ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(4)

橋本忍は、ふだんは厳しい伊丹万作が、黒澤明のシナリオを手放しで誉めていたことが記憶にあり、人を介してシナリオを黒澤に送った。
 
それから一年と経たないころ、『雌雄』つまり『藪の中』を黒澤明が映画化する、という話が持ち上がったのである。
 
ただ『雌雄』は、ペラ(シナリオ用の200字詰め原稿用紙)100枚を切り、45分にしかならない。
 
知恵を絞った橋本と黒澤は、『羅生門』と『藪の中』を組み合わせることを考える。
 
ところが、この組み合わせをどちらが主導したかが、今となっては分からない。
 
春日太一は、執拗に真相を見究めようとするが、黒澤明は鬼籍に入り、橋本の証言も最終的には怪しい。
 
映画は集団芸術で、ひどいときには最初から、誰が言いだした企画やら分からない、ということがある。

このブログでも取りあげた『仁義なき戦い 菅原文太伝』で、『仁義なき戦い』の企画には、役者、プロデューサーなど4人ほどが、後になって名乗りを上げている。これは行けるとなれば、各人が入れ込むから、結果としてこうなる。
 
映画の『羅生門』は、作る過程で手ごたえがあったろうから、自分が責任をもってシナリオを書いた、と言いたくなる気持ちはわかる。そこで真相は「藪の中」となる。
 
そんなことよりも、療養所で初めて、映画のシナリオを見たところから、黒澤明の『羅生門』完成まで、橋本忍の自伝物語としては、あまりにも出来過ぎてはいないだろうか。はっきり言って、ほとんど奇跡の連続ではないか。
 
しかし春日太一を信用する限りは、橋本忍の人生に、そういうことはあったようなのだ。
 
黒澤明監督の『羅生門』は、1951年にヴェネチア国際映画祭で、グランプリを獲得する。

「世界のクロサワ」がヴェールを脱ぎ、登場人物の証言に食い違いのある物語構成は、「羅生門スタイル」と呼ばれ、新しい脚本技法として世界的に広まっていった。
 
では橋本忍はどうしたか。デビュー作が、いきなり世界的な賞を得たのだ。脚本家として鮮烈なスタートを切った、――ということになるはずだが、そうはならなかった。

『羅生門』を書きあげた段階では、橋本はまだサラリーマンであり、しかも脚本家になるつもりもなかった。
 
ところが期せずして、会社の業績が左前になり、人員整理で辞めた連中が、橋本忍をトップにして会社を作ろうとする。
 
橋本も、そちらへ片足を突っ込みかける。

「だけど、よく考えてみると、そういう事業体は戦争みたいな大きなことがあって初めて景気が良くなるんだよ。あれだけでかい戦争があったんだから、もう二十年や三十年は戦争はないと思ったの。それよりは、僕はシナリオが書けるんだったらシナリオライターがいいのかなっていう気がしたりして。結局は迷った末にシナリオのほうへ傾いていったんだよ。」
 
この本では、橋本忍の証言は、すべてゴチックにしてある。そして、この部分はもっとも橋本忍らしいところだ。
 
第2次大戦が終わったばかりで、日本中が、もう永久に戦争はしませんというときに、橋本忍は、「もう二十年や三十年は戦争はないと思った」と語っている。
 
これはどういうことなのだろう。
 
新会社のチームから抜けて、シナリオ専属になって2,3か月たったころ、朝鮮戦争が起こった。

「これは大失敗したと思ったね。あれだけ大きい戦争があったら、大儲けできるからね。僕を支えてくれる連中と一緒に会社を興してたら、うまいこといっただろう。それで、それが難しくなりかけた頃にベトナム戦争でしょう。だから、あの頃は事業家にとっては大変よかったんだよね。」
 
どこまでも現実的で、これからの日本を創ろう、という理想はない。朝鮮戦争、ベトナム戦争は、会社を隆盛にしていく機会に過ぎない。
 
戦後最大の脚本家の思想は、一体どういうものだったのだろう。
 
これだけ読むと、橋本忍はつまらぬ奴だ、となりそうだが、そういうことなのか。

では、『生きる』『七人の侍』『私は貝になりたい』『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』『人斬り』などは、どういう観点、人生観から、書き進められたのか。
 
個別のシナリオについては、また述べる機会があるだろう。
 
私は、橋本忍は「彼岸の眼」「末期〔まつご〕の眼」を持っていたと思う。戦争に行って死ぬか、結核で療養所で死ぬか、いずれにしても、近い将来、死は避けられない。自己の死を、はっきり見定めた数年間があったと思う。

そういう経験のある人のみが持つ、あらゆることにおける「諦念」に似た気持ちをもって、事にあたろうとする態度、――橋本忍のシナリオは、そこをくぐり抜けた人のみが持つ凄み、奥深さ、複雑さが、あったのではないか。