が大きい。それは嫌だ、と老妻は言う。

「心不全、白内障、ひょろひょろ歩き、など七つの病気を持ち(一年の間に右目角膜溷濁〔こんだく〕、糖尿病進行あり)、老妻の犬に対すると同じ程度の世話がなければ生きていかれぬ一家の厄介者と化したる亭主には、何もいえない。」(1月1日)
 
これが大岡昇平の、客観的自己認識であり、それは要介護の私とも、なんとなく重なりそうだ。すくなくとも、「犬に対すると同じ程度の世話がなければ生きていかれぬ一家の厄介者」、という認識は大事だ。
 
しかし、たんなる「一家の厄介者」ではない。

「午後より、埴谷雄高、本多秋五、大江健三郎、中野孝次、秋山駿、窪島誠一郎、太田治子の諸氏、老人宅に集ってくれる。六年前から、心不全のため風邪をおそれて冬期外出できぬ老人を憐み、正月に訪れてくれる人がだんだん増えたのである。」(1月7日)
 
みな忙しい人たちである。正月明けに、遅れた年始の挨拶でもあるまい。「老人を憐み」というのは、衒いを隠した言葉である。
 
あるいはまた別の日、この日は岩波、新潮社、講談社が来る。もちろん年始の挨拶ではない。

「一四時岩波の星野君来たり、著作集打合わせ。最初は評論シリーズだった話が、小説を加えた著作集となる。〔中略〕
 一五時、新潮社梅沢君に『ながい坂』の訂正稿を渡す。〔中略〕
 一六時、講談社出版部、小孫君、『群像』籠島君来る。小孫君に『資料・現代の詩』を頼む。〔中略〕詩壇の派閥の間に伍して詩誌編集者の、苦労、文壇の比に非ず、とのことなり。宗匠制度まだ残りあるに非ずや。」(1月11日)
 
講談社の小孫さん、籠島さんは懐かしい。籠島さんは『群像』編集長になる前か。いずれにしても、20年以上前のことだ。
 
それはともかく1,2時間おきに、各社の編集者と会って仕事の話をするとは、見上げたものだ。まったくの健康体でも、かなりくたびれそうだ。

死にかけの老人の話は、どこへ行ってしまったのか。この分では、大岡の客観的自己認識も怪しいものだ。
 
これを読んでいると、私も漲るものがある、というのが分かってもらえよう。もっとも私の場合は、まったくのカラ元気で、気がつくとプシュっと抜けているが。それでも、たとえ瞬間的であろうと、自己が充実するのは、気持ちがいい。

曲がり角で逝ってしまった――『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(坪内祐三)

これは、『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。』と対になるものだ。『右であれ左であれ……』の出たのが、2017年12月22日。坪内祐三が亡くなったのが、2020年1月13日。
 
するとこんどのは、2020年7月15日の発行だから、最初から姉妹編として対になるものではなく、死んだ後に雑誌の記事を集めて、1冊にした可能性が強い。
 
というような経緯を、編集者が書いておくべきではないか。
 
これは文句を言っているのではない。むしろ坪内さん亡きあと、編集者が選んだにしては、あの難しい坪内祐三の体臭まで、微細に汲み取っていて素晴らしい。それにこのタイトル、坪内さんが付けたとしか思えない。
 
あるいは夫人の佐久間文子さんも、かなり深いところまで編集に携わったのだろうか。
 
そういうことが、あったのかなかったのか、やはり書いておくべきだと思う。
 
本の全体は、一時代を築いた文人と、その周辺の人々を、追悼するものだ。

人だけではなく、書店が消えていき、坪内さんの主戦場だった、雑誌が消えていくさまも、痛恨の筆でもって書き留められている。

「第1章 文壇おくりびと」は、福田恆存、山口昌男、常盤新平、大西巨人、野坂昭如などを点描する。どれも坪内流というか、しみじみしていて、ちょっと悲しく、温かい気持ちにさせる。

