ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(5)

黒澤明は1952年に『生きる』を撮り、54年に『七人の侍』を撮っている。いずれも初期の代表作であり、黒澤を世界的巨匠と位置付けた名作である。
 
ところが、脚本を書いた橋本忍にしてみれば、これは面白くない話である。

「一番大事なことは、『羅生門』『生きる』『七人の侍』というのは、僕が先行して書いているんだ。共同脚本といえども、みんなで一緒に書いたものじゃないよ。そして、先行作品というのは――正直言うと先行して書いたその人の作品だと思う。だから、『羅生門』『生きる』『七人の侍』というのは、僕がいて初めて成立した作品。僕の作品なんだ」。
 
うーん、びっくりしたな。こんなことが成立するなら、あらゆる映画は、もともとは脚本家のものである、ということになるではないか。
 
山田太一の『月日の残像』というエッセイは、優れた文章で、私は脳出血以降の10年間、リハビリのために、たびたび朗読している。そこに、こんなことが書いてある。

「監督になるのが怖い。あの大勢の人たちとの仕事、予算、天候に左右され、人事に気を配り、役者の都合、我儘、無能とたたかい、その体力を要すること脚本家、小説家の比ではないと思ってしまう。」
 
監督は大変だという話。こうして紆余曲折があって、作品が完成する。しかし、それで終わりではない。

「一本完成すると、舞台挨拶で全国を回ったり、テレビやラジオや雑誌のインタビューだって宣伝のためには断れない。同じことを何十遍もいわなくてはならない。俳優さんたちとの交際とか、周囲の過剰な期待とか、無論それが性に合っている人ならいい。社交が苦痛ではない人ならいいけれど、私はすぐ一人になりたくなってしまう。片隅にいたくなる。」
 
本来、脚本家とは、こういう性質をもった人々ではないか。
 
山田太一は大学を出て、松竹の撮影所に入った。そこで何年間か過ごすうち、助監督から監督になるコースを修正して、脚本家として独立した人である。
 
橋本忍はその前提、下積みの期間がまったく抜けている。そしてこれは、終生身につくことがなかった。
 
橋本忍は晩年に至るも、春日太一の取材に対して、「『羅生門』『生きる』『七人の侍』は、僕の作品なんだ」と主張していたという。
 
しかしそれはそれとして、ベテラン脚本家、小國英雄を交えて、3人の合作である『生きる』を、実際に完成させるまでには、試行錯誤があってまことに面白い。このたびも、橋本忍、黒澤明、小國英雄の言い分は、例によって「藪の中」で、もうこれはそういうものだ。

そして『七人の侍』もまた、この3人の合作であり、執筆に要した期間は計八カ月、総分量ペラ504枚にのぼり、上映時間は3時間半、これは紛れもない大作である。
 
春日太一は『七人の侍』を、これ以上はないくらいに絶賛している。

「公開されるや大ヒット作となり、また後年には『映画史上最高の名作』と国の内外で賞賛され、多くのエピゴーネンとなる作品も生んだ。その後に作られた世界中の娯楽映画の大半は、大なり小なり『七人の侍』の影響下にあるといって過言ではない。」
 
そ、そんなことはないでしょう。春日太一は高揚して、筆が滑ったのである。
 
しかし『七人の侍』を見た直後なら、そういう胸の高鳴りも理解はできる。
 
橋本忍は『七人の侍』を書いた直後を、春日太一にこんな言葉で伝えている。

「『七人の侍』を終えて、これからなんでも書けると思った。なんでも書けて当たり前と思った。〔中略〕
 というのはね。伊丹万作で基本的なことを教えられて、黒澤流で三本も習練したらね。よほど僕が馬鹿か阿呆でない限り、一人前のホン屋になれるのは当たり前だと思ったわけだ。」
 
これは自己を客観的に見ていて、なかなか素晴らしい。
 
しかしこの後が、いかにも橋本忍なのだ。

「それと同時に『待てよ』と思ったわけ。それは、僕はすごく『選ばれた人』ではないかという気がしたんだよ。というのは、伊丹万作に基礎を教わって、黒澤組で習練して――という機会に恵まれるのは、もう僕しかいないんだよ。伊丹万作は死んでいるから、もう伊丹万作に基礎を教えられた者はない。誰も教わることはできない。
 だから、僕は選ばれた人で、誰も僕を超えることはできない。あの時にそう思えたんだ。だから、なんでも書けると思えた」。
 
それはその通りである。誰も否定はできない。しかし、それを本人自らが、公言するだろうか。
 
そして自ら公言する人は、どこかで自己認識を誤っており、一般にはどうしようもない奴、と思われている。
 
そんな中でただ一人、橋本忍だけが憚りなく公言をし、そしてその通りの道を歩んだのである。橋本忍、いったい何者だろう。