「戦後論壇の巨人たち」には魅力的な名前が、まだいくらでもある。もちろん全部、読むに値するのだが、その中でも大宅壮一・三島由紀夫・葦津珍彦・清水幾太郎・羽仁五郎・丸山眞男は、個人的に興味を引く。
羽仁五郎や丸山眞男など、思想的に坪内さんと対立する人は、どんなふうに書き記したのか。
あるいは清水幾太郎のように、左から右に大きくカーブを切った人の場合、あるいは葦津珍彦のように正真正銘、右翼の大立者の場合、いわゆる「戦後論壇の巨人たち」に入れるのは、かなり覚悟を要する。
もちろんどの人も、思想別にローラーをかけて分類したりせず、その人の書いたものを丹念に読めば、おのずとその姿が立ち上がってくるのだが。
そういう「巨人たち」は、本文を読んでいただくこととして、ここでは京都の碩学、宮崎市定を取り上げる。サブタイトルは「現実を眺める歴史家の眼差し」である。
宮崎市定は中国を中心とするアジア史の専門家で、『科挙』『水滸伝』『中国史』などは、専門家はもとより、幅広い読者の支持を受けた。
坪内さんはここでは、雑文集『東風西雅』と随筆集『木米と永翁』から引用している。
まずはわが国の、大方の言論人が礼賛した、文化大革命について。
「少し早まった言い方かも知れないが、中国の文化大革命は、共産主義運動がもつ一つの限界を示すものではあるまいか。先ず破壊せよ、そのあとに良いものが出来る、と教えるが、その良いものはなかなか出てこない。これは理由のあることで、各国はそれぞれ数千年の過去を背負っているから、一朝一夕にして従来の伝統から抜けきれないのは当然すぎるほど当然なのだ。」
マスメディアが揃って前を向くとき、ひとり左右両横も見た方がよい、さらに後ろも見た方がよい、と言い続けるのは勇気のいることだ。
しかし学者が、たとえ一人になろうとも、信じるところを述べないのであれば、学者の看板を下ろした方がよいと、この人を見ていると思う。
「私は当時流行した、歴史哲学で歴史を考え、唯物史観で歴史を見る行きかたには、ついていく気がしなかった。それでは歴史学そのものの独自な存在を否定するように感じたからである。他人の理論で造った眼鏡に度をあわせて見ていれば、やがて自分自身の視力が破壊されるに違いない。しまいには他人の眼鏡を借りなければ物が見えなくなってしまいはしないか。」
いかにもまっとうなことが書かれているようだが、こういうことを言うためには、よほど自分の目を鍛えてなければいけない。そういう人はほとんどいない。
私はすぐに『東風西雅抄』を注文した。
第2章から第5章までは、ひとまとめに括ってしまえば、『文藝春秋』と『中央公論』を中心とした、ジャーナリズム論である。
今読めば、そして坪内さんの書きぶりも、いかにも昨日のこと、つまりオンリー・イエスタデイの気分が強いが、後に読んでみれば、第一級の資料となるだろう。
さてここで、最初の問題に返ろう。
なぜこの国には、知識人といえる人が、ほとんど残っていないのか。そしてそれが、補填されないのはなぜなのか。
それは、専門が細分化されて、大きなところでまとめて何か言うのが、個人には難しくなったから。その類いの月並みなことは、すぐに言える。
坪内祐三は、その方向からではない、実地に即したことで、実感を込めて、このごろのことを話している。
それは、インターネットの社会的影響ということだ。
たとえばツイッターを「眺め」てみれば、そこには「文脈」がない。その文脈のない言葉が、次々に拡散(リツイート)されてゆく。
「本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命だと言っても過言ではないでしょう。そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。
しかし、消えゆく雑誌に対する、ざまあみろ、というつぶやきも、幾つも目にしました(つぶやきたがる人の特徴の一つはルサンチマンがとても強いことです)。」
文脈をもった文章が、かりに活字になって、もし人前に表われることがあっても、それはルサンチマンをバネにした、文脈のない言葉の洪水にかき消されてしまう、というのだ。
これは今のところ、どうしようもないことだが、しかし必ず、心に留めておくべきことである。
(『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』
坪内祐三、幻戯書房、2018年1月15日初刷)