「第2章 追悼の文学史」は、小林秀雄、正宗白鳥、長谷川四郎、十返肇など。身近に接した人たちではないから、ちょっとかしこまって追悼の「文学史」なのである。
 
第3章の「福田章二と庄司薫」は、長さも結構ある異色の文芸批評。しかし庄司薫は全部読んだはずなのに、僕はもうあらかた忘れていて、申し訳ない。
 
あとは出版をめぐる環境というか、それを取り巻く空気を考察する。「第4章 雑誌好き」、「第5章 記憶の書店、記憶の本棚」、「第6章 『東京』という空間」、「第7章 『平成』の終り」と続く。読書をめぐる空間と時間が、目まぐるしく変わりつつあるのを書き留めている。
 
たとえばこんなふうだ。

「今、本の世界は二極化してしまった。
 三千部(以下)の世界と三万部(以上)の世界に。〔中略〕
 三千部と三万部の間、すなわち八千部から二万部売れる新刊が存在する余地は今の書店状況にはない(それらの本を支えてくれたのが、昔は目にした町の書店だったのだ)。」
 
そこで坪内さんは、地域の本屋として、下高井戸にあった近藤書店や、経堂駅のキリン堂書店などを思い出す。
 
僕は烏山の駅近くにあった、烏山書房を思い出す。女房と2人で書棚を見ていて、「みすずのハンナ・アーレントがないね」と小声で言うと、いつの間にか店の人が寄ってきて、耳元で「ハンナ・アーレントの××と○○は、1週間以内に入ります」と言って、なんでもないように離れていった。そんなことは初めてで、あとにも先にもないことで、ドキドキした。
 
坪内さんの近藤書店やキリン堂書店、僕の行きつけだった烏山書房などは、とっくにない。
 
でもね、僕はもう要介護の身で、八幡山の啓文堂を見てまわるのが精いっぱい。都心の三省堂やジュンク堂には、行くことができない。そういう身としては、アマゾンや「日本の古本屋」を筆頭とするネット書店は、最後の命綱なのだ。

(『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』坪内祐三、
 幻戯書房、2020年7月15日初刷)

どう考えたらいいのか――『南海トラフ地震の真実』(小沢慧一)(3)

地震予知は、今では行われていない。地震予知の批判のきっかけを作ったのは、ロバート・ゲラー東大名誉教授である。

「ゲラー氏によると『地震の前兆現象』といわれているものは1万件以上あるという。いずれもその現象が起きれば必ず地震が発生するという再現性があるものではなく、因果関係が証明されたものはないという。米国では1980年代に予知の研究はほぼ行われなくなった。」
 
ゲラー氏はまた、「地震の前兆現象」はオカルトみたいなもの、予知が可能と言っている学者は全員、「詐欺師」であると言い切る。ゲラー氏は、日本の学者の「地震ムラ」からは弾かれた存在だから、言いたい放題である。
 
それでも90年代半ばまでは、地震予知の研究をしていると言えば、他の分野よりも、よほど楽に研究費が出たという。
 
そういう流れに終止符を打ったのは、95年の「阪神・淡路大震災」であった。関西では大地震は起こらない、といった「安全神話」ができていたが、それはもろくも崩れ去った。
 
当時、科学技術庁長官の田中真紀子は、地震予知推進本部長を兼ねていたが、「地震予知に金を使うぐらいだったら、元気のよいナマズを飼ったほうがいい」と言い放ったという。
 
面白いなあ。しかしこういう威勢のいい、完膚なきまでの批判は、なにか引っかかるものがある。
 
それはともかく、「地震予知推進本部」は「地震調査研究推進本部」に看板を掛け代え、政府の目標も地震の「予知」から、「予測」に切り替わった。
 
さあそれで、何が変わったのだろうか。ピンポイントの地震予知の代わりに、向こう何十年かに、何パーセントの確率で地震が起こるというのは、文字通り看板の掛け代えの意味しかないのではないか。著者はそう考える。
 
一方、ある学者はこう言う。

「地震防災に貢献してほしいと手厚い予算を付ける国の意志に反し、研究者は地震学を防災へ役立てようという意識はそれほど強くない。本気で予知を目指している研究者なんていませんでした。」
 
この歪みは大きい。ほとんど国策になっている地震防災策が、どこを目指しているのか、分からなくなっている。
 
現在の地震予測における、「30年以内の地震発生確率」を公表する必要性は、どれほどあるだろうか、と著者は言う。
 
そもそも「全国地震動予測地図」は、どうしてこれほど外れるのか。近年の地震で、当たったものは皆無である。

著者はその理由を、こう説明する。

「理由の一つとして、数十年から数百年ごとに起きるとされる海溝型地震と、数千年、数万年単位で起きる内陸の活断層型の地震を、『30年』という短い間隔に当てはめて予測をしていることが挙げられる。」
 
