ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(2)

橋本忍は、徴兵にとられ出征する直前、結核に罹っていることが分かり、岡山療養所に入る。そこで隣の男から、映画雑誌のシナリオを見せられる。
 
橋本には、初めて見るシナリオが、えらく簡単に書けそうに思えた。

だからそう言うと、隣の男、成田伊介は苦笑して、実際にやってみると、簡単なものではないという。
 
橋本は、自分ならできると言い、「これを書く人で、日本で一番偉い人はなんという人ですか?」と聞いた。
 
する成田伊介は、伊丹万作という人だと答えた。
 
この辺りのことは、おそらく橋本忍も、もう覚えていないだろう。あとで辻褄合わせになっている可能性が強い。50年以上昔の事であれば、自分のことを考えても、そういうことになりがちだ。
 
成田伊介は、結核で間もなく死ぬ。しかしこのとき、療養中で暇をもて余していた橋本忍に、映画のシナリオを見せていなければ、映画界最大のシナリオ作家は生まれていない。そうすると、あのいくつもの名作は、生まれていないのだ。日本映画の歴史は、まったく違うものになったろう。そう考えると、本当に不思議な気になる。
 
1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、日本は太平洋戦争に突入する。
 
以下は橋本忍が、春日太一の取材に答えた言葉である。

「支那戦線で戦っていた奴はみんな、必ずしも中国に勝ったんではないということを知っていた。日本は面ではなく点と線を確保しただけに過ぎない。だから、いつまでたっても解決がつかなかった。
 中国だけでそんなになっているのに、その上アメリカと戦争してどう勝つの――というのがあの時の兵隊の意識だよ。だから、あの軍艦マーチを聞いた途端に、僕も含めてあそこにいたみんなが『負けた』という感じだった。」
 
後になってのこういう発言を、どんなふうに受け取ればいいだろうか。ひとまずそういうものとして、肯定的に保留するしかない、と私は思う。
 
橋本忍は、とにかく数年後には戦争に負けて日本はなくなる、どうせみんな死ぬんだから、療養所を出て、外の世界で目いっぱい生きようと思った、と述べている。
 
1942年に療養所を出た橋本忍は、43年に結婚し、44年には長男を得る。療養所では、結核で2年は持たないといわれていたが、そんなことはなかった。
 
橋本は当時、軍需徴用により、姫路にある中尾工業で経理を担当していた。これは後にプロダクション経営に役立つことになる、と春日太一は言う。
 
そして橋本忍は、このころから本腰を入れて、シナリオを描き始める。

「大きく揺れる汽車の車両でも執筆を進められるよう、橋本は大きなカバンからベニヤ板の紙ばさみを取り出し、そこに用紙を挟んで書き進めたという。往路は始発からすぐなので座って描くことができたが、帰りは帰宅ラッシュ。〔中略〕車内ではメモとして思いついたことを思うままに書くに留め、日曜日に自宅で推敲し、削除や修正を重ねながら仕上げていった。」
 
こんなことが、どうしてできたのだろう。片道50分の汽車通勤で、「ぼんやり外を見ていてもつまらない」から、というのが、橋本の執筆動機だという。
 
日本が戦争で負けそうになっているとき、勤めを持った人が、通勤の電車の中でシナリオを描いている。これは異様な光景ではないか。
 
私は、妻の田中晶子に聞いてみた。そもそもなぜ、高校生のとき、「人形嫌い」というシナリオを、書いてみようと思ったのか。

「そのころは早坂暁、向田邦子、山田太一などがいて、脚本家も輝いていたから。それに小説よりも簡単そうでしょ。」
 
なるほど筋は通っている。でも、そういう高校生は他にいなかったし、それ以後もいない。やはりよくわからないところは残る。
 
橋本忍が、何に突き動かされていたかは、結局わからない。ひょっとすると、本人にもわからなかったのではないか。

ともかく橋本は、ついにシナリオを描き上げ、そのとき結核で寝ていた伊丹万作に、送ったのである。