春日太一は丹念に、橋本忍の映画のタイトルを追っていく。それは読んでいただきたい。それよりも、このブログのタイトル、〈ただもう、びっくりした〉と言えるところに、焦点を絞りたい。
橋本忍はシナリオ執筆の動機として、次の3カ条を挙げている、「いくら稼げるか」「面白いかどうか」「名声が得られるか」。
いずれも大事だが、声高に言うことではない、と私は思う。俗臭紛々、語るに落ちる気がする。しかし本人は大真面目である。
橋本によれば、当時のシナリオライターたちは、「みんなこんな大きな家がもてるんだ」と言えたらしい。それがまず、シナリオを志す第一番目の動機だ。
次の「面白いかどうか」は、初期の『羅生門』『真昼の暗黒』『切腹』『仇討』あたりの執筆動機は、まさにこれであるらしい。
しかし「面白いかどうか」は、私に言わせれば雑駁に過ぎる。どういう面白さか、それが問題なのだ。
例えば、1951年の八海事件を題材にした『真昼の暗黒』は、5人の強盗殺人犯のうち、最終的には4人が冤罪で、無罪になった。
『真昼の暗黒』は、橋本忍が「一人の脚本家」として、高い評価を得ることになった作品である。キネマ旬報ベスト・テン1位、毎日映画コンクールの日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。今井正が各監督賞を受賞し、橋本忍もそれぞれの脚本賞を受賞した。
橋本忍は、「なぜこの映画を書いたのか」と聞かれるたびに、こう答えていた。
「国家の裁判制度というのは巨大な歯車が回っているようなもので、それに絡まれたらもうどうしようもないんだ」。
社会派、正義派の面目躍如! しかしそれは、タテマエに過ぎない。
「国家の裁判制度がどうのこうのなんて考えてる限り、実際にはシナリオは書けないんだ。書けないんだけども、そう言ったほうが通りがいいから言うの」。
では本当は、どういうつもりで書いたのか。
「〔今度の映画は〕無実の罪になってる人が四人いるんだ。それにみんな母親や恋人がいる。つまり、四倍泣けます、母もの映画だ。〔中略〕
その後、僕はいろいろな新聞記者に聞かれたりした時は、『国家機構がどうの』『裁判機構がどうのこうの』『刑事訴訟法と新刑事訴訟法の違いがどうのこうの』いろいろ言ったよ。でも、本当は『四倍泣けます、母もの映画』で作っていたんだ」。
いやあ、「社会派作家」の仮面を捨てて、これだけ内情を語ってくれれば、いっそ気持ちがいい。
それはそうだが、一方でこんなことも喋っている。
「〔四人の〕苦悩や憤怒の鉾先は、決して一警察、一検察庁、一裁判所に向けられたものではない。もっと大きく巨大で無慈悲なもの、弱い人間達を虫ケラの如く圧し潰して行く、巨大な鉄の輪〔ローラー〕に対する限りなき怒りなのである。」
ここは聞き捨てならない。この「鉄の輪」とは、一体どんなものだろう。
「私は決してこれを現在の社会機構だとか、国家機構だとは思っていない。むしろ、自分自身の心の中に巣くっている怠惰と無気力な精神であると思っている。つまり私は眼前の物事に対して正邪の判断を下し、その結果を勇気をもって主張するより、ともすれば、だまって誤りを見のがすほうが、処世上、はるかに楽な場合のほうが、ずうっと多いことを、よく知っているからだ。」
お分かりだろうか。冤罪を作っているのは、これを見ているあなただ、と言っているのだ。現代人の怠惰と無気力の、厖大な集積によって、あの恐ろしい巨大な「鉄の輪」ができあがったのだ。
春日太一は橋本忍を、統一的で単純な人格に持っていこうとする。これは春日太一の人間観の問題である。その結果、橋本忍は「映画はエンターテインメントに徹するべき――その考えを終生貫いた」、となる。
私は、橋本忍は、そうではないと思う。いや、そういう一面もあったが、エンターテインメントに徹すると同時に、つまりそれを「形式」として、そこに盛り込むべきものを、徹底的に考えて抜いたと思う。