この「30年」という数字は、人が人生設計をする上で、ちょうどいい長さということで、地震学的な意味はまったくない。
 
著者は最後にこういう。

「地震学がするべき事は、いつにこだわるのではなく、その地にどのような被害が起こりやすいのか、防ぐためにはどんな対策が必要なのかということを正しく伝えることなのではないだろうか。」
 
こんなきれいごとでは、それこそ何も言っていないに等しい、と私は思う。
 
ではどういうふうに、この国の地震学を引っ張っていけばよいか。そう考えると、私などには見当もつかない。
 
いっそ地震学なんて、きれいさっぱり辞めてしまってはどうか。そういう乱暴なことを思えば、この日本にいて絶対に必要なのは、地震学だということが分かる。
 
元気なナマズでも飼っていた方がいい、という田中真紀子の言い草が、面白いけれどもそうはいかない、と引っかかったのは、そういうことである。
 
読み終えてしばし呆然とし、今もまだ同じ心持ちである。

(『南海トラフ地震の真実』小沢慧一、
 東京新聞、2023年8月31日初刷、2024年3月11日第5刷)

どう考えたらいいのか――『南海トラフ地震の真実』(小沢慧一)(2)

そもそも南海トラフ地震は、高知県室津港〔むろつこう〕の水深データを測って、それに基づき推測したものだ。
 
著者は、このデータは一体いつごろ測ったものか、という疑問を抱く。そしてこれが、なんと江戸時代に遡ることを発見する。

土佐藩では、江戸時代に「港役人」という役職があり、代々、久保野〔くぼの〕家の者が、港の水深を測っていたのである。

江戸時代の役人に、近代科学における港の水深データを測ることはできない。というか、そもそもどこをどうやって水深を測ったものか、皆目見当もつかない。

ところが、1930年に「久保野文書」を引用して、港の深さを学者が報告し、そのデータをもとに1980年に、ときの学者が、南海トラフ地震に適合するモデルを提唱したのだ。
 
そして国がそのモデルを利用して、70~80%の確率で地震が起こることを、予測したのである。
 
つまり「久保野文書」に書かれた、室津港の水深データが、予測モデルの最大の根拠なのである。このデータに基づき、厖大な予算が組まれた。

「南海トラフ地震対策は2013年度から2023年度までに約57兆円が使われ、さらに2025年度までに事業規模15兆円の対策が講じられる国土強靭化計画の重要な旗印の一つで、地震調査研究関係予算は年間約100億円(2023年度概算要求額)が使われている。古文書は南海トラフ地震の『切迫性』を示す重要な根拠だ。」
 
この「第4章 久保野文書を追う」と「第5章 久保野文書検証チーム」は、まことに面白い。
 
物事の前提に戻り、そのまた前提に戻り、ということを繰り返していけば、とんでもないところに出てしまう。そういうことが、こともあろうに、地震予測データの世界で起きたのである。
 
そもそもこの原典は「写し」であり、さらにその原典も「写し」であり、もう一つ奥の原典も、江戸時代の村役人が、手帳に書いていたものの「写し」なのである。では、本物の原典はどこにあるのか。
 
著者たちは、さまざまな史料を捜したが、これが原典だというものは、ついに見つからなかった。著者は、藪の中というか、深い森の中をさまよい、途方に暮れている。
 
私にはここまででも十分面白いが、これから先は、地震をどう予測するかの話で、もっと面白くなる。いや、面白いでは済まない、厄介な問題を抱えている。
 
ところで、「地震予測」と「地震予知」は、地震関係者の間では違うということを、私は知らなかった。

「地震予測と地震予知とでは、その手法が異なる。地震予測は過去に起きた地震の統計から、『30年以内に何%』などと大ざっぱな次の地震の時期を予測するものに対し、地震予知は地震が起きる前に発生すると考えられている前兆現象を観測でとらえ、『3日以内に静岡県で地震が発生する』などとピンポイントで言い当てるものだ。」
 
結論を先に言うなら、現在の地震学では、因果関係が証明された前兆現象は、発見されていない。つまり地震予知はできない。
 
しかし政府は、1978年から約40年間、地震予知ができることを前提とした、防災対策を取り続けた。「地震予知のため」といえば、巨額な研究予算が下りてくる、という体制が続いてきた。
 
1978年に地震予知を前提とした、「大規模地震対策特別措置法」(「大震法」)ができ、静岡県は地震防災対策強化地域として、1979年度から2020年度までに、2兆5119億円の対策費がとられた。

「『予知情報』を発表した場合は、首相が強制力のある『警戒宣言』を発令し、百貨店の営業停止や鉄道の運行停止など経済活動を制限して地震に備えるという、国家を巻き込んだ大がかりな仕組みだ。なお、空振りの場合一日数千億円の損失が出ると試算されていた。」
 
このころは世論も含めて、地震予知ができればいいな、から地震予知はできる、にすり替わっていたのだ。今になって、その迷妄はいくらでも非難できる。
 
ただ私は、今から振り返って、地震予知はできる、とした人々を、一方的に非難する気持ちにはなれない。そのとき、地震予知に一生をかけた科学者は、かならず何人かいたはずである。それを、できるわけないじゃないか、と笑うことは、私にはためらわれる、というかできないのだ。

どう考えたらいいのか――『南海トラフ地震の真実』(小沢慧一)(1)

こういう本はあまり好きではない。いろんな人が名前を挙げるので、何冊か本を買ったついでに、つい買ったものだ。

読む前に想像していたのは、地震のデータを集めるのに作為があり、それに従って予算が下りるために、科学界と政界が一緒になって、うまい汁を吸っている。それを熱血新聞記者が暴いてゆく、というものだった。
 
本の4分の1くらいまでは、そういうもので、大して面白くはない。

しかしそこから先が、自分でもどういうふうに考えたらよいのか、分からなくなってしまった。つまり大変面白かった。こういうことがあるから、本のついで買いはやめられない。
 
そもそも南海トラフの、トラフとは何か。

トラフは「盆」や「くぼみ」を意味する。南海トラフとは、「静岡県の駿河湾から遠州灘、熊野灘、紀伊半島の南側の海域および土佐湾を経て宮崎県日向灘沖まで続く、海底の溝状のくぼみのことだ。」
 
もう少し細かく、地震に即して言うと、南海トラフのこのくぼみは、海側のプレートが、陸側のプレートの下に沈み込むことで生じている。これはたぶん、テレビなどで見たことがあると思う。

「海側のプレートは年数センチのペースで沈み込むが、そのときに陸側のプレートが一緒に地下に引きずり込まれる。元の形に戻ろうとする陸側のプレートにはひずみが溜まり、やがて限界に達して跳ね上がると、大きな揺れが起こる。」
 
この「やがて限界に達して(地震が起こる)」の「やがて」が、どのくらいかが問題なのだ。
 
現在は「2013年評価」というのが出ていて、これによれば地震は、2034年ごろに60~70%の確率で起こるとされている。
 
こんなに高い確率は、南海トラフ以外には知られていない。そこで、それ以外の地域では、むしろ安全を売り物にする。

熊本や、北海道地震の札幌市、苫小牧市は、長期評価においては地震がない、というデータを使って、企業誘致を進めていた。とんでもないことだった。

逆に言えば、南海トラフの研究だけは、国からの予算を獲得する「打ち出の小づち」だったのである。

「第三章 地震学側vs.行政・防災側」は、2013年の議事録によれば、地震学者と行政・防災側が真っ二つに割れている。著者は議事録を逐一読んでいくが、これがスリリングな面白さに満ちている。

「〔南海トラフ地震の〕対策は実務者レベルでも、地方でも、全部動いているわけです。何かを動かすというときにはまずお金を取らないと動かないんです。」
 
議事録は公開されるにあたっては、発言者は黒塗りである。こういうことでは、情報公開制度の意味がないだろう、と私は思う。
 
それはともかく、著者は、この生々しい発言に絶句する。

「確率が防災予算に影響することはあるだろうが、確率を決める議論と防災予算獲得の議論は別の話で、一緒に論じるべきではないだろう。」
 
ここまでの私の要約は、非常に乱暴なものだが、ごく大筋を言えば、そういうことだ。そしてここまでは、予想されたことだ。しかし、この後が違う。